第十一帖:無常の音、千歳も八千歳も
人類史上最も偉大な発明が何であろうかと問われれば、私は恐らく「文字だ」と答えるだろう。
私たちが古典に触れることができるのは、物語が文字として刻まれたからだ。それを支えるもう一つの発明が紙であり、私たちが「カジュアルに」言葉に触れることができるのは、紙の文化たるわが国の誇りであろう。
さて、劇的な物語が人の心をつくと言うのに、私がしめやかな「終わり」を何より楽しみにするのは、すべて言葉が持つ心が、そこに収斂されていくからで、そのためにどれほど劇的でないものを綴ったてきたのだろう。人の思いとは不思議なものである。
京阪出町柳駅から地上へと登ってきた時、先ずは懐かしいか匂いが憂し心を迎え入れた。大きな河川に整然と並ぶ幾つかの橋が、市街地へと向かって長く伸びている。
車両の往来も多い朝特有の忙しなさの中、京都御苑方向へ向かって橋を渡っていくと、幾つもの商店が並んだ穏やかな町並みへと至る。今は観光客も少なく、人通りが少ない様子で、どことなくまったりとした雰囲気がある。それでも、この土地特有のはんなりとした活気(矛盾しているようだが)は、この町全体を包み込んでいる。
駅から歩くこと十分ほど、京都御苑の塀を向かいに見る狭い路地に、紫式部邸宅跡を擁する蘆山寺がある。今日の目的地はこの場所ではないが、やはり物書きとして、この場所にご挨拶に伺うのは礼儀というものだろう。
境内で出迎えてくれる母娘の碑文が、参拝客を招じ入れる。流麗な文字で刻まれた百人一首からの二首は、この土地が他ならぬ彼女たちの家であり、文学的史跡であることを示すランドマークとなっている。
寺内へと入ると、紫式部の像が巻物を手に、憂いを帯びた微笑みを湛えて出迎えてくれる。今は私一人で、その場で膝をついて頭を下げた。
「再び、訪問致しました」
受付には住職の姿がなく、土産物屋お札、御守りの類がショーケースに飾られている。源氏物語ゆかりの品もある。
しばらく待って呼び鈴を鳴らすと、住職の方が小走りでやって来た。拝観料を支払い、源氏庭を擁する回廊へと入る。
各部屋にある展示物が変わっている。各帖を描いた物語の貝合わせ、寺院ゆかりの奉納品のほか、源氏物語を描いた掛け軸、古い百人一首など、歴史的に重要な資料が整然と並べられている。
中でも、やはり改めて目にする紫式部日記絵巻、源氏物語絵巻の展示は、「その場面を知っている」と言うだけで感慨深い思いを抱くものである。
展示を鑑賞して、改めて源氏庭を眺める。
以前訪れた際は、苦しい心うちを静かに吐露するような、息苦しさを抱えてこの庭を眺めていたものだが、今は白い雲が疎らに流れる青空の下で、ただ、眩い緑が目に優しいと感じるばかりだ。清々しい心持でしっとりと流れゆく時間を楽しみながら、『余暇』もなく過ごしてきた日常のことを忘れる。
良い天気だ。晴れがましいのは心だけではないのだな。
私は出口で再び紫式部にご挨拶をして、「寄り道」を終えた。
賀茂橋を渡り、再び出町柳駅へと戻る。昼下がりの賀茂川の、散歩中の犬などを横切るたびに目で追いかけたりしつつ、バスの到着を待つ。向かいのバス停には学生から老人まで、待ち人も多いのだが、こちらはあまり人がいないようだ。待つこと五分ほど、京都バスが停車する。今回の目的地はこのバスの終着駅だ。
普段大体乗り違えるところ、全く乗り違いもなく上機嫌な民間人。は、それほど多くない観光客に混ざって、地元の人々が橋から橋までバスを乗り継ぐ様子をのんびりと見送る。川沿いを行くバスの景色は、どことなく私の故郷を思わせるくらいの繁栄ぶりで、忙しなくも侘しくもない、心地よい具合である。
やがてバスは市街地を離れ、長く険しい山道を登っていく。周りを松林が囲んでいき、川底がはるか下まで深くなっていく。そして、それに伴って緑も深まっていき、周囲は傾斜の上に立つ集落や、点々と建てられた工場、静かな寺社などへと移り変わっていく。
外を眺めればわずかに色づく葉も未だ残り、苔生した巌が対岸に転がっているのを遠目に見ることができる。
やがてバスは、狭い山道の遥か上の、大きなバス停へと至る。既に観光客が行列を作るバス停から降りると、険しい深緑の山の中から削り取ったような平らな土地に、食事処があるだけの簡素な駅が広がっていた。
バス停から左右へ広がる参道は、この平らな土地からそれぞれ上下へとうねりながら伸びている。
曲がりくねった参道を登ると、木々の葉擦れの音と鳥たちの囀りの音だけが響く中で、小さな畑がある。
大原の紫蘇と言えば伝わるだろうか。時は平安時代末期、源平合戦が終わり、都へと戻った人々が、ある貴人が、地元の農民の献上物であったこの紫蘇と野菜を漬けた漬物を食べて感動したという。これが、京漬物『しば漬け』の始まりとされており、大原はまさにこれの発祥の地である。
この大原では未だに原種に近い紫蘇の葉を育てており、交雑を避けるために、外部の紫蘇を持ち込むことは固く禁じられている。当時に近い原料を使って、歴史的な味を今に伝えることは困難を極めるだけあって、こうした厳格な管理はどれほどしても足りないほど難しい。それだけに、観光地として開かれた場所で、心無い人を見ると、とても深い悲しみを感じずにはいられないのである。
険しい傾斜の中にある参道には、漬物や土産物の店舗が並んでいる。脇には河川が流れ、木々が生い茂っている。若い緑色の葉脈から枝や幹を辿っていけば、深緑の苔が生した岩々が連なり、その隙間を縫うように川が流れ落ちていく。清水と言うにはわずかに土色に濁っており、山道特有の強い風が葉擦れの音を運ぶ。外国人や老人を中心にした観光客や、ぽつぽつとカップルや親子連れとすれ違いながら道を登っていくと、土色をした細い十字路が現れる。一等開けた場所へ向かって曲がると、右手には苔生した石垣が、左手には木造の大きな土産物屋と飲食店が現れる。石垣の手前には、『歴史的風土特別保存地区』という看板が建てられている。
京都府左京区大原地区というのは、天台宗の寺院が集まる歴史的に重要な地区であり、その歴史も非常に古く、1200年という長い歴史を持つ。我々が視覚的に歴史を感じる時には、やはり苔むした巌というものは非常に効果的な景観であるが、この参道を含め、この大原という地は、道を歩くだけでもその深い歴史を思い出す。
さて、石垣を伝って進んでいくと、石垣が開かれて長い階段が口を開く。その先には巨大な門と、一際大きな寺院が開かれていた。
大原三千院。延暦の時代、8世紀末期ごろに日本天台宗の開祖最澄によって建てられた歴史ある寺院である。かつては比叡山に設けられた『梶井宮』と呼ばれたものが、火災や応仁の乱によってその居所を転々とした。平安時代には皇室や貴族の支援によって発展し、皇室ゆかりの門跡寺院となり、天台宗の主要な寺院として発展していく。そして、明治時代にこの大原の地へと移設され、現在の三千院へと至っている。この高い石垣と立派な門構えと言うどことなく城跡めいた佇まいは、こうした歴史的な背景があったためである。
さて、階段を昇り、受付で拝観料を支払うと、先ずは大きな建造物の中へと入る。筆跡も見事な書や水墨画、仏教らしい堅実なポスターなどが貼りだされた玄関口を進む。すると開けた部屋へと至り、角大師を祀る小さな拝所を脇に設けられた、見事な日本庭園が目の前に広がる。角大師とは、第十八代天台座主(天台宗最高位の僧侶)良源のことであり、御神籤の祖としても知られる。何故角大師と言う変わった姿が伝わっているのかと言えば、彼がこの角をはやした夜叉姿で疫病神を退けたという伝説があるためだ。天台宗中興の祖だけあって、多くの天台宗の寺院で護符が販売されている。見事な日本庭園を望むように、壁面に飾られたのは、中国天台宗の祖智顗の御姿。慈悲深く微笑み、静かに禅を組む穏やかな姿は、その中に深い知恵を感じさせる。
そして、日本庭園の前に敷物を敷いた空間を見守るように、壁面に描かれたのが日本天台宗の開祖最澄の姿。こちらは教科書でも見慣れた姿である。
この見事な客殿を抜けると、宸殿へと至る。その歴史は古く、平安時代・後白河上皇がこの地で御懺法講を執り行うことを定め、そのために設けられた。大原は僧侶による声明の主要な発展地となっていくこともあり、こうした宮中行事としての儀式、雅楽と宗教音楽とが融合した行事が行われたことは、その一助となったのだろう。
宸殿を出ると、杉や檜の林立する中に広大な苔の庭園が広がる。季節が来れば花々や紅葉を楽しむことができる景勝地であるのだが、今は静けさに満ちている。池のほとりにはわらべ地蔵がひっそりと、寛いだ様子で訪問者を出迎えてくれる。
池を大回りしながら庭園を楽しみ、宸殿の向かいにある建物へと至る。
往生極楽院。舟形の独特な天井に、墨色に煤のついた天井画の描かれた、独特の拝殿である。中央に座するのは建物をこの形状たらしめる大きな阿弥陀三尊像である。天井の煤も、長い歴史の中で台密教とも呼ばれる天台宗の儀式を重ねて行ってきたためであり、その長い歴史を思わせる趣深さがある。
弁財天のおられる階段を昇り、金色不動堂がある。三千院の秘仏・金色不動明王を本尊とする御祈願の根本道場である。さらに階段を上れば観音堂があり、その脇に小観音像がある。この小観音像が壮観であり、多くの小観音が、人々の願いを添えて縦横に居並び、この寺院が現代まで篤い信仰を集めていることを教えてくれる。観音堂には観音菩薩立像が祀られ、その両翼には小さな観音像が並んでいる。赤と白の壮麗な佇まいが美しい。
観音堂から川を渡った先には鎌倉時代の建立とされる阿弥陀仏が安置されており、当時の浄土信仰を現代に伝えてくれる。また、この場所は、売炭翁が済んだ場所とされるため、売炭翁石仏とも呼ばれているらしい。
炭売りと言えば、ここは大原である。大原から京の都へ降り、炭や薪を売る大原女は、現在ではこの地のシンボルとなっている。そう言えば、ここに至るまでに、道々に大原女の小さな像がある。こんなところにも、土地が持つ深い歴史を感じ取ることになるとは、旅とは面白いものである。
さて、参拝順路に従って、階段を降っていくと、土産物屋が設けられた円融蔵が現れる。建物の中には重要文化財を納めた展示室となっている。仏像はもちろんだが、それ以外にも歴史的に重要な宝物が展示されている。特に、往生極楽院の天井画、その復元図が設けられており、建立当時の絢爛で開放的な青の天上世界を眺めることができる。
三千院の出口へ至る時、ちょうど向かい側に参拝受付があるのが見える。城跡然とした立派な門をくぐり、参道を奥へと進む。
その道の脇に、石碑が建てられている。それは、『熊谷直実鉈投の地』と記された石碑である。平家物語にある、あの、平敦盛を討ち、出家した熊谷直実である。法然上人に師事することとなった直実が、法然が論争に敗れたら鉈で敵を討ち取ろうと袖に隠していたという。これを諫めた法然に従って、直実は鉈をこの地から投擲して捨てたというのである。確かに、深く傾斜の厳しいこの山から投げれば、鉈を見つけることは困難だろう。
さて、そんな法然上人が僧侶たちと問答をし、その正しさを示したという聖地が、ちょうど道の突き当りにある。 大原寺勝林院。先述のいわゆる『大原問答』の舞台である、巨大な寺院である。三千院と比べて静かで荘厳な佇まいのこの寺院は、今は檀家を持たない寺院である。
建物は経年劣化こそあれど、巨大で荘厳。本尊である『証拠の阿弥陀』如来坐像は、仄暗い寺内で一際美しい金色の阿弥陀堂である。法然上人の大原問答の折、その正しさを示すように本尊が光り輝いたという逸話が残っている。また、本尊の脇には白いボタンがあり、誘惑に釣られて押せば、声明、つまり仏教典を楽曲のように抑揚をつけて唱える宗教音楽が流れ始める。この勝林寺は声明の研究が盛んに行われた聖地となっている。今は静かな建物であるが、その歴史は非常に深いものである。
勝林院を参拝した後、そのまま細い道を降っていくと、ちょうど勝林院に隣接した位置に、静けさの中に佇む建物がある。
宝泉院と呼ばれるこの建造物は、江戸中期に建立された、いくつかの美しい日本庭園を擁する。参拝料の中に抹茶と茶菓子を提供する券が含まれ、落ち着いた雰囲気の中、ゆっくりと流れる時間を楽しみながら、庭園を眺めることができる。
大きく枝を広げた五葉の松を擁する日本庭園は、周囲の山林の景色との馴染んで心を和ませてくれる。この五葉の松を中心として、池と鹿威しを配置した庭園には、風の音、竹林の葉擦れする音、流れる水音の中で、鹿威しの音が響く。静謐でありながら幾つもの音に溢れ、翼を広げるように佇む五葉の松から、苔生した岩に至るまで、心が澄み渡るような美しさがある。
建物内には石盤と言われる仏事に関わる石の楽器があり、声を掛ければ鳴らさせてもらえるそう。独特の音の響きで、僧侶が念仏の音律を整えるのに使ったという。
静かに流れる時間の中で、本当に忙しない今の暮らしを思うと、それがどれほど金銭で恵まれていようとも、「満たされない」という感覚を覚えざるを得ない。この、流れる時間に任せて物思いに耽る静かな時間、または自然に鳴り響く音を心と五感で感じ取る『だけ』の時間、その美しさは無駄であり、尊ぶべき芸術のように思える。
さて、静謐の中で心を洗われた後、心清らかになる緑の参道を降り、バス停へと戻っていく。五感が心地よく自然を受け入れ、忙しない現実からはるかに距離を置いた美しい静謐の中を離れ、忙しなくも楽しい現実の世界へ戻って行こう。
・・・さて、大原からバスへと降り立った時まで、時間を少し遡ろう。私がこの地にやって来たのは、何も心を浄化する為ではない。どうしても行きたかった物語の舞台というものが、この大原にはあるのだ。
バス停から三千院参道の向かい側にある細い橋の上を渡ると。開けた道が現れる。開けたと言っても決して広い道とは言い難く、片側を山、片側を川に囲まれた静かな道である。
そこからは、十余分ほど、この山道を登っていく。小さな集落などがある道を登っていく。家々の脇には白菜をはじめとした畑がある。道の脇には大原女の小さな像が、その場所へ誘うようにひっそりと佇んでいる。道を進むににつれて、道は傾斜を激しくし、細くなっていく。徐々に木々が生い茂る深い山道へと周囲が変容していき、最後の広い駐車場の向かいに、規模の大きな民宿がある。
道行くにつれ深まっていく深緑の道々の末に、急傾斜の階段が長く山門へ向けて伸びる。受付が階段の前にあり、疎らに観光客がある。山道を少し奥へ進めば、ひっそりと佇む誰かの墓がある。
参拝料を支払い、長い階段を上って山門をくぐると、長い山道よりもはるかに深い緑の苔が一面に広がる、静かな寺院が現れる。
大原寂光院。聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うために建立し、『平家物語』最後の舞台となった、1400年の歴史を持つ祈りの地である。
境内には深緑の苔と、桜や小松を擁する汀の池があり、正面にある本堂は決して広くはない。ただ、その静かな佇まいはどこか深い風情があり、色彩の豊かな本尊の様子を窺い見ることができる。
静けさの中、汀の池を回遊するようにしながら、生い茂る木々の生命力の深さを視覚で感じ取る。耳を澄ませば木々の葉擦れの音が、さわさわと全角度から響いてくる。光を受けるように全身で音を受け止めれば、鳥の囀る音、そして匂いのない『匂い』の中、本堂から僅かに焼香の香りが漂ってくる。
現代的に言えばほとんど何もないと言っていい景観の中にあるものを感じながら、背の低い柵に囲まれた一角の前に立ち止まる。その柵の中には一つの石碑が佇む。
『建礼門院 御庵室遺跡』
そう書かれたその場所には、ただ草花が生い茂るだけで、何もなかった。脇には小石で囲まれた小さな掘り井戸があり、そこに生活の跡が残っているだけである。
『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり』※1
壇ノ浦で滅亡した伊勢平氏の生き残り、安徳天皇の母、建礼門院徳子は、都を離れたこの大原寂光院を最期の地と選んだ。
徳子は平清盛と平時子(二位尼)の子で、後白河上皇の子高倉天皇に嫁いだ。彼女が安徳天皇を生むと、父清盛はその権力を欲しいままに用いて若き夫高倉天皇をご退位させ、我が子を最年少の天皇とした。以仁王を擁して起こった争乱を端緒として、やがて後白河上皇と源氏による平家排斥の大争乱が起こる。世に言う平治・治承の乱である。当初は優勢と目されていた平氏は、清盛の孫たちが既に貴族化していたこともあり、徐々に劣勢に転じ、西方へと追い詰められていく。
海の上を追われ、流れ流れて屋島を失い、最後には壇ノ浦まで至る。その時徳子は、兄の平知盛が母・二位の尼に向けて、『じきに東男をご覧になれます』との言葉を聞く。
それは、源氏に勝つことは最早敵わぬということを暗に示す言葉であった。二位の尼は三種の神器を見に集め、草薙剣を佩き、数え年8歳の安徳天皇と共に、冷たい壇ノ浦の海に身を投げた。その後を追うように、徳子は我が子の後を追う。
『悲しきかな無常の春の風、たちまちに花の御姿を散らし、なさけなきかな分段の荒き波、玉体を沈め奉る』※2
ところが、徳子は我が子を海の底に見ながら、源氏のつわものに助けられてしまう。都に戻った彼女が出家をし、今となっては煩わしい思い出の深い都を離れて、寂光院へと入ったのである。
静けさの中で念仏三昧に耽る日々。我が子のことを思い、いなくなった兄弟、家族、一門のことを思いながら、御仏に極楽浄土を願う。どれほど深い孤独と悲しみの中にあっただろう。風の前の塵に同じく跡形もない庵の跡に向けて、胸を締め付けられる思いで手を合わせて祈りを捧げる。木漏れ日が静かに庵の跡に降り注ぎ、青い空の色と苔むした地上の緑がさざ波のように流れていく。形を変え、静かに流れていく雲の形が、さながら移ろいゆく時代のようでもある。
手を合わせ、閉ざされた収蔵庫の前を横切り、本堂の前へと戻る。本堂の中へと案内され、五色の糸を触って、ご本尊の六万体地蔵尊へと参拝する。寂光院の説明を聞きながら、ご本尊を仰ぎ見れば、その色は鮮やかで、溌溂とした若々しさがある。
かつて、鎌倉時代に造立されたご本尊は、平成12年5月の放火事件で、炭化してしまった。今は激しい損耗のご本尊を保存処理をして収蔵庫に収め、新たに造立した地蔵尊を本堂に収めている。
貴重な文化財がこうして損なわれ、悲しい形で保存されている中で、今そこにある立像は、多くの人々の祈りが形を成して造立された祈りの形そのものである。復元されたご本尊の若々しさは、確かに歴史の浅い作りものであるかもしれないが、この場所にこうして納められる佇まいは、確かに私達の強い祈りそのものであるらしい。
建礼門院が念仏三昧に耽る中で、この大原に仇敵であった後白河上皇が御幸に訪れる。はじめは会うのを拒んだ建礼門院だったが、上皇を前にして自分の人生を回顧する。
まるで六道であったと。
今の侘しい暮らしを思えば、誰もがその有様を涙したが、それでも、建礼門院の祈りは、現代にいたるまでこうして連綿と語り継がれている。『平家物語』は、寂光院の在り様にも似た、祈りの物語なのだろう。
そして、平成12年の火災の時、鎌倉時代からの長い歴史を持つ六万体地蔵尊は、炭化して損なわれてしまった。そんな悲しみの中、地蔵尊の中にある小さな地蔵菩薩が、綺麗なお姿を残していた。それは、ご本尊が、さながら我が子を庇うように見えただろう。この小さな像は、現在も宝物殿に展示されている。少し経年劣化でくすんで見えるが、その色彩はそのまま残されて、穏やかな佇まいで手を合わせている。この話を聞くにつれ、私は建礼門院、物語の中にある平徳子のことを思わずにはいられない。
私はよく、文化財を残すこと、その難しさに思い悩むことがある。しかし、それが損なわれてしまった時、私達が本当に向き合うべきなのは、実はこうした人々の思いの強さなのかもしれない。それは、800年の時を超えた祈りの物語が、琵琶法師によって語り継がれて、現在まで伝わっているように、強い思いが、人々に思いを伝えて残すこともあるのかもしれない。
形なき、祈り。それこそが形を成すこともあるのかもしれない。
いまだ夕日が傾く前の青空の下、出町柳へと向かう満員のバスに揺られながら、深い緑の地を降っていく。やがて歴史の町が見えてくると、バスの乗降と共に、人々の営みの音が彼方此方から聞こえてくる。
この日常の喧騒を、不思議と愛おしく思えたのは、きっと、祈りの先の物語をその目で見ることができたからだろう。
※1『平家物語』 祇園精舎
※2『平家物語』 先帝入水




