第01話 流一郎という男
翌朝――金曜日の午前四時半、自宅のベッドで目覚めた宵子は、すぐさま身支度を始めた。
登校の準備をするには明らかに早い。しかし、そうせずにはいられなかった。
洗面所へ向かい、冷たい水で顔を洗う。腫れぼったい瞼にひやりとした感触が心地よかった。鏡に映る自分の顔を見つめ、昨夜の涙のあとを指でなぞる。深呼吸を一つすると、気を取り直してセーラー服の上着に腕を通し、襟元のスカーフを整えた。
昨夜は、私立探偵・千賀俊作の突然の告白に冷静さを欠いた宵子だったが、今はもう両親の死に正面から向き合う覚悟ができている。それは、一晩中泣き明かしたおかげか、それとも宵子の元来の強さなのか――。
「行ってきます」
宵子は誰もいない部屋にそう告げると、舞鶴学園に登校するためにマンションを出た。
さすがに六月ともなると、早朝でも空気は熱を帯びていた。汗をかくほどではなかったが、湿気が肌にまとわりつくのが感じられる。通りには新聞配達のバイクが軽やかに走り抜け、植え込みの紫陽花が朝露に濡れている。
宵子の自宅から舞鶴学園までは、徒歩で二〇分くらいの距離がある。決して長い時間がかかるわけではないが、それでも宵子の気持ちを整理するには十分だった。校門を通過する頃には、宵子はこの町にやって来た初心を思い出していた。
両親の死の真相を知る。それだけだ。彼女の望みはそれだけなのだ。
裏玄関の靴箱エリアで上履きに履き替えると、宵子はまっすぐ二年A組の教室へ向かった。廊下には人影一つなく、窓から差し込む朝の光が静かに床を照らしている。どこかから時計の秒針が規則正しく刻む音が聞こえ、深い静寂が学校全体を包み込んでいた。そして階段を上り三階へ――いったん右手へ曲がると、一番奥の教室が二年A組だ。
ガララララララ。
教室の引き戸を開けると、意外なことに室内は無人ではなかった。
窓際の一番後ろの席――そこに一人の男子生徒の姿がある。
死ノ儀流一郎。
その存在に、一瞬息を呑む。思わず立ち止まるほど、流一郎の姿は静まり返った空間の中で際立っていた。物憂げに窓外を見つめている流一郎だが、宵子が入室したことには気づいているはずだ。昨夜のディスコ『ケイオス』での顛末を知りたかった宵子は、自分の席に鞄を置くと、自然と流一郎のもとへと向かった。そして小さく息を吸い込んで、思い切って声をかけた。
「おはよう」
その第一声が校内に立ちこめていた静けさを破った。
宵子は努めて平静さを装う。流一郎がゆっくりと宵子に視線を向けた。
「……昨日は済まなかったな。危険な目に遭わせてしまって」
「気にしてないよ。あれは私が無理矢理ついていったからだし、自業自得。それよりありがとう、その、伏見さんの家に連れて行ってもらって」
「俺は伏見小夜子に電話を一本を入れただけだ。礼なら彼女に――いや、きみのことだからもう済ませているな」
そう言いつつ、流一郎は視線を窓外に戻す。
「困ったときには、いつも伏見さんに?」
「ああ。伏見家は、この町では一般人代表ってことになっているからな」
宵子はその言葉のあやに些細な違和感を覚えた。
「…………」
「どうした?」
流一郎は視線を窓外に向けたまま、まるでその景色に問いを投げかけるかのように口を開いた。対する宵子は言葉が溢れ出すのを抑えきれず、口を開くと同時に、心の中で渦巻く疑問を一気にまくし立てた。
「麒族って……麒族って何? 亡霊人とはどう違うの? 惹麒空間って? あんな不思議な術を使う相手と、死ノ儀くんは戦っているの?」
「一気に来たな。質問は一つずつにしてくれ」
宵子は流一郎の冷静な言葉に、少しだけ赤くなり、手のひらを振って顔を扇いだ。そして恥ずかしさを隠すように肩を軽くすくめ、思わず小さく笑ってしまう。
「あ、はは……ごめん。じゃあ、まず、麒族ってなに?」
「麒族の定義は今でも議論が絶えないが、俗な言い方をすれば怪異――妖怪の類いだな。人間の天敵としてこの世に設定された存在だ」
「人間の天敵……この世に設定……?」
「麒族と人間が出会えば、即、殺し合いだ。天敵で間違いないだろう」
宵子はその言葉に思わず息を呑んだ。常識が音を立てて崩れ落ちる。
まず何よりも、とにかく信じられないという気持ちが湧き上がる。窓外の光の眩しさに、どこか遠くの世界の物語のように思えてきた。だが、流一郎の真剣な横顔を見ていると、その事実を否定することはできない。それを疑うには、宵子はもうこの街で様々な経験を積みすぎていた。
「そんなのが世の中にいるなんて、学校じゃ教えてくれなかった」
「この街以外じゃそうかもな」
「でも……」
「生徒手帳はもう読んだか?」
うなずく宵子。
「亡霊人のことなら載ってただろう? 秘密にするより公表しておいたほうが被害も少なくて済むからな。例えば地方によっては、熊が町中に出没する事件だってあるだろう。土地が変われば脅威が変わってもおかしくはない」
「それは、そうだけど……あっ、でも、麒族のことは載ってないよ」
「色々あるのさ。事情ってヤツが。真実を告げることだけが良いとは限らない」
「何か矛盾してる」
「確かにな。正解も不正解もない話だ」
「麒族のことを隠しているのは、もしかして美鶴神社の差し金?」
「そうだ」
宵子としてはカマをかけたつもりでいたが、流一郎はあっさり認めた。
「私がお世話になる美鶴神社は、麒族とどういう関係なの?」
「絶対的な麒族討伐組織。それが美鶴神社の実態だ」
「麒族の討伐……」
「組織の正式な名前は攻類神道と言う。美鶴神社は日本における麒族討伐組織の総本山だ」
「日本における? じゃあ、そういうのが世界中にあるってこと?」
「全容は俺も知らないが、世界中の組織はアリストクラート機関が束ねている。攻類神道はその日本支部のようなものだ」
「麒族は……世界中にいる?」
「そりゃそうだろうさ。民間伝承の中に、怪異が登場しない土地なんてないだろう?」
「それは、そうだけど……」
「それより、大丈夫か?」
「えっ?」
「俺と話しているところを見られたら、時女もクラスの除け者にされるぞ」
「そんなの慣れてる。死ノ儀くん、自分だけが孤独だなんて思わないで」
宵子の声には、どこか力強さと確信が込められていた。それは、流一郎への同情ではなく、彼の抱える生き様に共感する気持ちから来るものだった。
その言葉が流一郎の心に響いた瞬間、教室の引き戸が開かれ、五人の男子生徒たちが入ってきた。それぞれの足音が、ひときわ大きく教室内に反響する。男子生徒たちは、流一郎と宵子の姿を見つけるや、さっと目を逸らした。しかし、どこかギクシャクとした空気が流れ、無言のまま席につく様子に、宵子は一瞬だけ不安を覚えた。
「死ノ儀と親しいようじゃ、残念女子だな」
そんな声が、ふと宵子の耳に届いた。それはとても冷ややかで、心の中で宵子をあざ笑う気持ちが直接響いたようだった。宵子は、その言葉に動じないよう無意識に目を伏せたが、胸の奥には少しの痛みが残った。
流一郎と宵子が親密にしていたことは、一時限目を終えた休み時間のうちにクラス全員が知るところとなった。他のクラスにも伝播の真っ最中だろう。
悪い噂は光よりも速く伝わるとはよく言ったもので、昨日の時点では「華やかな転入生」だった宵子は、一瞬にして「クラスの腫れ物」として扱われることになっていた。
だが、宵子はそんなことには気をとめず、まるで風が吹き抜けていくように、クラス内での囁き声を受け流していた。何もかもが今に始まったことではないように思えた。これまでも「両親を火事で失った可哀想な子」と本人の知らぬところで話題になっていた宵子にとって、学校で噂話を立てられるくらい、どうということはなかった。所詮は些細なことだと感じるように心掛けていた。
時はすでに四時限目。国語の授業中。流一郎と宵子の噂話は静かに、だが確実に盛り上がっていた。時折、奇異なものを見るような視線を浴びせかけられたが、宵子は全く意に介さない。
隣の席の金髪リーゼントこと頂五郎が、心配そうに小声で囁いてきた。
「あんま、気にすんなよ」
その言葉は宵子の中で、微かな温もりとなって広がった。彼女はただ小さく頷いて「大丈夫」とだけ答えた――五郎の心遣いは、無意識の中で確かな支えとなった。
宵子はふと流一郎に目を向けた。相変わらず、物憂げな表情で窓の外を見つめている。あの無言の姿には、どこか尋常ではないものを感じる。
思えば、早朝に宵子が登校したときから、ずっとそうして外を眺めているのだ。まるで、視線の先に何かを探っているかのようだ。宵子は心の中で問いかける。何を見ているのだろう、何を感じているのだろうと。
次は昼休みだから聞いてみよう。じっくりと、彼の心に触れてみたいと宵子は思った。
× × ×
同時刻。舞鶴学園の校門に一組の男女が立っていた。
バーテンダーとバーテンドレス――学園には不釣り合いな服装の彼らは、昨夜、ディスコ『ケイオス』から逃亡した二人組に間違いなかった。
二人は何かに誘われるように、二年A組の教室を目指す。
惨劇が近付いていた。




