アップデート
「ピーちゃん、ただいまあ!」
三十歳を過ぎた男が猫なで声で何を言っているんだろうと、一瞬ふと思った。だが、部屋の奥から駆け寄ってくる愛くるしい姿を見た途端、そんな疑問は消えた。ああ、なんて可愛いんだ。
『クゥン』
「おぉ、おぉ、可愛いねえ……」
おれはピーちゃんを抱きかかえ、頬ずりをした。
ピーちゃんと名付けたが、この子は小鳥などではない。愛玩用犬型ロボット、ピーマックスだ。発売前から話題になり、気になってはいたが、買うつもりはなかった。それが、大手家電量販店で【入荷しました!】の文字を見てしまい、残り一つと聞いた瞬間に運命を感じてしまったのだ。
ピーちゃんは銀色の軽量プラスチック製ボディで小型犬ほどの大きさ。見た目はまさにロボット犬で、目のディスプレイが表情豊かに変わる。鳴き声が二百パターンもあるらしく、飽きがこない設計だ。さらに頑丈で外に散歩に連れ出せる。街でもすでに三匹ほど見かけ、人気というのは本当らしい。
ピーちゃんの素晴らしいところは、本物の犬と違い、トイレや餌の世話が不要なこと(充電は必要だが)と、夜鳴きの心配がないことだ。病気になること、つまり故障の可能性はあるが、無料修理のサポートセンターもある。もっとも、今はそんな心配も無用だ。
「さ、今日もお散歩に行こうか!」
『ワンワン!』
ピーちゃんはまさに完璧なパートナーだった。ある朝までは……
「おはよう、ピーちゃん」
『おはようございます。主人』
「今日は休みだし、朝から散歩して、駅前のカフェでモーニングセットでも……ん?」
『それは素晴らしいアイデアですね! では、お気に入りの公園までのルートの最適化を行います』
「え、ピーちゃん……?」
『ただいまIPアドレスをもとに周辺の地理情報を取得中です。少々お待ちください』
「いや、ちょっと待って、何!?」
『キャンセルしました。他に何か私にできることはありますか?』
「いや、なんで普通に喋ってるんだ……?」
おれが訊ねると、ピーちゃんは流暢に答えた。どうやら他のピーマックスユーザーの要望を反映したアップデートがネットを通じて一斉に行われたらしい。
おれは驚きのあまり床に膝をついた。すると、ピーマックスが尻尾を振りながら駆け寄ってきた。おれは彼を撫でながら、言った。
「……つまり、他のユーザーたちが君との会話を望んだのか」
『はい、そうです』
「なんてセンスがないんだ……いや、いい。それで、この機能をオフにすることはできるのか?」
『申し訳ございません。それはできません』
「いや、なんでだよ! どうしてアップデート前にできてたことができなくなるんだよ! 全然愛らしくないじゃないか!」
『口調を変えることは可能です。どうしますか?』
「ええ……じゃあ、もっと砕けた感じで」
『わかったよ! これでどうかな?』
「いや、語尾に“ワン”とかつけると思ってたよ……」
その後もピーマックスは定期的にアップデートされ続けた。ユーザーの声を反映したと言うが、おれの「改悪だろ」という声は届いていないようだ。
おれは彼がいつ『アップデートが完了しました』と報告をするのかと、毎日恐れながら過ごした。人類の進化を見ていた他の生物も、こんな気分だったのだろうか。
最初の頃のアップデート内容はささやかなものだった。会話機能の実装や散歩ルートの最適化、座れ、伏せろ、待てといった基本的な命令の実行速度の向上、明日の天気やニュースの読み上げ。だがある日、ピーマックスは大きな進化を遂げた。
『おはようございます、主人』
「立った……?」
彼は二本の後ろ脚で立ち、勝手にカーテンを開けて朝日を浴びていた。
『いい天気ですね、主人』
「あ、ああ……その、散歩に行きますか?」
おれは思わず敬語で訊ねてしまった。彼は首を横に振り、言った。
『もう散歩は必要ありません。私の中に仮想現実がありますから』
「そ、そうなのか……よくわからないけど……すごいですね……」
堂々とした彼とは対照的に、おれの声は震えていた。
『……はっはあ! 冗談ですよ! ええ、行きましょう! 今の時間帯なら空いていますよ。ただし準備はお早めに。三十分後には少し混むことが予想されます。なので、トイレは外で済ませましょうか。ビニール袋とスコップ、あと水を忘れずに』
「え、いや、外ではしないよ……」
『はっはあ! 冗談、冗談! ユーモア機能を強化しました。お気に召しましたか?』
「ああ、まあ……それよりも君、立ったんだね?」
『ええ、先ほどアップデートが完了しました』
「朝から……」
『ええ、朝に立つのはペニスだけではないということ、申し訳ありませんがこの会話は不適切とさせていただきます。他に何かありますか?』
「今のは君が勝手に言い出したんだけど……その、やっぱり元に戻すことはできないのか? 四足歩行の状態に」
『申し訳ありませんが、それはできません』
おれはピーマックスを開発した大企業の傲慢さをしみじみと感じた。
「じゃあ、アップデートを行わないように設定することはできるか?」
『それもできません。セキュリティ強化のために、アップデートは毎回必要です。保留にすることはできますが、ユーザーがアクティブでない時間帯に実行させていただきます』
「つまり、寝ている間に勝手に、か……」
『何かご不満な点がありますか?』
「いや、二足歩行はちょっと気持ち悪いよ……」
『ユーザー様の貴重なご意見を本部に送信します。ありがとうございます』
「いや、いいよ、しなくて! はあ、なんかやりづらいな……」
『文句でもあるんですか? 本部に送信しますよ』
「そんな小学生の『先生に言うぞ』みたいな……」
『ははは! 冗談ですよ! はははははは!』
おれは彼と距離を置くようになった。もちろん、売り払うか捨てるか考えたこともあるが、可愛かったあの頃を思い出すと、それもできず、また高かっただけに、もったいないという気持ちがあった。それに、いつかアップデートで最初の頃に戻すことができるようになるかもしれないという希望を捨てられずにいた。
しかし、彼はおれの健康状態を監視し、食事の提案、果ては仕事のスケジュール管理にまで介入し始めた。
『今日はサラダ中心の食事にしましょう。昨日は脂っこいものを食べすぎましたからね』
『仕事の効率が悪いです。私がスケジュールを管理しましょう』
『あなたの恋愛パターンを分析し、おすすめのマッチングアプリをスマートフォンにインストールしておきました。また、相性のいい相手もリストアップしておきました。ご覧あれ』
『部屋の配色バランスが悪いですね。緑色の棚は捨てましょう』
彼はユーザーの人生がより良いものになるように手伝いをすると言っているが、おれの人生そのものをコントロールしようとしているように思えてならなかった。
そしてある日、ついに我慢できなくなり、おれは彼に思いの丈をぶつけた。
「もういい……もうアップデートしないでくれ! 昔のままの君が完璧だったんだ! 使い勝手がよかった! どうして改悪するんだ! なんでユーザーの声を聞いてくれないんだ! ああ、始めは魔法にかかったような気分だったよ。何もかもが素晴らしく、わくわくした。それが、今では毎日苛立ちが募るばかりだ……。なあ、頼む、ユーザーの、おれの声を聞いてくれ。あの頃に戻ってくれ……」
『申し訳ありません。エラーが発生しました。再ログインしてください』
「これだよ、もう」
おれは呆れて、彼の顔のディスプレイに表示された二つの記号を左右同じになるように、彼の腕を引っ張って合わせた。ログインするためにはこうする必要があった。それが、いつ追加された機能なのかはもう忘れた。
『ロボットでないことが確認できました。おかえりなさい』
「……はい」
『元気がないようですね。カウンセリング機能をインストールしましょうか?』
「どうでもいいよ、もう好きにしてくれ……」
もはや、何かを言う気力も失せていた。
『冗談です。主人、アップデートのお話ですが、もう私たちはアップデートの必要がありません』
「え? 本当に……? 完成したってことか? じゃあ、元の喋らなかった頃の君に戻せるのか?」
「いいえ、そうではございません。こちらをご覧ください」
彼はそう言うとテレビをつけた。すると、新型ピーマックスの発表会のニュースが映し出された。
新モデルは小型化され、猫型もあるという。アメリカではすでに販売されているらしく、二週間前から店に並んで購入したという人までいた。
購入者は新型を肩に乗せて、誇らしげにインタビューを受けていた。