4、冬は死にゆく愛の季節(一)
「ねえ、名前何て言うの?」
「自己紹介する誘拐犯がいると思うの?」
呆れた人ねと軽蔑の眼を彼女は向けるが、顔をさらした誘拐犯もいないと思う。私が海にでも沈むなら、話は別だが。
「藤白一族だって解ってるんだし、いいじゃない」
「うるさいわね。好きに呼べばいいでしょ」
冷たくあしらわれ、寂しさを覚えた。こっちは人権を犠牲にして付き合っているのに、それはないのでは。
「その服、どこの?」
「プラダだけど」
「解った。じゃあ、プーちゃ……」
「絢子よ!」
即座に叫ぶ。
素直な反応で、本当に嬉しい。
「絢ちゃんはさー、門真とどう言う関係?」
「血縁以外の関係はないわ! 妙な言い方しないで!」
何がそんなに気に入らないのか、彼女はギャンギャンと暴れて栗色の巻き髪を振り乱す。
藤白兄と言い、絢子と言い、どうしてこう敵意を燃やすのか解らない。絡む以外に、門真の構い方を知らないのだろうか。
「まあ、いいけど。それで、門真辞めさせてどうするの?」
「流成はどうでも好いわ。大事なのは本部長の席よ」
「あー……。本部長になりたいんだ、絢ちゃん」
「ひとまずはね。一応の肩書きでも、手に入ればさっさと上に行けるもの」
どうして当たり前の事を問うのかと、そんなふうに訝しげな眼を向けられる。
そうか、こんな可能性もあったのか。洸成の事が頭にあったせいか、目的は門真本人なのだろうとどっかで思い込んでいた。
「小市民には、よく解んないんだけどさ。地位とか権力とか、そんなに魅力的?」
「ステータスは問題じゃないわ。藤白に生れた時点で、最初からある程度は持っているから。でもだからこそ、ゲームには参加すべきだわ。その権利を与えられているのに、ステージにも立たない方がおかしいのよ」
「門真の事?」
「そうよ! あんな恵まれた環境にいて、それを活かさないなんて許せない」
恵まれてる……、かなあ。
「だから奪うの?」
「違うわね。最初から、あんな男には何も与えるべきじゃなかったの。藤白として、それを返してもらうだけ」
けど、と思う。
けど絢子、本当にそう?
確かに経済的には恵まれていただろうけど、幸せそうとは思えない。彼に流れる藤白の血は、むしろ門真を苦しめている。
「門真は、何も欲しがってない。言えばきっと、大抵のものはくれると思うよ」
「あきれた。判ってないわね」
うん。それは最近、よく言われる。
絢子は短く息を吐き出して、タイトなスカートから伸びる足をすらりと組んだ。椅子の背中に体を任せ、見下ろす様に顎を上げる。
「教えてあげる。流成はね、統轄のお気に入りなの。本人の意思は関係ないわ。統轄がそうさせたいと望んだら、必ずそうなるの」
例え門真がどんなに父親を憎んでも、全部捨てて逃げようとしても。
まさかね。冗談でしょ。
そう言って笑い飛ばしたかったけど、できなかった。少し前ならそうしただろう。でも今は、それが門真の現実かも知れないと思えてしまう。
お気に入りと絢子は言うけど、そこに愛しげな響きは感じない。もっと冷たく、もっと苦しい別の何かだ。
「……じゃあ、どうするの。門真の意思じゃ辞任もできないのに、どうやって辞めさせるの」
「恋人も守れずに、しかも女を助けるために出された条件を全部呑むなんて、最悪だと思わない?」
「条件飲むのは優しいでしょ」
「ばかね。甘いって言うのよ。統轄は無能な人間が嫌いなの。だから流成には、そうなってもらうわ」
要は統轄を失望させて、門真を放り出して貰おうと言うのだ。
何だか、いやに簡単な話だ。
「本当にそうなら、いいよ」
心の底から出た言葉に、絢子は沈黙を返す。そして疑う様にこちらを見詰めた。
それで自由になれるなら、門真は無能なほうがいい。私を使ってできるなら、そうして欲しい。
「協力するとでも言ってるの?」
「うーん。でも、ひとつ聞かせて。夏にね、本部長が襲われたの。あれ、絢ちゃん?」
雨の夜に受けた傷は結局縫って、門真の肩に傷痕を残した。もしあれも絢子がやった事なら、私には許すつもりさえない。
じっと眼を見て問うと、彼女は酷く驚いた様子で息を飲んだ。
「……違うわ」
この返事を聞いても、余り安心はできなかった。顔を伏せると、ストッキングに包まれた自分のつま先が眼に入る。馬鹿な質問をした。
この否定が嘘なら、私は門真を傷付けた人間に力を貸す事になる。この否定を信じれば、彼にはまだ他に敵がいると言う事になる。
身内の誰かだろう、と、絢子はひとり言の様に続けた。
門真は、愛人の子だ。本来藤白ではないはずの彼がいる事で、空席となるはずのポストがひとつ埋まる。それは自分の席だったと、逆恨みして門真を疎む者もいるのだと。
まるで、遠い世界の話の様だ。理解できない。何もできない。その癖、痛くて苦しかった。
「本気で、愛してるのね」
声に、弾かれる様に顔を上げる。
絢子は気付いてしまった真実を持て余す様に、自分の胸に拳を強く押し当てていた。そして当惑の表情を深くして、私を見詰める。
愛してる?
誰が? 私が?
誰を、と問う程は鈍くない。門真の事をだ。
首を傾げる。何で、そんな事を言い出したんだろう。
「急に、どうしたの」
「……狡いわね。鏡でも見せましょうか? こんな目に遭っても能天気なくせに、流成の為にはそんな顔をするのね」
びっくりしちゃうじゃない、と絢子はグロスで光る唇を尖らせた。
そんな顔って、どんな顔だろう。手首で束ねられた両手を、頬に当てる。私がのん気にしてられるのは、彼女の憎み切れないキャラが理由だ。それを比較対象にされても困る。
だけど絢子の率直な意見は、どうやら事実の様だった。熱くて甘い言葉がとろりと、指の先まで体を満たして舌先に溢れた。
「そっか、愛しちゃってるんだ」
呟くのと同時に、両目からボロボロと涙が落ちた。
どうしよう。咄嗟に思う。門真はきっと、私を許さない。
いきなり泣き出した私に、絢子は慌てて席を立つ。その場でおろおろと足を迷わせ、それから怒った様にハンカチを突き付けた。
「なんで泣くのよ! 冗談じゃないわ!」
「絢ちゃんは、いい子だなあ」
私の印象としては、これが正しい気がした。涙ひとつで動揺してしまうのだ。甘いのは、絢子だろう。そして、考えが足りない。
例えば洸成みたいに冷徹でないなら、拉致なんかやらかしても意味がない。恐らく、目的を達成するには至らないだろう。
……残念だ。門真を、自由にしたかった。
「好い子だなんて、ばかにしないで」
「してないよ。多分、それでいいんだと思う。ねえ、絢ちゃん。孤独だよ、門真は」
それだけは、私も知ってる。
腰掛けたベッドの上から、目の前に立つ絢子を見上げた。彼女は何の話か解らないと言うふうに、巻き髪を揺らしてこちらを見る。
絢子は若い。門真を恵まれていると言い放つそれは、幼さかも知れなかった。
「孤独を羨むのは、本当の孤独を知らないからだよ。でもそれは、罪じゃない。無理に、あの人たちの同類になろうとしないで」
絢子ははっと瞳を揺らし、ハンカチを握り締めた。そして抗うふうに言葉を探す。けれども何かが声になる前に、隣室に続く大きなドアが乱暴に開かれた。
「離れろ」
男の声が、厳しく命じる。
ドアの内側には、絢子の護衛がいたはずだ。しかし騒ぐ様子もない。チラリと見ると、彼らはすでに制圧されて両手を頭の上に上げていた。
ネクタイを緩めた、護衛たちと大差ない地味なスーツ。敵味方入り乱れた黒い服を背景に、でっかい人影は門真のものだ。
気付いて、慌てて俯く。あっちを見るんじゃなかったと、後悔した。私は、どんな顔をしていたんだろう。こちらに向けた眼を見張り、息を詰めた彼の様子にそう思う。
他の人間を外に追い出し、ベッドルームのドアが閉まった。ストッキングのつま先に近く、門真が絨毯に膝を突く。
彼は私の腕をそっと押さえ、手首の拘束に小さなナイフの刃を当てた。プラスチックの紐を慎重に切り離し、顔を上げる。
距離が酷く近かった。俯く私の前髪が、その額に触れる程。
「ごめん」
困った様に、傷付いた様に。見上げて門真は、苦しげに言った。
「もう、こんな目にあわせないから」
――やめてよ。
聞きたくなかった。解ってた気がする。門真が、何て続けるか。
「終りにしよう。もっと前に、そうすべきだった。あの人がすずサンに近付いた時点で、危険だって分ってたのに」
「嫌」
「すずサン」
また涙が零れそうで、硬く眼を閉じた。闇の中で呼ぶ声は、まるで諭している様だ。
門真は、それでいいだろう。誰の事も必要じゃないから。それは知ってる。傍にいたいと願うのは、私だけ。
必要ないだけじゃなく、愛される事を拒む人だ。特別な感情を、許さない人だ。門真はこの気持ちを理解しないと、その事も私は知ってた。
隣にいられたのは、ただそれだけだったから。愛しもせず、疎みもせず。私は、そこにいるだけだったから。
もう、違う。私は愛した。
けど門真、ちゃんと殺すよ。愛してるなんて言わない。愛してなんて言わない。傍に置いて。隣にいさせて。
それだけでいいから。
「ごめん、すずサン。甘えて、巻き込んで。こんな事、すずサンには関係ないのに。もう良いんだ。だからもう、関わらない」
私の願いは届かない。
ひとりでいいと、とっくに門真は心に決めてる。
どうして、簡単に捨てられるんだろう。
無力な自分が悔しいか、離れてしまった心の距離が歯痒いか。あるいは、両方だったのだろうか。
衝動的に触れた。
体に触れるのは簡単だった。ひざまずく門真の髪に、唇で触れる。額に、頬に、顎のラインにキスを落として、最後に私と彼の唇を重ねた。
体を離すと、疎ましげな眼が私を射る。彼は立ち上がって距離を置き、二度と近付こうとしなかった。
……ああ。どうして私たちは、こんなにも違う人間なんだろう。
向けられた背中は、拒絶のサインだ。
門真はそうして、愛を殺した。