表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

助言

作者: 雉白書屋

 とある刑務所に、強盗の罪で服役している男がいた。彼はいつも深いため息を漏らしていた。捕まるつもりなど毛頭なかったのだから、その沈んだ表情も無理はない。 しかし、彼の心を重くしているのは、自由を奪われたことだけではなかった。


 ――彼女を、誰かに奪われるかもしれない……。


 その不安は、鉄格子や監房の壁よりも重く、息苦しくのしかかっていた。

 お互いが初めての相手だった。男は彼女のことを何よりも深く愛し、結婚を真剣に考えていた。強盗に手を染めたのも、結婚指輪を買う金を手に入れるためだった。もちろん、それがどれほど浅はかだったかは、今になって痛いほど思い知らされている。

 事情を知った彼女は、面会の場で涙ながらに言った。「ずっと待ってるから」と。しかし、心が変わらない保証など、どこにもない。会えるのは限られた時間だけ。冷たい鉄格子に隔てられれば、情熱がゆっくりと冷めていくのは避けられない。

 日を追うごとに胸の中の不安は膨れ上がり、ついにある日限界を超えた。


 ――ここを出るしかない……!


 男は脱獄を決意した。何としてでもこの場所から抜け出し、彼女のもとへ帰る。そして、結婚するのだ。

 とはいえ、どうすればいいのか見当もつかない。これまで犯罪らしい犯罪もしたことがなく、強盗も計画性のない衝動的なものだった。

 仮に犯罪の経験があったとしても、脱獄など簡単にできるわけがない。知恵もなければ、仲間もいない。思いつくのは、映画などで見た曖昧なイメージだけだった。


「うーん……まずは、この鉄格子をどうにかしないとな。いや、穴を掘って外に出るか……。いやいや、その前に同居人をどうにかしないと……」


 皆が眠りについた夜。ベッドに横たわりながら、男はぼそぼそと独り言を呟いた。心の奥では、そんなことは到底無理だとわかっていた。ただ、こうして考えていると、少しだけ現実を忘れられる気がしていたのだ。


「やはり、まずは誰かに相談するか……ん?」


 男はふと、壁の一角に文字が刻まれていることに気づいた。


【脱獄のことは誰にも話すな。裏切られる】


 見覚えのない文字だ。こんなもの、今まであっただろうか? 男は不思議に思いながらも、どこかその言葉に勇気づけられた。

 そして、翌朝。男はふと昨夜のことを思い出し、何気なく食堂のテーブルに視線を這わせた。すると、驚いた。なんと、そこにも文字が刻まれていたのだ。


【外に出たければ夕食後に洗剤を飲め】 


 洗剤なら掃除当番のときに手に入れることはできるが……。

 男は逡巡の末、思い切って実行することにした。他に頼るものなどなかった。


 ――おい、倒れたぞ!

 ――担架を持ってこい!

 ――医務室に運べ!


 指示通りに洗剤を飲んだ男は、口から泡を吹いて倒れた。意識はぐらぐらと揺れ、やがて闇の底へと沈んでいった。次に目を覚ましたときには、すでに夜は更け、外の灯りだけがぼんやりと医務室を照らしていた。

 看守が一人、椅子に座ったまま寝息を立てている。


 ――うまくいったのか……? だが、これからどうすれば……ん?


 ふと下を見ると、シーツにまた文字が書かれていた。


【机にコインが置いてある。ゆっくりとベッドから出て、それを取れ】 


 男は息を殺し、慎重にベッドから下りて机に近づいた。そこには確かに、コインが一枚置いてあった。手に取ると、男は机に書かれた次の指示を見つけた。


【一番端の窓のネジをそれで回せ。格子を外して屋根に上がれ。音を立てるなよ】 


 指示に従い、男は緊張で指を震わせながらも、静かに格子を外した。屋根に上がると、そこにも文字があった。それに従い、木へ飛び移り、さらに塀へ、そして停車中のトラックの荷台へ飛び降りた。

 やがてトラックは動き出し、男を乗せたまま刑務所から遠ざかっていった。

 男は両手を合わせ、助言の主に心からの感謝を捧げようとした。


 いや、誰に? まさか神ではないだろう……。だが、あの言葉たちは実際に書かれたものではなく、自分にしか見えていないことは確かだ。シーツや机の文字に看守が気づかないはずがない。

 もしかすると、ここで脱獄に挑み、失敗した前任者たちの無念の声だったのかもしれない。

 もし、彼らの思いがこの脱獄で報われたのなら嬉しい。男はそう思い、微笑んだのだった。

 そして――


「やあ……」


「あ、あなた……」


 男は彼女のもとへ帰った。二人は固く抱き合い、熱い口づけを交わすと、そのまま寝室へ向かい……


「あなた、最高だったわ……」


 情熱的な時間が過ぎ、ベッドの中で彼女は満ち足りた笑みを浮かべ、男に寄り添った。


「ああ、君もね……」


「ほんとすごかった……前よりもずっと上手。ふふふ……」


 彼女は男の頬にキスをして、腕にぎゅっと絡みついた。

 男は天井を見上げ、静かに呟いた。


「いや、助言が……君の体にたくさんあって……」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ