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第三帖:湖月の抄

 はい。まずは弁明をさせて欲しい。今回の旅は、急ごしらえの旅だった。というのも、今回は兄が旅行に行けなくなったので、そのチケットを預かってたまたま休みだった私が行くことになったのだ。しかも前日に。なので、私は交通費をほとんど支払わず、旅行に行くことができたのだ。


 さて、今回は、(兄の目的地は多分私の目的地とは違ったのだろうが、)琵琶湖を臨む滋賀県だ。そして、滋賀県と言えば、私にとっては紫式部ゆかりの地である。JR石山駅を降りて、京阪石山駅へと乗り換える。最初の目的は、紫式部が源氏物語の着想を得て、筆を執った石山寺である。


 ところで、寺院というのは参拝それ自体が修行の一環となるように設計されることが多い。建立当初で言えば人里から離れていたり、急峻な山に建立されていたり、様々な工夫がなされているようだ。石山寺はまさしく、急峻な山に設けられた寺院で、参拝にかなりの労力が要る。私も例に漏れず、傾斜の激しい石階段の道を、薄く汗をかいて登ることになる。


 石山寺駅を出てしばらく歩くと、休憩所の周りに賑やかな鼓の音が響いてくる。噺家が寺院のすぐそばで、紫式部の人生を語っているようだった。観光客で既に賑わっていた休憩所を素通りし(とかく時間がない)、そのまま境内へと入所した。まずは東大門を潜る。雄々しい仁王像が門前を守っている。筋骨隆々で勇ましい仁王像は、寺院の門ではよく見られるように思うが、本作は運慶の作と伝えられている。運慶と言えば、夏目漱石が『夢十夜』にて引いた希代の彫像士である。正門たる東大門を守るに相応しい。


 さて、受付にて拝観料を支払って、入山する。まず最初に現れたのが、「比良明神影向石」。石山寺建立の初めとなる逸話が伝わる石で、お告げの為に比良明神の座っていた石とされている。入山すぐに重要な史跡が現れる、さすがは名山石山寺である。


 さぁ、いざ本堂へ。豊かな葉桜の並木道から、急峻な石の階段を登る。踏み外せばひとたまりもない、険しい階段である。

 登りきると、目の前に寺院の由来ともなった硅灰石がすぐに現れる。険しい山に相応しい、厳然とした佇まいの石群で、国の天然記念物に指定されている。この石は、聖武天皇の治めた天平年間、つまりは奈良時代から保全された由緒ある代物で、かつては綺麗な白色の輝きを放っていたという。松尾芭蕉もこの石を見て一句呼んでおり、この寺院が、いかに歴史に名を残す霊山であるかを伝えている。現在は黒色がかっているものの、これもまた趣深く、かえって逞しさを感じさせる。


 さて、蓮如堂側からさらに境内を登っていくと、本堂が見えてくる。この場所には、同山の謂れを現代に伝える『石山寺縁起絵巻』にも残される、紫式部が源氏物語を編んだ『源氏の間』が残されている。ごく狭い規模の中に、参篭した紫式部が硅灰石越しに琵琶湖を臨む姿を模した人形が置かれ、当時の風情を感じさせてくれる。振り返れば、見事な絶景。高い山から湖と、桜の薄桃色と若葉の緑色を交えた石山寺境内の様子を見おろすことができる。先述の通り、寺院への参拝というのはそれ自体が修行の一環でもあるのだが、この美しい景色はまさに、修行の成果、俗物的に言えば頑張ったご褒美なのである。本堂の拝観も行ったが、見事な仏像を拝むことができる。中には、平安時代から伝わる仏像もあり、全身に御利益を授かるような、心洗われる思いで順路を進んだ。最後に、紫式部が使ったとされる硯のレプリカが展示されており、いたく感動を抱いた。牛(薄)と鯉(濃)で墨の濃さを示しているというのだから、言葉遊びの巧みさも光る。心洗われる思いで本堂を後にしようとした矢先、目の前に飛び込んできたのが、「順路」の二文字と矢印。


 逆回りしていたようだ・・・。


 さらに、境内を登っていく。紫式部の供養塔と、松尾芭蕉の句塔が並び立つ。実は、紫式部は、『源氏物語』を著したがために極楽浄土には登れず(創作は「嘘」だからだ)、地獄に落ちてしまったという言い伝えがあるらしく、その供養が長年行われてきたらしい。何とも気の毒な話なのだが、世の中とは理路整然としていて残酷なものだ。私も、学才豊かな先達の後世を弔って、供養塔に手を合わせた。

 多宝塔と呼ばれる、四角い屋根と丸い屋根とを重ねたような構造の建物が見えてくる。石山寺の多宝塔は、鎌倉時代、源頼朝の命で建立されたとされ、日本最古級の多宝塔として伝えられる。独特の構造をしているので、それだけで心奪われるのだが、この建物もまた歴史上の重要な人物が関わった建物である。底の知れない歴史の重みを感じる。さらに、月見亭と呼ばれる、後白河天皇が行幸した際に建立された見事な展望の建造物もある。これまた途方もないビッグネームだ。月見亭のごく近くからでも、境内から河川を見おろす見事な景色を見ることができる。月見亭を、境内の木々越しに撮影すると、これもまた趣があって、「写真がうまくなった」ような気さえしてくる。


 さて、さらに登っていくと、「石山寺と源氏物語展」が開催されている豊浄殿が見えてくる。ここでは、石山寺に伝わる紫式部に関する伝承のほか、『源氏物語』信仰とでも言うべき、名高い源氏物語を伝える歴史資料が展示されていた。さらに、古今の歌合の中に見る紫式部の歌など、文人達が敬愛した紫式部と源氏物語に対する諸品が展示されていた。


 一通りの観覧を終えると、順路を通って降っていく。最後にお土産を見て、石山寺の大河ドラマ館も入館した。滋賀にはない展示があるので、これも見応えがあった。


 全ての観覧を終えて、時刻は既に14時。昼食も取らずにそのまま石山寺を後にして、三井寺へと急ぐ。


 京阪電車の三井寺駅を降りて琵琶湖疎水沿いに少し歩くと、三井寺が見えてくる。ここは、紫式部の父・藤原の為時が出家した寺院とされ、親族が同山の僧侶であったということで、紫式部の親族ゆかりの寺院である。


 三井寺は、その名を長等山園城寺と言い、その始まりは7世紀にまで遡る。西国三十三所にも数えられる霊験あらたかな寺院であり、比叡山延暦寺と並んで平安時代にも篤く信仰を集めた。

 歴史に名高い名山だけあって、境内が非常に広い。ここを回るだけでも、一日過ごせてしまうだろう。今回は、境内を早足で回るという、騒々しい参拝になってしまった。


 私は、長等神社側から入山し、三井寺境内に入る。まず初めに目に飛び込んでくるのが観月舞台。百体観音堂のすぐ隣に設けられており、見事な景色を楽しむことができる。どうやら予約制のようで、残念ながら見ることは出来なかったが、外部から観覧者の様子を見るのも、また楽しいものだ。


 そして、ふと背後を見ると、何かいるのだ。


 何か、というのは、頭には鐘を被り、亀の甲羅を担いだゆるキャラだ。後から調べたのだが、「べんべん」くんというマスコットキャラクターだそうで、境内に観光客の黄色い声がこだましていた。確かに、何とも言えない、愛らしさのある造形で、何となく顔が綻ぶ。そんなゆるキャラだった。


 取水舎で手を清め、観音堂を参拝する。底からはもう怒涛の勢いで各殿を巡っていく。毘沙門堂、微妙寺、円宗院、勧学院を横切り、普賢堂へ、霊鐘堂の弁慶鐘と弁慶の汁釜を観覧し(どちらも大きい!)、金堂へと至る。内部まで拝観させていただき、浄財もさせて頂いた。最後には小銭が足りなくなるほどだった。そこから仁王門まで降り、最後の目的地、市立歴史博物館へ。


 ここは三井寺のすぐ隣にあったのだが、三井寺ほど篤く信仰を集めた寺院ともなると、その境内も大変に広い。すでに15時30分を回っており、閉館時間までにしっかり巡らなければならない。


 この場所もまた、源氏物語にゆかりの所蔵品を展示しており、石山寺縁起絵巻や、平安期の硯、光源氏のモデルの一人に数えられる、源融みなもとのとおるを祀る融神社に収蔵されている、源融の像など、諸々の展示品が並んでいる。


 中でも、紫式部を描いた各種の大和絵は、日本の大古典として読み継がれてきた『源氏物語』の、長い歴史を伝えるものだ。

 昔から、結婚の結納品や嫁入り道具として、源氏物語の意匠は高い支持を集めている。特に、正編一部に数えられる縁起の良い帖のものが人気で、そうした歴史を伝える展示品もあった。かつて都(いわゆる大津京である)も置かれた大津市の長い歴史を回覧することができるので、一時間そこそこではちょっとすべて見るには物足りないぐらいなのだが、やや駆け足で展示品を観覧して、閉館時間ぎりぎりにパンフレットを購入して、旅の結びとした。


 滋賀県には、まだまだ、紫式部ゆかりの地がある。逢坂の関は本編にも登場するうえ、越前下向の際に彼女自身が赴いた地だし、そうであれば琵琶湖に向かう浜も見なければならない。やはり、日帰り旅行はきつい・・・。もっとゆっくり回りたかったというのが本音だ。

 ともあれ、ゆったりと琵琶湖疎水を遡り、電車を乗り継ぎつつ物思いに耽る。暁が降って夜の帳が落ちる大津の景色は、湖水や河川の青や緑と、陽光を映す白い瞬きに満ちて、私を見送ってくれた。

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