1、春はまどろむ夜明けのまぼろし(三)
相模は、私から昼食の載ったトレイを取り上げた。片手にそれを持ち、残った手で私を引き摺る。
ああ、嫌なのに。一応、抵抗してるのに。
私たちが通ったあとには、倒れた椅子や斜めに歪んだテーブルが散乱している。抵抗の爪痕だ。
警務部の中で言えば、相模は細身のほうだろう。だがさすがに、私なんかでは掴まれた腕をほどけない。つまり彼の希望通り、一緒にお昼を食べる事になった。
食堂の窓際で向かい合わせ、ではなく、丸いテーブルへ直角に座る。斜め前に相模の横顔が見える位置だ。
一緒に食事をしている以上、何か会話をしなくてはと思ったのだろうか。相模はずっと喋っていたが、話題は恐らく唯一の共通点である門真について。しかも、ほぼ全て私に向けての質疑応答形式。
相模、その気遣いは本気で余計だ。
結局どの質問に対しても「さあ」や「解らない」としか答えられず、この人でなしに呆れられると言う耐え難い恥辱を受けた。
斜め前から、奇怪なものでも見下す様な眼を向けられる。
「ほんっとに何にも知らないんスね」
こちらは一方的に付き合わされている被害者に過ぎないのに、この言い様は酷くはないだろうか。
まあ、事実だけれども。苛々としたものが、胃の辺りから込み上げる。そんなに門真の事が知りたいなら、本人に聞けばいい。
「知らないわよ。悪かったわね」
口喧嘩なら買ってやろう。
少しばかりそんなつもりで、私は高圧的な口調を作る。けれども相模は、それを予想外の態度で、予想外の語句を使って受け流した。
「や、イイんじゃないスか。あのひとは、そんなトコが気に入ってるみたいだし」
けろりとした横顔が更に苛つく。
何を言ってるんだろう、こいつは。気の毒に、長い筋肉生活のせいで、頭の中まで筋肉になってしまったに違いない。
気に入ってるって何だよ、この馬鹿。
色んな意味で頭を抱える私に、相模は食後のコーヒーを傾けて淡々と言う。
「さっさと気づいてやって欲しいんスよね、オレとしては。めんどうなんで」
「何がよ」
「……ほんと、早いほうがイイっスよ」
最後に向けられたその顔と台詞は、何かを憐んでいたかも知れない。
*
窓から入り込む風が、微かな初夏の香りを感じさせる。春が終ろうとしているのだ。
空気そのものが瑞々しく輝き始めるかの様なこの時期が、私は大嫌いだ。
『いい加減、自分の年も考えなさいよ?』
受話器から聞こえるのは、耳慣れた母親の声だった。刺す様な言葉が耳に痛い。ついでに、胃まで痛い気がする。
せっかくの休みだから、気が済むまで寝てやろうと思ってたのに。朝早く鳴った電話をうっかり取ったら、これだ。一瞬にして眠気が吹っ飛ぶ。
ふとんから這い出して、壁のカレンダーにちらりと眼をやる。忘れてた。
「母さん、私の誕生日まだなんだけど」
『知ってるわよ。誰が痛い思いしたと思ってるの』
あんた、誕生日に絶対電話出ないじゃないの。
そんな小言の始まった受話器から耳を外し、ため息をつく。
『聞いてるの? あんたもう、二十九でしょ。ちゃんと考えないと』
何を考えるんだろう。
ふとんの上から腕を伸ばして窓を開くと、涼やかな風が頬を撫でた。
ひとり暮らしの狭い部屋で、首を傾げる。ちゃんと仕事して、ちゃんと生きてる。母親にはいつまでも子供に見えるかも知れないが、私はちゃんと社会人として生活しているのに。
またひとつ歳を重ねたと言うだけで、どうして否定されなくてはいけないんだろう。
私には解らない。
煙と一緒に、重い息が零れた。
それを門真が聞き咎め、私の頬に視線を注ぐ。
母の電話から、二日が経つ。地下フロアの喫煙室に隠れるのはいつもの事だが、今日はサボりじゃない。ちゃんと昼休みを利用して、隠遁している。
それにしても今日程に後ろ向きな精神状態も珍しい。大嫌いだ、こんなイベント。
「門真。誕生日、いつ?」
視線は正面の壁をぼんやり見詰め、隣に屈んだ男に問う。興味があった訳でもないのに、ついポロリと質問が零れた。
いきなり何を言い出したのかと、訝りながらも返事がある。
「ずっと先だな」
「嬉しいものよね、誕生日って」
「いや、一年で一番嫌いな日だ」
タバコの銘柄はマルボロに決めてる。
それくらいの何げなさだったので、私は一拍遅れ、それからゆっくり隣に眼を向けた。
「嫌いなの?」
「あァ」
「よかった」
われ知らず呟いて、最初は自分の口から声がもれた事にも気付かずにいた。そうと知ったのは、門真が驚いた様に眼を向けたからだ。
その視線に、私のほうが息を詰める。
まるで、心の底まで覗き込もうとでもするみたいだ。深い闇色の、心細げに揺れた瞳で。
「……何が、良いんだ?」
「私も、嫌いなのよ。自分の誕生日。でもそう言うと、みんな解んないって言うの。それか、ちょっと怒っちゃったりしてね」
どうしてそんな事言うの?
傷付いた様に責められて、困り果てた覚えがある。
そんなの知らない。当たり前みたいにおめでとうって言われても、自分で嬉しいって思えないだけだ。
そんなに罪深い事なのだろうか。生きる意味も知らずにいるのに、何がおめでたいんだろうって思ってしまう。
まあ、三十近くなったら、誕生日は憂鬱らしい。また歳を取るのかと。けれどもただ単純に、自分の誕生日が嫌いって人間もいる。こんなふうにね。多分、珍しいだろうけど。
だからこそ私は驚いて、そして薄い喜びが胸に広がるのを感じていた。
「大抵、否定されるのよ。そんな事ないでしょ、って」
こちらを覗き込むみたいに見下ろす門真を、逆に私は見上げて笑う。
きっとだらしなく、ふやけた顔をしていただろう。仕方ない。そんな気分だったのだ。
「似た様な事言う人に会うと、嬉しいわよね。仲間みたいで」
堪え切れず、小さな声を立てて笑った。何だかもう、いいや。落ち込むのも馬鹿馬鹿しい。
実は全然よくないのだが、例えるならゴールの見えないマラソンコース。前にも後ろにも人影がなく、私はたったひとりで走っている。自分の足音と、上がる息。そして体の内側を、ドンドンと叩く心臓の音。まとわり付くのは、泣きたくなる様な静寂だ。
そこへ見知らぬ誰かが不意に現れ、自分が躓いたのと全く同じ場所で躓いた。それを、間近で目撃してしまった感じ。
私はきっと一瞬呆けて、それから大笑いするだろう。笑ってから、大丈夫? なんて言って、手を差し伸べる。
強く手を握って、その人と出会えた事に感謝するのに違いなかった。
マラソンコース、ではない。ここは喫煙室で、誰も躓いて倒れてはいない。
でも私は、すぐ隣にしゃがみ込んだ大柄な男に対し、握手を求めて手を差し出す。
「よろしく」
門真は不可解そうなものを眉の辺りに浮かべたが、それでも私の手を握り返した。そしてその顔のまんま、ぼそと呟く。
「まァ……。俺も、仲間がいて嬉しいよ」
いい奴だ。全く納得してない感じがひしひしと伝わるのに、話を合わせてくれてありがとう。
それがおかしくて、小さく笑い声を上げた。すると門真は手を離しながら、ふと思い付いた様に口を開く。
「だけど、急にどうしたんだ」
「ああ。今日が誕生日なのよ、私。それで調子出なかったんだけど、元気になったわ」
昼休みはまだ二十分も残っていたが、勢いよく立ち上がって背筋を伸ばす。何かもう、大丈夫。
じゃあね、と声を掛けて仕事に戻ろうとする私の、制服のベスト。ウエストの辺りに付いた小さなポケットに、すとんとわずがな重みが滑り込んだ。
眼をやると、黒い袖に包まれた手が離れて行くのが見えた。首を傾げてポケットを探ると、冷たいものが指先に触れる。銀色の、オイルライター。これには見覚えがあった。いつも、門真が使っているから。
「誕生日は嫌いでも、プレゼントは好きだろう」
屈んで低い位置にある男の顔は、どこかいたずらな子供めいていた。
返事に困る。図星だ。
と言うか、素直に凄く嬉しかった。
銀のライターは傷だらけで、きっと長く使われて来たのだろうと窺える。執着心の薄そうな門真が、珍しく長年にわたって愛用したのだ。わざわざ買った品物ではないけれど、それが余計に嬉しい気がする。
「門真」
お礼を言わなきゃ。
そう思って名前を呼ぶが、向けられた顔を見たらそれじゃ足りない気になった。しゃがみ込んで煙を吐き出している男には、きっと私の喜びは半分も伝わらないのだろう。
それじゃ駄目。
ただの気まぐれだろうと何だろうと、彼のした事が私と言う人間をどれだけ幸せにしたか。それを解らせたい。
「門真、一度しか言わないからよく聞いてね。私、門真の事、コンビニ限定超豪華贅沢ティラミスより愛してる」
間違いなく、これは私に取って最大級の賛辞だった。……だったが、結果として、伝えたい相手には一ミリたりとも伝わらなかった。
コンビニの棚に贅沢ティラミスがないと、私がどれだけ落ち込むか。
気分を害したのかと疑う程に怪訝な顔で見上げる門真に、残りの昼休みを全て使って熱く説明しなくてはならなかった。