2、夏は嵐に乱れる心(一)
夏は苦手だ。
春も憂鬱だが、暑いと単純に生命の危機を感じる。
それでも、夏の夜は好きだ。乾上がる様な陽射しが消えて、ひっそりとした暗闇にわずかにぬるんだ風が吹く。それを肌で感じるのが好きだった。
だがそれは、もう少し先の話になるだろう。今はまだ梅雨が明け切らず、雨のやむ気配さえないからだ。
その癖に気温は高く、寝苦しい。絶える事のない雨音と、就寝中はエアコン不使用のポリシーのせいで眠れない日が続いていた。
この夜もそう。明け方まで苛々しているくらいなら、もういっそ起きよう。そしてコンビニで涼もう。ほぼ腹立ちまぎれにそう決めて、ふとんから抜け出すとTシャツに薄いパーカーを羽織った。
開いた傘の下、濡れた道路をスニーカーで踏んだ。湿度のせいで空気が重い。それでも肌が夜気に触れると、反射的にほっと息が零れた。
出て来たばかりだと言うのに、戻りたくないなあ、なんて、頭の隅に思う。
実はここ数日、部屋にいても落ち着かない。離婚間近の家庭じゃあるまいし、ひとり住まいの家に帰りたくないなんて、どうかしてる。
……いや、理由はよく解ってる。ただ前向きに考えるより、何とか逃げ切りたい気持ちで一杯なだけだ。
二階建てのアパートを離れたら、車が一台やっと通れる幅の道路。曲がったり分かれたりした道は、街灯がぽつぽつと照らすだけ。塀や建物の隙間には細い抜け道が幾つも抜けるが、その中は影に沈んでほとんど見えない。
コンビニを目指して道を行く。小道のひとつを通り過ぎ、濡れたアスファルトを踏む足がぎくりと止まった。
何か、見た気がする。
大人の肩幅程の路地。眼の端で捉えた、その暗い空間の中。
解ってる。本当は、そのままそっと立ち去るべきだった。でも、立ち竦んでしまった。真夜中と言う心細さ。恐ろしさが足元から全身をやわやわと毒し、反して同時に正体を確かめたいと本能の様に願う。
落ちて来る雨粒に鈍く震える傘の下、どきどきと騒ぎ始める胸を押さえた。恐怖か、期待か、もう解らない。闇に凝らす眼に、薄く輪郭が浮かび上がった。
寝苦しい陽気とは言っても、雨はまだ冷たいはずだ。暗い中でうずくまった人影は、それを避けようともしない。
正直、私には真っ黒な固まりとして見えるだけだ。けれども逆に、あちらからはよく見えるだろう。まばらとは言え、電柱にくっ付いた街灯が道の上を照らしている。
影の中に潜むそれも、私の存在に気が付いた様だった。はっと頭を上げるのが気配で解る。
大人の、多分男だ。彼は私の姿に、雨音の中でも聞こえる程に大きな息を吐いた。
私は、首を傾げる。
ため息はやたらとのんびり耳に響いて、何だか微妙な気分になった。
ほっとした様な、それとも呆れた様な。いや、もしかすると、がっかりしたのかも知れなかった。納得行かない。
人の顔を見て、その反応はどうなの?
一瞬の内に腹を立てたが、すぐにそれどころではなくなった。彼が、口を開いたから。
「すずサンか……。こんな時間に、何してる?」
それは、まるっきりこちらの台詞だった。
その呼び方。そしてその声。
私は慌てて駆け寄って、傘を差し向けながら顔を寄せる。
「そっちこそ何してるのよ!」
――門真だ。
余りに驚いて、私の口調は叱り付けるみたいになった。
まあ、ちょっと。なんて言いながら、濡れ鼠の男は乱れた髪を掻き上げる。
門真。それは全く、何の説明にもなってない。
こんな夜中に、全身ずぶ濡れの男が道端でうずくまってる。余裕で通報されるレベルだ。必死で釈明すべき場面なのに、言葉を濁してどうする。
「何? 馬鹿なの? 帰りなさいよ」
「家は、ちょっとね」
不都合があるらしい。何だろう、家賃滞納で家を追い出されたのだろうか。
つい、経費で家賃を落とそうとした社員の顔が思い浮かんだ。ない話ではない。
「じゃあ、会社は? シャワー使えるし、着替えくらいあるでしょ」
「会社も、ちょっと」
一体何をやらかしたんだ、門真。
家も駄目、会社も駄目。あれか、手配犯か。膝から崩れそうになるのをどうにか堪え、触った端から雨水の染み出すスーツを掴んだ。
ここで、放って置ける訳がない。
「家、会社から近過ぎない?」
「通勤時間長いと駄目なのよ、私」
そんな会話をしながら、無駄に大きな体を自宅アパートのドアに押し込む。
ずぶ濡れの門真を玄関に立たせ、タオルを投げ付けてから彼のために着替えを探した。が、どうしろと。私の部屋に、男物の服なんかあるはずない。
できれば熱いシャワーでも使わせたかったが、夜中だし、ここは二階だ。
諦めたほうがいいだろうと考えながら、パジャマ代わりにしている大きめのTシャツとジャージを手に振り返る。
そうして、悲鳴を上げそうになった。
「――あァ、見た目ほどの傷じゃないよ」
服からしみ出た水溜まりの中に立ち、自分の体を見下ろして言う。言葉も出ない私の様子に、門真は初めて自分の状態をかえりみたと言う感じだ。
それは嘘だろうと、責めたくなる。
黒い上着を脱いだ彼の、その下で白いはずのワイシャツが左半身を赤くしていた。
血の色だ。シャツの肩が裂けている。
「病院」
しばらく呆然と見詰めたあと、やっとそれを思い付く。とにかく、医者だ。そう思った。
だが門真は、眉をひそめる。
「いや、もう構わないでくれ」
何だそれ。
その顔をじっと見上げても、考えてる事はちっとも解らなかった。解る訳ない。何を言っているんだろう、この男は。
構わないでくれ?
淡々と、硬い声で。迷惑そうに眉をひそめて。
それはさ、要らないって事? 心配するのも、迷惑って事?
突き放された。そう感じた。
ぶつけたい言葉は幾らでもあるのに、どれも喉に引っ掛かって出て来ない。
結局何も言えず、買い物に行くと理由を付けてアパートから逃げ出した。
そして私は今、コンビニの明るい店内で男性下着の前に立ち尽くしている。
門真のために必要だ。買わなくてはならない。と言うか、これを買うためにここにいる。が、サイズが解らない。確かめるのを忘れたと、結構前に気付いてはいた。だけど何だかもう、指一本動かしたくない。
果たして本当に、いいものだろうか。門真と言う人間をこれっぽっちも知らない私が、下着の購入と言う極めてプライベートな領域に関わっても。どうだろう。趣味と言うものもあるのだろうし。ねえ。どうよ。
下着の棚を見詰めて、延々とそんな事を考えていた。
まあ、意味の解らない迷宮で完全に迷子になっているが、私なりに落ち込んでいたのだ。
ちょっと仲がいいと思っていた相手を、心配しただけだ。それを迷惑がるのもびっくりだが、自分に対してぞっとした。
相手がどう思ったって、私には関係ないはずだった。なのにどうして、こんなにショックなんだろう。
心のどっかで、期待していたのだろうか。私は見返りを、期待したんだろうか。
その考えは、酷く浅ましいものに思えた。
きっと、門真に私は必要ない。そんな事は当たり前だ。お互いにいい大人だし、私たちは他人なのだし。
それが今になって痛いのは、多分、私のせいなんだろう。
……やっぱり、どこかで期待したのだ。
喫煙室で顔を合わせるだけなのに、まるで秘密の共有者みたいに。いつの間にか、特別な友達みたいに思っていた。
彼に取っても私が特別ならいいと、そんなふうに期待したんだ。
これは私の勝手な失望。
門真の罪じゃない。――でもね。それはともかく、思うんだよ。
だからって、本当に私が悪いのか?
パーカーのポケットから携帯電話を取り出して、自宅の番号をコールする。当然と言うか予想通り、誰も出ない。三回目のコールで留守電に切り替わると、発信音のあとに私は大きな声を張り上げた。
「門真ー、ぱんつのサイズ教えろこらっ」
他にお客はいなかったが、レジにいた店員が眼を丸くしてこちらを見た。まあいい。私は今、ちょっと切れてる。主に常識が。
ためらう様な間を置いて、電話の向こうの返事があった。
『……すずサン、今どこ?』
「コンビニ」
『恥じらいって言葉、知ってる?』
「知ってるよー。あれでしょ。昔の古代日本人は大体使えたって、噂の超能力でしょ。おばあちゃんに聞いた事あるよ」
適当に答えながら、カゴの中にスイーツを投げ入れる。
知人が血みどろだったらさ、心配するのは当然だと思うのよ。人として。それを理解しないあっちのほうが、確実に悪い。絶対そう。人格に重大な問題があるに違いない。
責任転嫁気味に決め付けて、私は甘ったるい商品をどんどんカゴに詰め込んだ。
カロリーが必要だ。自宅で待ち受けるノーパン馬鹿男に対抗するために、必要なのだ。