第二章 黒い脂の街と変異する背骨
【第二章 あらすじ】
子供が生まれなくなり、急速に崩壊へと向かう世界。
かつての巨大都市・新宿は、生温かい不気味な蒸気と腐臭に包まれ、静かに息絶えようとしていた。
荒廃した街の片隅で、ただ生き延びるために息をひそめる男・シノハラ。
だが、崩れかけた世界で彼を待ち受けていたのは、単なる飢えや絶望だけではなかった。
地底から響く、まるで巨大な心臓が拍動するような不気味な地鳴り。
そして、暗闇の向こうから現れた、人間としての原形を留めない「異形のもの」。
人間を襲い、その肉を貪ろうとする異形の猛威を前に、シノハラの決死の生存劇が始まる。
しかし、彼らが争うその足元では、世界の破滅を決定づける「さらなる異常」が、刻一刻と芽吹き始めていた——。
西暦という年号が意味を失って久しい。
かつて極東の巨大都市と呼ばれた新宿は、いまや黒く濁った粘液と、腐臭を放つ鉛色の霧に包まれていた。
チカチカと不気味な明滅を繰り返す壊れたネオン管の下、シノハラ(42歳)は足元に転がる黒ずんだコンクリートに身をひそめていた。
彼の全身は油と乾燥した血でドロドロに汚れ、喉は焼け付くように乾いていた。ポケットに入っているのは、潰れた缶詰の破片と、刃の欠けたバタフライナイフだけだ。
「ハァ……ハァ……」
世界はおかしくなっていた。
数年前から世界中で子どもが生まれなくなり、それと引き換えにするように、街には理由もなく肉体が変異し、人を襲って喰らう「狂人」たちが溢れかえった。
シノハラのような一般人には、その原因など知る由もない。政府は崩壊し、宗教は暴徒の血に染まり、残されたのは「喰うか、喰われるか」という原始的な飢餓だけだった。
ゴ……ゴゴゴゴゴ……ッ!!
突然、足元から不気味な低温の揺れが叩きつけられた。
「くっ……またか……!?」
シノハラは爪を立てて地面にしがみついた。
普通の地震ではない。その振動は、まるで恐ろしく巨大な心臓が**ドクン……ドクン……**と打ち打っているかのように、規則的な周期をもって地底から突き上げてくるのだ。
地割れの隙間から、生ぬるい、ドブと腐肉を煮詰めたような不快な蒸気が吹き出してくる。
まるで、自分たちが立っているこの大地そのものが、不快そうに皮ふを蠢かせているかのように。
「助けて……! 頼む、誰か……ッ!」
路地の向こうから、絶叫が響いた。
シノハラは息を殺し、壁の陰から覗き込んだ。
街灯の歪んだ光の下に飛び出してきたのは、警備員の制服を着た男だった。しかし、その走り方は人間のそれではない。背骨が極端に後ろへ反り返り、関節が本来折れない方向へ曲がり、四つ足でアスファルトを引っ掻きながら爆走している。
「肉……! 地の底の……生温かい肉が足りねぇぇぇっ!!」
男の口から撒き散らされているのは、黄濁した不気味な粘液だった。
男の背中は、まるで巨大な腫瘍が脈打つように隆起していた。服を突き破って現れたのは、黒く硬化したウロコのような皮膚と、その下で太い蛇のように蠢く無数の肉の塊だった。
(なんなんだよあれは……! 病気なのか……化け物かよ……!)
シノハラは恐怖で歯をガチガチと鳴らした。
彼には分からない。この男が、あの世のエラーによって「眠れる巨龍の寄生虫」の魂を体内に滑り込ませた「混入者」だということを。男の中で肥大化した龍の性質が、人間の肉体を内側から破壊し、耐えがたい飢餓感とともに周囲の肉を貪らせているのだということを。
「あ……?」
変異した男の焦点の合わない、黄色く濁った瞳が、カチリと音を立てるようにシノハラに向けられた。
「見ぃぃぃつけたぁぁぁっ!!」
男が叫んだ。その声は、重い鉄板をすり合わせたような地響きのような重低音を帯びていた。
「来るな! 来るなっ!!」
シノハラは半狂乱になってナイフを構えたが、男は躊躇なく飛びかかってきた。
男が振るった太い腕が横の街灯を直撃し、分厚い鉄柱がまるで腐った枝のように呆気なくへし折れる。尋常ではない筋力だった。
「腹が減って死にそうなんだよぉ! この地底の親玉が起きる前に、全部喰い尽くさなきゃならねぇんだよぉっ!」
男は自分の爪で胸の肉を引き裂きながら、シノハラへと迫る。背骨の隆起から黒い骨の棘が突き出し、シノハラの視界を絶望で塗りつぶしていく。
シノハラは必死で地を幾度も這ったが、背中を男の重い足で踏みつけられた。
靴の底越しに伝わる、圧倒的な重量と不快な体温。
「死ね……! 俺の肉になれぇっ!」
男が打ち砕かれた鉄筋を振り上げ、シノハラの首筋へ振り下ろそうとした——その瞬間だった。
世界から、すべての「音」が完全に消失した。




