第01話 不用意な深夜徘徊
時女宵子は、この引っ越しに大きな期待を抱いていた。
新しい住まいや街の雰囲気が、鬱屈とした心を癒やしてくれるのではないか? ――そんな儚い夢のような期待だ。
七年前に、自宅の火事で愛する両親を失った悲劇から、宵子はまだ立ち直れていない。思い出すたびに、その心はギザギザの刃に斬りつけられ、彼女を地獄の災禍に何度でも引きずり込む。誰に分かるというのだろう、この喪失と絶望が。仮に新天地が穏やかな楽園だったとしても、彼女が完全に癒やされるまでには、果てしない時間がかかるだろう。
とうに日が暮れた新しいマンションの一室で、引っ越しの荷解きを終えたセーラー服姿の宵子は、小休止して缶入りの紅茶を飲んでいた。雑多に積まれた段ボール箱に囲まれていただく紅茶はそれなりに美味しかったが、やはり本来はもっと落ち着いた環境で嗜むべきものだと思う。そう、緑に囲まれたカフェテラスで――といったような。
「…………?」
宵子は、スカートのポケットに違和感を覚え、何気なく手を差し込んだ。
すぐに何かが指先に当たり、取り出すとそれは一枚の小さな「護符」だった。
「ああ……」
日中、街へ入るときに関所で受け取ったアイテムだ。すっかり忘れていた。
今どき関所だなんて、江戸時代の街道じゃあるまいし。
こんな紙切れがいったい何を護ってくれるんだろうとも思うし。
宵子は、あとでどこかの柱にでも貼っておこうと思い、その護符を段ボール箱の上に置いた。鰯の頭も信心からと言うので、こういうのは気休めの問題なのだろう。
そう言えば、今日はまだ食事を摂ってなかった。調理器具はそろっているものの、肝心の食材がない。それ以前にガス栓の開通もまだだった。今夜の自炊はあきらめて、コンビニエンスストアにお弁当でも買いに行こうかと思案する。
コンビニエンスストア――通称・コンビニ。
宵子がこれまで住んでいた小さな田舎町にはコンビニがなかった。不便な土地柄だった。宵子にとってコンビニとは「二四時間営業のすばらしいスーパーマーケット」という認識なのだが、それが正しいのかどうかすら彼女には分からない。
結局、一度コンビニを見てみたいという好奇心が勝り、宵子は夜の帳に繰り出すことにした。
この街は、こぢんまりとしたよくある地方都市に過ぎないが、それでも今まで住んでいた土地に比べると遥かに栄えていた。何しろこんな時刻でも外を出歩く人がいる。宵子にとっては初めての大都会体験だと言える。
オレンジ色の街灯に照らされた明るい歩道が国道沿いに延びていて、宵子はそこを道なりに歩いて行った。右手の風景にふと目をやると、遠くに小さな山が見える。その中腹には、ぼうっと明るく神社の構えが浮かび上がっていた。あれがおそらく、宵子の後見人となった「美鶴神社」だろう。近いうちに挨拶に伺わねば――それに聞きたいことが山ほどあるのだ。宵子はそのために引っ越しを決めたと言っても過言ではなかった。
宵子の探検散歩は続き、目指すコンビニまでもう少しのところで、彼女は行く手を三人の屈強な男性に阻まれた。緊張で身体が強ばる。
中央に立つ男が強めの語気で言った。
「舞鶴学園の生徒かね?」
「えっ……あっ、はい」
驚きながらその三人を見やると、みな同じ制服に身を包んでいる。何のことはない、三人は警察官だった。どうして自分が「声がけ」されたのだろうと一瞬戸惑ったが、それはセーラー服を着ているせいだと気付いた。おそらく、ぶらぶらと帰宅もせずに深夜徘徊している不良だと思われたに違いない。
誤解は早めに解かねば。
「あの、ちょっとコンビニエンスストアに――」と、宵子が釈明しようと口を開いた途端、「深夜の一人歩きは感心しないな」と、もう一人の警察官がぴしゃりとさえぎった。
「すみません……」
宵子は、自分以外にも道行く人たちがたくさんいるのに、どうして自分だけ怒られるんだと周囲を見渡す。そして得体の知れない不穏なものを感じ取った。
いつの間にか、そこを歩いているのが自分一人になっていたのだ。
自分自身とそれを取り巻く三人の警察官。それ以外には誰もいない。そして偶然だろうか、車道には一台の車も走っていなかった。さっきまでの賑やかさはどこに消えたのだろう。まるで異次元空間にでも迷い込んだ気分だ。
「何か事情がありそうだな。ちょっと来なさい」
中央の警察官が、宵子の腕をぐいとつかんで引き寄せる。
他の二人の警察官たちは宵子を取り囲むように立ち塞がっていて、逃げ場を与えない。
「ちょっと待ってください。私、コンビニエンスストアに行きたかっただけです」
しかし、まるで宵子の声が聞こえないかのように、警察官は彼女の二の腕をさらに引き寄せる。初めは交番にでも連れて行かれるのかと思ったが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。
にわかに恐怖がわき起こってきた。
「離して! 離してください!」
降ってわいたような危機に、宵子は身をよじって逃げ出そうとする。だが、つかまれた腕はさらにギュッと締め付けられた。男性の本気の力には、手立てがなかった。その恐怖は二倍にも三倍にも感じられた。
「誰か助けて!!」
宵子が渾身の悲鳴を上げたとき、遠く視界の端から猛スピードで駆けてくるものがあった。それは学生服の少年で、腰だめにボロボロの金属バットを携えている。彼は走り幅跳びのようにしなやかに跳躍すると、金属バットを大きく振り抜いてこう叫んだ。
「秒殺!!」
ガシャーーーーン!
すこぶる場違いな音が夜空に響き渡った。
ガラス? ――いや、磁器が割れるような音が、宵子の周りで轟いたのだ。
その音が何なのか、宵子はすぐに知覚した。知覚はしたが、脳の判断がそれに追い付かない。まっとうな理屈が通らないからだ。
割れた。粉々に割れたのだ。
宵子の腕をつかんでいた警察官の身体が、途端に白磁の人形のようになり、少年の金属バットで粉々に粉砕されたのだ。
「んなッ!!」
あまりの出来事に、宵子は正しく悲鳴を上げることすら出来ない。そんなことはお構いなしに、少年は残る二人の警察官にも金属バットを振り抜いた。
容赦がない。それはまるで通り魔の所業だった。無差別殺人のようであった。
ガシャーーーーン! ガシャーーーーン!
少年の金属バットで殴られるや、その二人も白磁の欠片となって砕け散った。
見れば、宵子の周囲の足もとには、磁器の欠片が地面を隠すように散らばっている。
すっかり悲鳴を上げ損ねた宵子は、そのせいで不思議と冷静な気持ちになって、金属バットの少年の瞳をまっすぐに見て訊ねることが出来た。
「一体どういうことですか!?」
その問いに代わりに応えるように、遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる。
金属バットの少年は音の方向を見やる。そして「面倒になる前に、ここから立ち去れ」と言い放った。
「いや、駄目でしょ! お巡りさんに事情を説明しないと!」
宵子は引かない。
「そのお巡りさんが、この体たらくだろ」
そう言うと少年は、足下に散乱する磁器の欠片たちを金属バットで指し示した。だが宵子も引き下がろうとはしない。
「とんでもないことが起こったのは私にだって分かります! だからきちんと説明しないと、私たちが悪者になってしまうかもしれないでしょう!?」
宵子の主張は至極もっともだったが、肝心の少年には届かなかったようだ。
「いいから来るんだ」
そう言うと少年は宵子の左手を取った。そして強引にこの場から連れ去ろうとする。やっていることは、さっきの警察官たちと何も変わることはない。ただ違うことと言えば、宵子がそのまま少年に従って走り出したことくらいだ。どうしてなのかは分からない。だが宵子は少年を信じてしまった。
手に手を取ったまま、少年と宵子は街灯に照らされた路地を走りゆく。相変わらずそこに自分たち以外の存在はなかった。まるでどこまで駆けても、二人の世界から脱することが出来ないような不安に駆られる。
「走る! 走るから、手を離して!」
「離せば、きみはまた奴らの標的になるぞ」
「奴らって?」
「知らないでこの街に来たのか?」
知らない。
確かに知らない。
宵子は少年が何を言っているのかさっぱり分からない。
「関所で護符を持てと言われなかったか?」少年は続けた。
宵子は「あっ……!」と思い出した。
ポケットに入れていた護符。確か段ボール箱の上に置きっぱなしだ。
「あのお札が何なんです……?」
「御前様からの授かり物だ。相手が亡霊人程度なら十分な効果がある」
「もれびと?」
「さっきの瀬戸物人形だ。人間のふりをして社会に紛れ込んでいる奴らさ……きみは本当に知らないんだな」
亡霊人……。
オカルトにはとんと疎い宵子だが、目の前で起こったことは信じざるを得ない。
この街には、人間のふりをした怪異が存在しているということだ。
宵子は、彼女を引っ張る少年の手を握り返した。
「とりあえず、納得はしてくれたようだな」
二人は歩道を走り続ける。
少年に手を引かれながら、宵子は両親のことを思い出していた。
死んだ両親も、いつもこんなふうに手をつないで歩いていた。思い出すと胸が痛む。まるで心臓がキリキリするような耐えがたい痛みだ。なぜこんな時に両親のことを思い出すのだろう? 自分でも不思議だ。
そんな思いを馳せていると、少年の駆け足がふいに止まった。
「ここだな?」
そう言って少年が金属バットを片手に指し示したのは、あろうことか宵子のマンションだった。
「どうして私の家を知ってるの!? 今日、越してきたばかりなのに!!」
「いずれ刻が来れば、きみも全てを知ることになる――時女宵子」
「名前まで……あなたは一体」
「俺は、死ノ儀流一郎。人にあらざるものを割って歩いている」
「死ノ儀……流一郎……」
「二度も怖い思いはしたくないだろう。今夜は部屋に籠もって出てくるな。朝が来るまではな」
そう言うと金属バットの少年、死ノ儀流一郎はもと来た道を去っていった。まるで他の用事のついでに宵子を送りとどけたと言わんばかりのあっけなさだった。
死ノ儀流一郎と別れ、一人で部屋に戻っても、宵子の動悸は治まらなかった。無理もない話だ。引っ越し初日から、とんでもないことに遭遇してしまったのだから。一体何だというのだろう? 人間が磁器のように割れてしまった。それを死ノ儀流一郎は当たり前のように「亡霊人」と呼んだ。この街では、それが日常茶飯事なのだろうか? 宵子はこの舞鶴市を、風光明媚な地方都市と聞いてやって来たのだが。
考えれば考えるほど、思考は泥沼にはまっていく。もしかすると、この街に引っ越したのは間違いだったのかもしれない。宵子はたった一つのことを知りたかっただけなのに。
そして宵子は決心した。調べるだけのことを調べたら、たった一つのことに納得が出来たら、さっさとこんな街は出ていこう。長居したって、いいことなんか起こりそうにないから。
そう、もしかすると、また別の痛みを背負ってしまうかもしれない。
そんなのは絶対に嫌だ――と。