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1、春はまどろむ夜明けのまぼろし(一)

直接的な描写はありませんが、精神的に大人向けかと思われます。ご注意下さい。

 彼に触れてみたかった。

 体に触れるのは簡単だった。私はベッドに腰掛けて、目の前にひざまずく男の髪に唇で触れた。額に、頬に、顎のラインにキスを落として、最後に私と彼の唇を重ねた。

 触れている間、彼は身じろぎもせず黙っていた。ただ瞳に、疎ましげな色を滲ませて。

 その事には、体を離してから気が付いた。そしてそれを眼にした刹那、胸の中が締め付けられる。

 ――ああ、そうだ。

 この男が、余りに寂しい事を言うから。

 だから私は、彼の魂に触ってみたくなったんだ。


   *


 門真(かどま)と出会ったのは、不思議なくらい最近の話だ。

 それは四月の事で、私は少しばかり燃え尽きたような気分だった。この前の月に修羅場の様な年度末の決算を終え、力を使い果たしてしまっていたのだ。これはこの時期、毎年の事だけれども。

 何をするのも億劫で、考える事も動く事もしたくなかった。顔の横で、指先に挟んだタバコがどんどん短くなって行く。ああ、もったいない。そう思いながら、フィルターを口に運ぶのさえ面倒に感じていた。

 うちの会社は喫煙者が多い。そのため規模の差はあるが、各フロアに必ず喫煙室が設けられている。資料室しかないこの階も同様だ。

 蛍光灯の青白い光がまばらに照らす地下フロアの片隅に、小さく区切られた小部屋がある。これが喫煙室だったが、ガラス張りなのは上半分だけ。足元は白い壁だ。中で屈めば、外からは姿が見えなくなってしまう。

 そしてその通りに、私は喫煙室の中で見知らぬ男としゃがみ込んでタバコを燻らせていた。

 私が来た時にはすでに彼の姿があって、隠れる様に屈んでタバコを吸っていた。先客は珍しかった。

 高校生か。と内心で突っ込んだが、口を開くのも面倒だ。表向きは無言のまま、制服のスカートを調えて隣に並んでしゃがみ込んだ。

 すると驚くべき事に、もの凄い落ち着いた。

 逃げてたからだな。と、あとになって思う。このフロアは資料室しかないので、人がめったに来ない。来ても、用事を済ませて早々に立ち去る。この喫煙室を使用している人間を、自分以外に見た事がなかった。

 そう。気力の限界を迎えていた私は、最初から同僚や上司を振り切るつもりでここに足を運んだのだ。この心境に、隠れ喫煙はぴったりだった。

 しかし、と思う。

 私は、そうだ。なら、この男は何なのだろう。やはり、何らかの限界を感じてここにいるのだろうか。

 そんな後ろ向きな興味から、すぐ隣で煙を吐き出す男を観察する。

 三十前後と言うところだろう。後ろに撫で付けた黒髪には、年齢のわりに多くの白髪が混ざっていた。しかし整った顔立ちのせいか、それさえ何だか似合って見える。

 ボタンの留まっていない黒いスーツから、胴を包む白いワイシャツが覗いていた。しなやかに、敏捷に動くために鍛えられた体付きが、服の上から窺える。

 社員証は携帯していない様だが、どうやらこれは警護課の人間と見て間違いないだろう。

 顔だけでなく、体まで仕上がっているのが大変好ましい。こう言う男を見ると、この会社に入って本当によかった、と思う。

「何?」

 声に、顔に、不審を隠さず彼が問うた。と言うか、不機嫌に。何故だろう。顔のいい男に嫌われると、余分に悲しい。

 確かに、ずっと眺めていたくなる様な男だ。

 が、だから眺めてもいいかと言うと、これは別の話になる。見知らぬ女が無言のまま自分をずっと見詰めていたら、間違いなく恐い。

 気持ちは解る。解るが、私としてもよく知らない相手に自分の趣味嗜好を吐露した末、精神的に距離を持たれる展開は避けたかった。何とか、この危機を切り抜けなくては。

「髪、染めたりしないの?」

 もうちょっと上手くはぐらかせないものかな、と思いながら、それでも心の隅で気になっていた事を尋ねる。

 これに彼は、不機嫌な表情を引っ込めて不思議そうに口を開いた。

「髪?」

「まだ若そうなのに、白髪多いと嫌じゃない?」

 私は美容師が勧めるまま、少しだけ明るいトーンに染めた自分の頭を指さして言った。

 それの何が面白かったのか、彼は端正な顔を惜しげもなく崩して笑う。最初に声を掛けた時の、あの不機嫌さは何だったのかと言いたくなる朗らかさで。

 驚かされた。こんなに明るい表情で、笑える男だとは思わなかった。

「白髪って、そんなにダメ? 染めた方が良いかな」

「さあ……」

 笑みを残した顔を向けられ、戸惑いながら首を傾げる。

 そんな事を言われても、本人はどうなのかと思っただけだ。私は別に。

「いいんじゃない。色っぽくて」

 言葉が自分の喉を離れた瞬間に、耐え難いものが胸の中で破裂した。羞恥だと思う。

 すぐ隣から注がれるまじまじとした視線を避けて、両手の中に顔をうずめる。何なら床に頭突きでもしたい。

 ああ、もう。何でこんな事を言ったんだろう。

 彼の吐く辛い匂いのする煙が、伏せた頭を掠めて行く。そして聞こえた声はどうも、呆れていたのではないだろうか。

「後悔するなら言わなきゃ良いのに」

 仰る通り。

 完全に、どうかしていた。

 私はこのダメージから回復するのにかなりの時間とカロリーを要したが、それはまあいい。

 とにかく私と門真はこんなふうに、どうでもいい感じの出会いをした。

 こんな事があって、と言うか。こんな事があったのに、だろうか。以来、門真とはこの喫煙室でよく顔を合わせる様になった。

 元々が社内での勤務態度には大らかな会社だったが、こんなに顔を合わせていていいのだろうか。心配だ。お互いに。

 ここは、いわゆる警備会社だ。

 実際の業務に当たるのは警務部で、会社はその性質上、ほぼ彼らを中心に回っていた。

 そして更に警務部は大きく二つ、警護課と警備課に分類される。警備課の担当はビルなどの保安業務に派遣される制服警備なのに対し、警護課の業務は個人の警護だ。

 そのために、彼らは制服ではなくノーマルなスーツを着用する。

 上着のボタンを留めないのも特徴のひとつで、その下に備えた護身用の武器をすぐ使える様にしているのだそうだ。社員証の不携帯は問題だが、一見して身分が解ってしまうのを嫌い、警務課では持たない者が大半だった。

 ちょうど、最近できた私の友人がそうである様に。

「すずサン」

 狭い喫煙室の壁際で、しゃがんだまま顔を向ける。と、ドアを閉めた門真が、長身の体を折り曲げて隣に座るところだった。

「ヒマそうだね」

「お互いにね」

 言い返すと、彼は愉快げに小さく喉を鳴らして笑った。

 私の、しかも下の名を呼ぶのは門真だけだ。

 初めてそう呼ばれたのはいつで、何がきっかけだったかは忘れてしまった。わざわざ名乗った訳ではないから、いきなり名前で呼ばれて驚いた事だけは覚えている。

 どうして知っているのかと訝って、すぐに思い至る。自分の頚からぶら下がった社員証には、名前と所属が明記されていた。

 なるほど。彼らがこれを持ちたがらないはずだと、納得する。

 基本的に、私は警務部の人間が好きだ。正確には、どこまでも実用品として鍛え上げられた彼らの肉体が好きだ。

 しかそれは、あくまで観賞用と言う意味で。

 警務部、特に警護課の人間はなかなか面倒な経歴を持つ者が多く、往々にして人間性がねじれている。

 あの部署に限っては、明るく笑い、どうでもいい会話を楽しめる男は珍しい。

 その点で門真は、清潔そうな見た目のわりになかなかの軽口を叩く。私も口が減らないほうだから、遠慮が要らず気楽でよかった。

 だから出会って程なく、私は門真に対して友情めいた好意を持つ事になったのだ。

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