助言
とある刑務所に、強盗の罪で服役している男がいた。彼はいつも深いため息を漏らしていた。捕まるつもりなど毛頭なかったのだから、その沈んだ表情も無理はない。 しかし、彼の心を重くしているのは、自由を奪われたことだけではなかった。
――彼女を、誰かに奪われるかもしれない……。
その不安は、鉄格子や監房の壁よりも重く、息苦しくのしかかっていた。
お互いが初めての相手だった。男は彼女のことを何よりも深く愛し、結婚を真剣に考えていた。強盗に手を染めたのも、結婚指輪を買う金を手に入れるためだった。もちろん、それがどれほど浅はかだったかは、今になって痛いほど思い知らされている。
事情を知った彼女は、面会の場で涙ながらに言った。「ずっと待ってるから」と。しかし、心が変わらない保証など、どこにもない。会えるのは限られた時間だけ。冷たい鉄格子に隔てられれば、情熱がゆっくりと冷めていくのは避けられない。
日を追うごとに胸の中の不安は膨れ上がり、ついにある日限界を超えた。
――ここを出るしかない……!
男は脱獄を決意した。何としてでもこの場所から抜け出し、彼女のもとへ帰る。そして、結婚するのだ。
とはいえ、どうすればいいのか見当もつかない。これまで犯罪らしい犯罪もしたことがなく、強盗も計画性のない衝動的なものだった。
仮に犯罪の経験があったとしても、脱獄など簡単にできるわけがない。知恵もなければ、仲間もいない。思いつくのは、映画などで見た曖昧なイメージだけだった。
「うーん……まずは、この鉄格子をどうにかしないとな。いや、穴を掘って外に出るか……。いやいや、その前に同居人をどうにかしないと……」
皆が眠りについた夜。ベッドに横たわりながら、男はぼそぼそと独り言を呟いた。心の奥では、そんなことは到底無理だとわかっていた。ただ、こうして考えていると、少しだけ現実を忘れられる気がしていたのだ。
「やはり、まずは誰かに相談するか……ん?」
男はふと、壁の一角に文字が刻まれていることに気づいた。
【脱獄のことは誰にも話すな。裏切られる】
見覚えのない文字だ。こんなもの、今まであっただろうか? 男は不思議に思いながらも、どこかその言葉に勇気づけられた。
そして、翌朝。男はふと昨夜のことを思い出し、何気なく食堂のテーブルに視線を這わせた。すると、驚いた。なんと、そこにも文字が刻まれていたのだ。
【外に出たければ夕食後に洗剤を飲め】
洗剤なら掃除当番のときに手に入れることはできるが……。
男は逡巡の末、思い切って実行することにした。他に頼るものなどなかった。
――おい、倒れたぞ!
――担架を持ってこい!
――医務室に運べ!
指示通りに洗剤を飲んだ男は、口から泡を吹いて倒れた。意識はぐらぐらと揺れ、やがて闇の底へと沈んでいった。次に目を覚ましたときには、すでに夜は更け、外の灯りだけがぼんやりと医務室を照らしていた。
看守が一人、椅子に座ったまま寝息を立てている。
――うまくいったのか……? だが、これからどうすれば……ん?
ふと下を見ると、シーツにまた文字が書かれていた。
【机にコインが置いてある。ゆっくりとベッドから出て、それを取れ】
男は息を殺し、慎重にベッドから下りて机に近づいた。そこには確かに、コインが一枚置いてあった。手に取ると、男は机に書かれた次の指示を見つけた。
【一番端の窓のネジをそれで回せ。格子を外して屋根に上がれ。音を立てるなよ】
指示に従い、男は緊張で指を震わせながらも、静かに格子を外した。屋根に上がると、そこにも文字があった。それに従い、木へ飛び移り、さらに塀へ、そして停車中のトラックの荷台へ飛び降りた。
やがてトラックは動き出し、男を乗せたまま刑務所から遠ざかっていった。
男は両手を合わせ、助言の主に心からの感謝を捧げようとした。
いや、誰に? まさか神ではないだろう……。だが、あの言葉たちは実際に書かれたものではなく、自分にしか見えていないことは確かだ。シーツや机の文字に看守が気づかないはずがない。
もしかすると、ここで脱獄に挑み、失敗した前任者たちの無念の声だったのかもしれない。
もし、彼らの思いがこの脱獄で報われたのなら嬉しい。男はそう思い、微笑んだのだった。
そして――
「やあ……」
「あ、あなた……」
男は彼女のもとへ帰った。二人は固く抱き合い、熱い口づけを交わすと、そのまま寝室へ向かい……
「あなた、最高だったわ……」
情熱的な時間が過ぎ、ベッドの中で彼女は満ち足りた笑みを浮かべ、男に寄り添った。
「ああ、君もね……」
「ほんとすごかった……前よりもずっと上手。ふふふ……」
彼女は男の頬にキスをして、腕にぎゅっと絡みついた。
男は天井を見上げ、静かに呟いた。
「いや、助言が……君の体にたくさんあって……」