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第四帖:山宇路の露:上

 これは、令和の帝の御治世のことでありました。


「民間人。君、来週、出張だね!何時から?」

「ファッ!?」


 から始まる旅があったのです。

 この後、民間人は出勤時間を必死に調べた末(上司に滅茶苦茶迷惑をかけた)、前泊であることを初めて知ったのであった。


 鈍行の電車に揺られ、降り立ったのは大阪。そこから一週間に及ぶ仕事の末に、上司が気を使って休日をくれたのである。


 せっかく大阪に来たなら、京都に行こうぜ!(意味不明)

 こうして、民間人。の京都行脚RTAが始まったのであった。


 出張後新たに京都で一泊を取り、色々の帳票を申請しつつ、京都旅行の予定を練る。

 何しろ千年の都である。見たいところを手当たり次第見ていたらとんでもないことになる。そこで、あらかじめ予定を立て、可能な限り間を詰めて史跡を巡る案を練る。頭がほとんど回っていなかったので、この計画がとにかく難しかった。


 さて、翌朝、とうとう旅の本番である。計画は練った。後は予定通り実行するだけである。あくまで事務的に、計画通りに・・・。


 い く わ け が な い だ ろ そ ん な ふ う に よ ぉ !



まず、多くの観光地の開場時間よりもはやく、はじめに向かったのが「夕顔墳」。源氏物語のヒロインの一人、夕顔の墓の辺りを推定して造られた史跡である。勿論、創作の出来事なので夕顔はいないのだが、江戸時代に国文学として深化した源氏物語の需要の歴史が「垣間見える」史跡である。

 この墳墓、夕顔町(名前の由来になっている!)の民家のごく近くにあるので、とにかく見つけづらい。近所の方に迷惑にならないようにひっそりと佇んでいるのは大変配慮された作りになっている。

とは言え、探す方は二、三周彷徨った末にようやく見つけることができた。


 感慨に耽る時間もなく、次の史跡へ。次は、源氏物語の主人公、光源氏のモデルとなったとされる源融が隠棲した邸の跡地「源融河原院趾」。現在の五条大橋のごく近く、五条通沿いにあるので、行くのは比較的容易だ。ついでに鴨川と五条大橋も見れる。

 二股の木の前に立て看板がひっそりと佇むその場所は、かつて栄華を誇った左大臣・源融が、鴨川に至る巨大な邸宅を設けたのがはじまりである。

 この邸宅こそが六条院のモデルの一つとされており、非常に大き今のであったそうだ。

 ただし、それも今は昔の栄華で、現在は静かに街に佇む樹木の一つとして街に溶け込んでいる。

 本当は渉成園のあたりに庭を作り、塩竈のために海水を引かせたという謂れがあり、そちらの方に向かいたかったのだが、今回は時間が早すぎて、また戻る余裕もないため、断念した。


 さて、五条大橋を渡りつつ、六波羅は六道珍皇寺へ。ここは、小野篁が閻魔殿へ向かった井戸があるという言われが残っており、小野篁ゆかりの地である。

 ここまで概ね源氏物語ゆかりの地を巡ってきたが、なぜ突然小野篁が出てくるのかと訝しむ人もいるだろう。小野篁は、地獄で閻魔大王に対して紫式部の弁護をし、助け出したという逸話がある。

 もちろん小野篁ではないので、本当のところは分からないのだが(本当だったらかえって面白いのだが)、現に二人の墓所は千本えんま堂にあり、そこは小野篁が建てたと伝わっているので、結果的にそう信じられていても特段不思議ではない。

 二人の生きた時代には200年ほどの隔たりがあるので、あまり関わりは無さそうだが、「源氏供養」という形で、紫式部は能などの伝統芸能を始めとして嘘と好色の罪で地獄にあると伝わっている。

 これも、歴史受容の流れを感じさせる逸話で、恐らくこの「源氏供養」の話が先にあり、これを不憫に思った人々が地獄にゆかりのある同時代人(あるいは同時代かは目を瞑って)である小野篁に助けを求めたのであろう。このように整理すると、現代まで続く源氏物語の需要の流れにも、仏教が強い影響を齎していたのも分かってくる。

 ともあれ、この井戸を見る際には堂内に入れず、中庭を垣間見る必要があったので、それなりの時間をかけて窓の向こうを探し、木陰の奥にある井戸を観覧させて頂いた。

 ・・・彼はこの狭そうな井戸に一体どんな体勢で入ったのだろうか。想像してちょっと笑ってしまった。


 時刻は予定より僅かに早く、8時ごろ。ここから本格的な京都観光が始まる。


 まず向かったのは鳥辺野。実際の場所はわかっていないものの、だいたいこの辺りということはわかっており、清水寺から大谷本廟(親鸞聖人の墓所)にかけての間だと考えられる。その名の通り、平安時代には鳥葬の山として葬送地とされており、御堂関白(みどうかんぱく)藤原道長の葬送もここで行われたとされる。


 現在では清水寺観光で賑わうこの地だが、かつては烏の舞う別れの地であった。六道珍皇寺もこの道中にあり、六道輪廻に惑う私たちが人間として最後に渡る境界として、小野篁の伝説が生まれたようである。

 さて、現在、鳥辺野のあたりと目されている大谷本廟は墓所であり、あくまで菩提を弔う場所なのだが、親鸞聖人の学問習得のために籠った石窟が残されている。中を観覧することはできないが、本堂の前などで静かに手を合わせて参拝させていただいた。ちょうど永代供養の日だったらしく、境内にはたくさんのテントと参列用の簡易椅子があった。警備の方に教えて頂き、心静かに祈りを捧げた。


 さて、心を整えて次に向かったのは頂法寺六角堂。この場所は聖徳太子が建立したとされる寺院の一つで、西国三十三所のひとつである。この場所は、室町時代以降には平安京の下京区の集会場のような役割を果たし、都の市民にとって憩いの場にもなっていったそうだ。そして、私が行ったときには鳩と白鳥の憩いの場となっていたのであった。

 この通り、現在では名高い観光地であり、しっかりと地域に根差した寺院であることが分かるが、平安京造成の際に道の中心にあるため取り壊されそうになったところを、本堂がひとりでに動いて取り壊されずに済んだという逸話がある。

 実際の発掘調査では、同地の地下には旧寺などは見られなかったらしく、『御堂関白記』や『小右記』に記載があるので、実際には平安時代に建立されたのではという話もあるらしい。ただ、古いことなので実際のところは分からない。ともあれ、聖徳太子像を収める本堂、親鸞堂、太子堂を参拝し、偉大な先人たちに挨拶をした。

 そして、十六地蔵のあたりで色違いの鳩を見つけて無邪気に喜んでいるところに、賑やかな声が聞こえてくる。制服を着た学生達が、修学旅行でやってきていたらしい。楽し気ではあるが寺院としては少々騒がしくなってしまったのだが、修学旅行で京都を回った私も、周りの人々にはそういう風に映ったに違いない。


 まぁ、私は当時から一人だったし、彼らには仲間たちがいるのだが・・・。


 そして、この辺りで薄らと考えたのだが、聖徳太子と小野妹子ゆかりの頂法寺、小野篁ゆかりの珍皇寺と、ここまで廻った寺社が悉く私の知るギャグマンガの登場人物ゆかりの地で、京都観光の目的にギャグマンガ巡礼の道が開かれた気がした。そんなことを考えながら、一人薄ら笑いを浮かべる中年は、ジャージを着た貴人たちに別れを告げて、次の目的地へ向かうのだった。


 ギャグマンガの話が出たので、少し零れ話をしようと思う。歴史物語を読んでいると、読者から「史実に忠実でない」というコメントがあることが散見される。これは長年議論のあるところだと思うが、史実というのは実際のところ分からないところが多い。あくまでフィクションとして作品を見るより外に仕方がないと思うし、それをきっかけに史実に触れることで、新たな価値観を持ちこむファンが増えるということもある。また、史実が変わっていく中で、人々の解釈がどのように変化していったのか、というのは一つの「歴史」であり、例えば朝廷で一世を風靡した『源氏物語』は、江戸時代に国文学として幕府の後ろ盾を得て更なる発展を遂げた。嫁入り道具にも刻まれるなど、その影響力は計り知れない。ちょうどそのように、歴史や古典といったものは、その時代の倫理観によって新たに解釈されていくものでもあり、このように賛否あるのはむしろ喜ばしいことと思える。


 NHK京都の前を通り過ぎ(とか言いながら内部もしっかり観光をし)、次に訪れるのは『京都御苑』。

 現在の皇居は江戸城にあるが、これは政治の中心地が東京に移っていたためであり、それ以前には天皇を中心とした政の中心は専ら京都御苑のあたりであった(武家の時代だったのでかつてのようにはいかなかっただろうが・・・)。

 江戸時代の間、天皇が御公務を行った紫宸殿や清涼殿が残り、その他公卿の邸宅やその跡が残り、当時の公卿文化を今に伝えている。

 また、都市公園としても機能しており、緑豊かな市民の憩いの場として開かれている。回っている間にも、ピクニックを楽しむ方々や、水路の前で読書をするお方、ランニングやウォーキング中の方など、色々な人が各々緑豊かな京都御苑を楽しんでいた。


 ちなみに、京都御苑の近くにある元離宮二条城は、近代の天皇家の離宮として活用され、天皇家の生活の舞台となっていく。江戸幕府を成立させた徳川家康が、公家町の管理と上洛中の在所として建てた二条城が、再び天皇家の離宮として機能していく。江戸時代の京都を通して見守ってきた、江戸幕府にとって重要な居城であると同時に、儀式・公務の場となった清涼殿と紫宸殿と並んで、皇族にとっても重要な史跡である。

 京都御苑については、時間の関係上、殆ど建物へと入ることができなかったが、京都御苑の南の玄関口である、閑院宮邸跡を回覧した。

 天皇の年中行事、つまりは御公務などの解説を読む。四方拝に始まり、賀茂祭(葵祭)や端午の節句、豊明節会、新嘗祭など、名前と謂れを知っていても実際のところどのように行われていたのか知らない年中行事について、簡潔にまとめられている。公家町の出土品なども展示されており、無料ではあるが非常に興味深い展示であった。京都御所を見て回るだけでも、京都に行く価値はあるかもしれないと思えてくる。何せ、歴史区域であると同時に、緑地公園なので、基本的にお金もかからない。

 続いて、北へと真っすぐに向かい、出水の小川から現れた鴨が、仲睦まじく道を横断する姿などをほっこりしながら眺めながら、京都御苑の中腹当たりへ。ここから、京都御所の周辺を周回しつつ、目的地へと向かう。外観を眺めるだけでも非常に興味深い。迎賓館や京都御所の塀をぐるりと一周しつつ、門の名称をパンフレットで確認する。


「ここ建礼門じゃん!これ建春門じゃん!」などときゃっきゃしながら、大宮御所の裏手へと至る。そして、京都迎賓館の辺りで休憩所の周りをぐるぐると回る(なんと都合によって休憩所へ入れなかった。そんなこともあるのね)。数分間ここを彷徨った後、ようやく南方に目的地を見つけて近づいた。


 ・・・と思ったのだが、ただの灯篭だったので、ここで暫く道を右往左往する。ようやく目的地を見つけて、その前に立つ。


 土御門邸(つちみかどてい)跡。左大臣源雅信の娘、源倫子が相続し、御堂関白藤原道長の住居となった場所である。かつては栄華を誇ったイキリ望月おじさん(と私が勝手に呼んでいる)こと道長の邸宅跡である。平安時代は通い婚が普通で、夫の側が正室の妻の家に入り、養われながら家を継いでいくことがあった。

 実際、道長は藤原北家の中では藤原兼家の五男であり、通常であれば天下を取るような立ち位置に無かった。相次ぐ兄たちの不幸を悲喜交々に見送りながら、兄藤原道兼の先例に倣い内覧となり、甥の藤原伊周をほとんど追い出す形で失脚させ、天下の頂点へと昇り詰めていく。

 それを支えた要因の一つが、宇多天皇の血筋を受け継ぐ由緒正しい公家源氏の莫大な財産である。つまり源倫子の相続した財産を元手に、巧みに公卿たちの支持を得て、全然イキっても許される地位である従一位・摂政・太政大臣に上り詰めたのである。

 紫式部が仕えた中宮彰子こそ、何を隠そうこの藤原道長の娘であり、一条天皇の皇妃、つまり後一条天皇(敦成親王(あつひらしんのう))の母君である。彼女がイキリ望月おじさん道長の、栄華の源泉となっていくのである。

 紫式部は立場上ライバルの中宮定子のサロンを貶める必要があったため、『紫式部日記』において中宮の出産や皇子の五十日(いか)の祝いについて書き、中宮彰子を持ち上げる傍ら、同時代の才気溢れる女流作家評を冷徹に記しながら、定子に仕えた清少納言をひくほど酷評している。「漢字を偉そうに書いているがよく見れば間違いが多い」とか、「女が知識をひけらかすのは好ましからざる評価を受けるというのに」とか、以前自分に向けられた言葉も込めつつ、「こんな女性が幸せになることがあるでしょうか?(反語)」と結んでいたりする。

 これは個人的な妄想に過ぎないのだが、恐らく清少納言が『枕草子』の「あはれなるもの」において、自分の夫である藤原宣孝を笑い物にした(御岳詣でで派手な服を着ていったため)ことを相当根に持っており、そのことで藤原道長と利害が一致した結果、筆が走りすぎたのだろうと思う。何なら清少納言は定子を推しながらも若干道長推しのきらいがあったようで、そこまでこき下ろされる謂れはなかったと思うので、この三才女評には相当私怨が入っていると思う。


 ちょっと熱くなって語りすぎたが、土御門邸跡はこの通り、平安中期の摂関政治全盛の時代に、その栄華をほしいままにした人物の屋敷があった場所である。それが、今はバッタが原となって緑地化しているというのは、世の無常を痛感させられる。

 千年も経てばそうもなるが、それでも、紙は千年残る。彼の著した『御堂関白記』は、後の時代に彼の癒し系の筆跡と、執務の様子を現代に伝えているのである。だから、紙の資料を残すことは重要なのだ。


 旧土御門邸を後にして、手つかずの自然が残る京都御苑を北へと昇っていく。環境問題が騒がれる昨今だが、世間では、生態系のバランスというものは結構軽視されているように思う。

 何せ杉が大量に植林される国だ(紫式部に倣って私怨を述べるが)、取り敢えず緑っぽい方が気持ちいいよねとか、かわいい動物は助けてあげないとね、で自然保護が止まっていると思うと、少し悲しくなるのである。

 肝要なのは生態系の絶妙なバランスの維持であり、正直あまり可愛くも綺麗でもない生物のことも含めて保護していき、経済の発展のことも考えていくという非常に難しい舵取りが必要となる。その点、手つかずの自然を残し、渡り鳥や小動物、昆虫や植物を保護していくという試みは重要だと思う。木々の間を縫い歩きながら、そんなことを思った。


 東側の林道を北へと抜け、御所の塀が欠けたように立つ猿が辻に至る。ここはちょうど鬼門となっており、鬼門に建物を建てることを避けた結果、一部分だけ塀が引っ込んだような形で建てられている。現在の京都御所は江戸時代ごろの再建だと思うので、この時代まで中国古代から日本の陰陽道へと継承された鬼門が信仰されていたことに感動を覚える。今となっては建物も真四角のことがあるが、現代でも鬼門を避けて立てるという信仰は深く根付いており、科学信仰のこの時代にまで、こうして文化が残っていくというのは嬉しくもある。

 文化は生き物のようなもので、永遠不変ではなく進化していく(退化も進化の一形態だ)ものなので、史跡を巡りながら、その文化がどのように受容されて時代の一部に溶け込んできたのかというのは、本当に興味深い。そんなことを思いながら、ベンチに座って水分補給をしつつ、鬼が辻を眺めていた。


 だが、京都御苑はとにかく広い。この時点で足がパンパンになっており、少し休む程度では全く治らない。

 そこで、旧近衛邸跡の糸桜を観覧し、近くの休憩所で茶菓子とお抹茶を頂いた。

 冷たい苦みが心地よく喉を通り、和菓子特有の優しい甘さが心を慰める。美しい緑地をのんびりと眺めながら、旅程の修正をしつつ、公家町に思いを馳せる。

 先ほど土御門殿は夢の跡となっていたが、藤原北家の血筋は江戸時代の公卿たちにしっかりと受け継がれていく。五摂家の一つ、近衛家も藤原北家の嫡流であり、確かに栄華の跡は後の世に引き継がれていった。それは貴族は貴族と言ってしまうと、酷く差別的に思われるかもしれない。ただ、現在まで血筋を残してきたという事実は、歴史観とは別に、生命の神秘を感じさせてくれる。家を守る、血を繋ぐ。一見時代遅れに思うかもしれないが、これこそが歴史の中に息づく『生命の輝き』なのかもしれなかった。


 さて、と立ち上がる。次の目的地に向かおう。まだまだこの地には多くの史跡が残っているのだから。

旅の歌


 街角に 寄りて佇む 古塚に 光添えたる 曙の花

 加茂川に 架かる五条の 大橋の 袂で想う 四季の宮かな

 人の道が 閻魔の井戸を 知らずとも 忘れられまじ 物語かな

 居並びし 鳥辺の山の パイプ椅子 菩提を祈る 永き心や

 有難き 六角堂の 謂れこそ 戯事を好く 知の泉なり

 青深し 御所の出水に 映る陽を 足取り軽く 鴨らは渡る 

 人の世の 欠けるを知らぬ 望月も 過ぐ年月に 夢のまた夢 

 日の下の 卯にも酉にも 脈々と 万の地にも 逢う血の縁

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