1、春はまどろむ夜明けのまぼろし(二)
午後の業務を再開し、すぐに経理を訪れたのは黒い厄介者だった。
いや、厄介者と言うのは言い過ぎかも知れない。……知れないが、私は胸の中で重い息を吐いて席を立った。
「どうも」
オフィスの入り口に置かれたカウンターに近付いて、声を掛ける。と、向こう側に立った男はがっかりした様に、黒っぽいスーツに包んだ大きな体でスチールの天板にもたれ掛かった。
「またあんたかよ。たまには若い子に相手させてくんない?」
「いいですよ。脅さないでくれるなら」
ノータイムで打ち返すと、男は「いつ脅したりしたよ」と、人をぎくりとさせる様な低い声を出した。
相手は大男で、しかも恐い顔。この時点ですでに脅しに近いと思うが、無自覚なのだろうか。
「記入お願いします」
カウンター越しに、領収書の申請書類を取り出して渡す。
面倒くさそうな舌打ちを無視し、持ち込まれた領収証をチェックした。
――不可、不可、不可。……最近は、どう考えても業務に関係ない飲み屋の領収証が混ざっていても、まだ可愛いと思う様になって来た。何故、自宅の家賃を経費で落とそうとするのか。そしてまた、落とせると思うのか。理解に苦しむ。
束になった領収証の約半分を却下して、ため息をつく。
「相変わらずタチが悪いですね、水口さん。だから他の子に任せられないんですよ」
いや、実際、警護課の人間は恐い。だからちょっとした無理なら、結構通ってしまうのだ。
向こうもそれを知っているので、水口の様な人間は多い。と言うか、こんな奴ばっかりだ。月末になると、似た様なのがわんさかと経理に攻め込んで来る。
だがこう言う事は男女の差ではなく、勤続年数の長さでもなく、生来の性格によるところが大きいらしい。経理の中で、警護課の男たちと渡り合える人材は少なかった。私がいつも燃え尽きているのは、つまりそう言う訳だ。
「ああー……入社一年目の内気で超可愛い女子社員になりたーい」
この疲れ切った魂の叫びに、門真が隣で激しく咳き込む。
資料室フロアの、喫煙室だ。私たちは揃って屈み、やっぱり隠れてタバコの煙を吐き出していた。そもそも人がいないんだから、普通にしててもよさそうなものだが。
「どうした、いきなり」
「ちょっとね、自分の性格を呪ってるのよ」
門真は更に困惑したふうに、私を見た。
「すずサンも、色々あるんだな」
「まあね。気の毒だと思うなら、領収書は早めに持って来て」
ついでにささやかな願いを吐き出すと、門真は「覚えとく」と小さな笑い声を立てた。
そこでふと、思い当たる。
私は、門真の領収書を見た事がない。
彼は比較的人当たりがいいから、他の人間が処理したのだろうか。可能性はある。だがそれは何だか、残念な事の様に思えた。
領収書だけじゃない。私は、ここ以外での門真も見た事がない。
同僚とはどんな話をして、食堂のランチは何を選ぶのか。どんな字を書くのかも見た事がなかったし、携帯電話の番号どころか色さえ知らない。
例えば偶然エレベーターで、私と会ったらどんなリアクションをするのかな、とか。考えてみれば、解らない事だらけだ。
「門真、仕事してる?」
隣の男を見詰めて問うと、心外そうに眉を上げた。
「してるよ。すずサンが見てない時に」
そりゃそうだろう。
そりゃそうなんだけど、ちょっと思っただけだ。この喫煙室にいる教師の眼を盗む高校生みたいな門真じゃなくて、ちゃんとしたところも見てみたかった。
「だって、幽霊みたいじゃない」
「俺が?」
「ここ以外じゃ会わないし、ここ地下だし。あれでしょ。お日様の下に出たら、溶けるでしょ」
子供みたいな冗談を言って、声を揃えて二人で笑った。
あァ、でも。――と。
笑い声のあとで、門真が呟く。
「良いね、幽霊。気楽そうで」
もっとちゃんと、見ておけばよかった。
幽霊なんか羨む顔を、見ておけばよかった。
けれども私は何も気付かずのん気なもので、幽霊が人間になるのは難しいけど、人間が幽霊になるのは簡単なんじゃない。気力さえあれば。そんな軽口を叩いた。
そして、珍しい事に。
下らない会話でへらへらと笑う私たちの前に、初めて三人目の客が現れた。
喫煙室のドアを手荒く開き、軽く息を弾ませた男が飛び込んで来る。
「やっと見つけた!」
恨みがましく喚いた顔に、見覚えがあった。
騒々しさに少々驚かされたあと、どうやら彼は門真を探しに来たらしいと気付く。複雑な気分だ。彼らは仲がいいのだろうか。だとしたら、問題だ。
自分の息子に素行のよくない友達ができてしまった時の母親。私の心境は、多分それによく似ている。
現れたのは相模と言う、警護課の人間だ。二十代半ばの男で、人懐っこい見た目に反し、やはり人間的にねじれている。
どうしよう。
ここはやはり恨まれても、わが子の将来を思う親心で二人の友情を裂くべきだろうか。
心の中で子育てについての葛藤をくり広げていると、硬い声が耳を打った。
「うるさい」
たったひと言、不快げに。
それを耳にして、自分でも意外に思う程どきりとした。はっと顔を向けると、まるで最初に会った時の様な門真の顔がそこにある。
あの時の態度は、私が挙動不審だったせいだ。そう、思っていた。親しくなってみれば、普段は朗らかに笑う男なのだと。
……違うのだろうか。
さっぱりと整った門真の顔に、硬く不機嫌な表情は似合うと言えば似合っている。笑顔よりしかめっ面が似合うと言うのも、考えてみればなかなか不幸な話だ。
すっかり解らなくなって、その横顔をぼんやり眺めた。私が知ってる彼ではなく、こちらが本来の門真だとでも言うのだろうか。
そのためかどうか。きつく言われた本人は、余り気にした様子もない。相模は唇を尖らせて、ぶうぶうと文句を言った。
「嫌なら、消えないで下さいよ。オレだって好きじゃないんスよ、走り回るの」
「もう良い。行く」
「……へぇ!」
捜しに来たのは自分の癖に。門真が素直に立ち上がると、闖入者はどこか感心したふうな声を出した。それから今見付けたと言う感じで、急に足元で屈む私に眼を移す。
「柴町さんっスよね、経理の。意外だなー。二人、仲イイんスか」
新しいおもちゃを手に入れた、悪ガキの様に。言った相模の顔は、妙に輝いていたかも知れない。
よく解らない。私が返事をする前に、彼は喫煙室から強引に退去させられたからだ。
相模の頚を掴み、エレベーターに押し込む。その門真の眉間に深い皺が刻まれて、更に不機嫌さを増して見えた。
安心した。あのぶんなら、相模のねじれた人間性に気付いてない訳ではないだろう。彼らの間に、引き裂くべき友情はなさそうだ。
だからすっかり油断していた。
私は後日、改めてこの妙な男と対峙するはめになる。
「柴町さーん、一緒にどうスか」
軽薄な声が聞こえた時には、もう肘の辺りを掴まれていた。
意味が解らない。
腕を掴む手と、掴んだ相模の顔を見比べる。何のつもりだろう。
一緒にいたはずの同じ課の後輩は、私と私の腕を取るスーツの男から素早く距離を置いた。彼女たちを、責めはしない。何故なら自分自身、逃げたいからだ。
腕を持たれて、バランスが取りづらい。私は両手で持ったトレイを傾けない様にしながら、一応の抵抗を試みる。
「一緒に食事する程、親しくないでしょ」
「親しくなりたいから、一緒にごはん食べるんじゃないスか」
ああ、この男も口が減らない。
すでにうんざりした私をよそに、相模は人懐っこい笑顔を見せる。
解るよ。見ているぶんには可愛いし、食堂に居合わせた女子社員が軽く蕩けているのにも気が付いた。彼はもてる。でも同時に、社内では有名な人でなし。
見ているだけならいい。けど今は彼との距離が近過ぎて、せっかくの笑顔にも危機感が募るばかりだ。