百六十四話 本の友とはじめての会話
夕陽の光を浴びながら書庫へ入ると、まずはと好ましい紙の本の香りを楽しむ。
落ち着く香りで胸を満たし、本棚を見回してみるものの、残念ながら見慣れない背表紙はない。
ならばと、精霊さん関連の本を選び取り、椅子に腰かけて机の上に広げる。
『ぼくたちのほん~~!!!!』
「ふふっ! えぇ、みなさんの本、ですね」
とたんに開いた本の近くへと移動してきた精霊のみなさんに、思わず笑みがあふれた。
くるくると嬉しげに本のそばで舞う四色の輝きと共に、スキル《瞬間記憶》によりすでに頭の中にある文字列を、指先と視線でなぞる。
そうして、しばし紙の本での純粋な読書を楽しんでいると、ふいに靴音が鳴った。
反射的にぱっと顔を上げると、書庫の入り口には今の私と同じように、驚いた表情で水色の瞳を見開くシードリアの少女が一人。
その肩口でゆれる金髪を見て、閃きが降る。
服装は初期装備ではない上に、珍しい小さな緑の精霊さんが右肩に乗っているという、はじめて目撃する状態ではあるが。
――彼女はたしか、【シードリアテイル】のサービス開始初日に、この書庫の前にある土道で軽くあいさつを交わした、あの少女だ!
認識した瞬間に、自然と身体が動いた。
慣れ親しんだ上品な仕草で立ち上がり、穏やかに微笑みながらエルフ式の一礼をおこなう。
上げた視線の先で、彼女はあの日と同じように、慌てた様子でぺこりとお辞儀を返してくれた。
書庫の中に入ってきたということは、おそらくは彼女も本を読みに来たのだろう。
今回は、一礼だけではなく言葉でもあいさつをしておこうか。
ふわりと微笑みを重ね、口を開く。
「こんにちは。読書にいらしたのですか?」
「あっ! はい! えっと、新しい本があれば、読んでみたいなと思って!」
「そうでしたか。……あぁ、私が今机に広げているもので、あなたが読んでいない本がありましたら、遠慮なくおっしゃってください。私はすでに読んでいますので」
「わぁ……! ありがとうございます!!」
「いえいえ」
驚きと戸惑いが表れていた彼女の表情が、とたんに満面の笑みに変わる。
少し遠慮がちに、けれどいそいそと机に近づいてきた彼女は、私が右隣に置いていた本を視線で示した。
「えっと、そちらの……[精霊言語解説録]を、まだ読んだことがないみたいで……」
「おや、ではぜひ、楽しんでください」
「はい……!」
緊張が宿った声かけに、つとめて穏やかな表情で朗らかに紡ぎ、丁寧に本を手渡す。
とたんに咲いた控えめな笑顔と感謝の言葉に、こちらもにこりと笑顔を返した。
さっそくと眼前の椅子に腰かけて読書をはじめた少女に、こちらも再度椅子に腰を下ろし視線を本へと落としながら、ふと気づく。
もしかすると、彼女も読書が好きなかただったりするのでは……?
刹那、衝撃が奔った――ように感じた。
そうだ、よく考えてみると、私はまだこの大地でクインさん以外には、読書が好きなかたに巡り逢えていなかったのだ!
ちらりと、一瞬だけ視線を眼前で静かに本のページをめくる少女へと向ける。
彼女の様子を見る限り、ただの情報収集ではなく、その水色の瞳が宿しているように見える煌きや好奇心の通り、やはり純粋に読書をすることが好きなのではないだろうか?
仮にそうだとすると、私はようやく、ご同輩の本の友を見つけたことになる!
瞬間、湧いた嬉しさに微笑みが深まった。
とたんに不思議と、共に座して読書を楽しむ今この時が、とても貴重なもののように感じてくる。
……とは言え、読書を楽しむお時間を、私の個人的な嬉しさと好奇心で邪魔するわけにはいかない。
今はまだ、私もこの穏やかにページをめくる時間を、堪能することにしよう。
つらつらと考えを整理したのちは、眼前の少女と同じく読書に没頭する。
ゆったりと傾いていく夕陽の移ろいを感じながら、しばしどこか神聖ささえ宿す沈黙が書庫に満ちた。
響く音は、めくられるページが奏でるかすかな音だけ。
やがてその音が、どちらからともなく途絶え、思わず上げた視線が互いを映した。
「あっ、あの!」
「はい、どうかしましたか?」
なにやらとても真剣な表情での声かけに、反射的に穏やかに問いを返し、小首をかしげる。
それに、なぜか勇気を振り絞るように、少女が言葉をつづけた。
「……おすすめの本は、ありますか?」
思わず、ぱちりと緑の瞳をまたたく。
おすすめの、本。それを、問われた。
つまるところ、私がおすすめだと思う本はあるかとたずねられている……という認識で、間違いはなさそうだ。
ざっと本のタイトルを頭にうかべながら、一つ彼女にうなずきを返す。
「そうですね。いくつか思いうかびますが……先に、あなたのお好みを教えていただけますか?」
「あ! えっと……魔法とか、精霊さんたちについて書かれた本が、好きです!」
「なるほど」
せっかくおすすめをお伝えするのであれば、彼女の好む種類のものが良いだろう、と思っての問いかけへの答えに、うっかり満面の笑みをうかべるところだった。
かろうじて上品な微笑みに整え、どうやら好む趣味が合うらしい彼女におすすめできるタイトルをいくつかお伝えする。
とたんに、水色の瞳がキラキラと煌くように見えたのは、おそらく気のせいではないだろう。
そう言えば……この【シードリアテイル】を遊びはじめて以降、これが他のプレイヤーのかたとしっかりとおこなえた、初の会話だ。
いや、あいさつや少しお助けした際の声かけくらいならば、他にもおこなったことはあったのだけれども。
これほどまでに会話らしき会話をしたのは、はじめてなのではないだろうか。
――案外、これは貴重な時間というだけではなく、貴重な機会でもあるのかもしれない。
そう思った気持ちが伝わったわけではないと思うのだが、おすすめだと手渡した本を間にはさみ、自然と本の概要語りや彼女が読んで興味深いと感じた本の話題に、短くも花が咲く。
残念ながら、すぐに宵の口へと時間が移り変わり、それを合図に互いにそっと口を閉じる。
煌めく水色の瞳が再びこちらに注がれ、控えめな笑顔がうかんだ。
「あの、いろいろと教えてくださって、ありがとうございました」
「いえ。こちらこそ、とても楽しい時間になりました。ありがとうございます」
「いえいえっ、そんな!」
「ふふっ。読書、引きつづき楽しんでくださいね」
「――はい!」
感謝の言葉に、同じく感謝を返し、慌てたような返答につい笑みを零しながら、もう少し読書を楽しむ雰囲気を残した彼女にそう伝えると、一拍の間ののち嬉しげな笑顔でうなずいてくれた。
それに穏やかにうなずきを返しながら、本を棚へと戻して軽い一礼でもって書庫を出る。
交わした言葉の数は、そう多いものではなかったが、読書好きな本の友と呼べるかたとの会話は、とても楽しいものだった。
口元にうかべた微笑みを深めたまま、クインさんにもあいさつをしたのち、ちょうどまた空に帰る時間になったため、神殿の宿部屋へと戻る。
小さな三色の精霊さんたちと、光の精霊さんから場所を交代したばかりの闇の精霊さんとまたねを約束し、夜の食事のためにとログアウトを紡いだ。
――予想外だったことは、戻ってきた現実世界で、食事をしながら思わず空中展開した本を読みはじめるくらいには、読書仲間は偉大な存在だと痛感したこと。
フレンド登録……いわゆる、友人として文字や音声通信などの連絡を可能とする登録をするほどではなくとも、せめてあの少女の名前くらいは、たずねたほうが良かったかもしれない。
もし、またお会いする機会があれば……その時には、忘れずにたずねてみよう。
※明日は、主人公とは別のプレイヤー視点の、
・幕間のお話
を投稿します。