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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

彼の黒髪

作者: サブロー

 私がまだ若かったころの話です。

 お隣のヤルギスがアーチェを併合したのが……ああ、七年前ですか。それであれば、今から四十年ほど前になります。

 いやですね、年を取ると時間の感覚がすっかり鈍ってしまって。近ごろは自分の年を聞かれても、すぐには答えられないくらいなのですよ。

 あのころ、私はひとりで旅をするのが好きでした。とりわけ、誰も行かないような辺鄙なところへ好んで行きましたね。

 若者にはよくあることですが、知らない土地へ足を運び知らない物に触れると、途端に自分が大きくなったような錯覚に陥るものです。私はそんな錯覚に酔っていました。どこへ行こうと、自分の器は変わらないのにね。若さは良いものですが、無謀で恥ずかしいものでもあります。

 当時、アーチェ内部は荒れていました。元々は数多の少数部族が集まってできた国です。互いに干渉せずにうまくいっていたところを、いくつかの戦闘部族が力をつけて争い始めた。

 私は無謀な若者だったので「世界の現実を見に行く」などと殊勝なことを口にして、アーチェに足を踏み入れました。

 アーチェの国の中に入ってしまえば、争いは存外遠いところにありました。私は商売を生業とする部族が構えた街を三つ回ったあと、偶然街に立ち寄っていたミヌ族に出会いました。

 ミヌ族、なんて初めて聞いた? 

そうですか、そうでしょうね。彼らは遊牧の民です。時折商業の盛んな部族の元へ来て、必要なものを物々交換していました。何ものにも縛られない、真の自由を知る人たちです。

 話を戻しましょう。出会った、なんてもっともらしいことを言いましたが、本当は私が、ひとりのミヌ族の青年に目を奪われただけなのです。あのときのことは、よく覚えています。

 当時の私は、思いのほか平和なアーチェの旅に飽き始め、さて次はどこへ行こうかと街角に立って思案していました。そしてふと視線を上げたその先で、黒髪を腰まで流した後ろ姿を見つけたのです。目の覚めるような美しい髪でした。一本一本がきらめいて、歩くたびになめらかに揺れていました。

 私は急いでその背中を追い、声を掛けました。正直なところ女性かと思ったのです。ええ、お恥ずかしい話です。今はこんなですけどね、あのころの私は衝動だけで生きていた。

 黒髪の持ち主が振り返って初めて、私は彼が男だと知りました。けれどかまわず「君の髪が美しくて声を掛けた」と続けると、彼は警戒心を露わにしました。心の底からいやだ、と言わんばかりの顔をしていてね。懐かしいです、とても。

 ミヌ族に付いていきたいと言うと、ミヌの民は快く受け入れてくれました。黒髪の彼は面白くなさそうな顔をしていましたが、とにかく私は彼らの遊牧にしばし同行することになりました。

 あの日々を、なんと説明したらいいのか分かりません。慣れないことばかりで苦労もしましたけれど、地平線からのぼる朝日の神々しさも、草花の産毛がまとった露の冷たさも、月が隠れて音が消えた夜のおそろしさも、すべて脳裏に焼きついています。ミヌ族は大地とともにありました。

 彼らは老若男女問わず、髪を長く伸ばしていました。髪には地の神の加護が宿るというのです。長い髪は、彼らの誇りでした。

 あとから知ったのですが、ミヌ族のなかで髪を褒めることは求愛行為にあたるそうです。私はそんなことはつゆ知らず、黒髪の彼と顔を合わせるたびに「君の髪はいつ見ても世の中で一番美しい」と褒め称えました。今思えば、みんな笑いを噛み殺していましたね。でもお世辞なんかではなく、本当に美しかったんです。彼からしてみれば、私はとんだ軟派男だったでしょう。

 けれど私は、髪を褒める意味を知ってからも同じことをくり返しました。彼は心まで美しかった。瞳も仕草も、声だって。美しかった。私は彼以上に美しい人間を知りません。

 季節が三度巡り、私は一旦故郷へ帰ることにしました。ミヌ族の暮らしがいやになったわけではありません。むしろ故郷の家族たちに別れを告げ、正式にミヌ族の一員になるつもりでした。そのために、私はミヌ族を一度離れたのです。

 別れの日、黒髪の彼は顔をしかめて、私だけに聞こえるようにささやきました。お前が愛したこの髪を、大切に手入れして待っていると。

 聞き間違いでも妄想でもありません。たしかに彼は、そう言ってくれたのです。とても嬉しかった。それまでの人生で一番嬉しかったことです。

 しかしミヌ族から離れ帰路に着いた途中、私は他の部族間の争いに巻き込まれました。

 運良く一命は取り留め、国に戻ることもできましたが、そのときからこのように足が不自由になったのです。

 こんな身体になったせいで、私は彼に会いに行けなくなりました。ミヌ族は文字を持たない遊牧の民です。手紙という手段は使えませんでした。会いたい気持ちはあるのに、それすらも伝えられない。もどかしくて悔しくてたまりませんでした。

 あの美しい黒髪を何度も夢に見ました。何度もです。今でも、夢に見ます。

 そうこうしているうちに、アーチェ内部の混乱はますますひどくなり、他国の者は立ち入ることすら許されなくなりました。あなたもご存知ですか。そうです、アーチェで最も有力だったロサエ族が、他の部族を征服し始めたころです。

 野蛮な部族だったようですね。こんな言い方は意地が悪いのでしょうが、ヤルギスが彼らを討ち、アーチェの混乱を治めてくれたことで、私はほんの少し救われた気持ちです。長い戦いでしたから。

 ロサエ族は他部族の文化を受け入れません。従う者だけを生かし、逆らえば手に掛ける。戦闘部族であるロサエの民たちは、ミヌ族の男たちの長髪を認めなかったといいます。男らしくない、戦闘には不要だと。髪を短く刈り、ロサエにひれ伏せと。

 愚かしいことです。この上なく愚かです。異なる文化を持つことの、一体何がいけないというのですか。

 ミヌ族は争いを好みません。大らかで優しく、美しい人たちでした。そして部族の誇りをなによりも大切にしていました。そう、なによりも。 


 髪を切ることを拒んだミヌ族の男は、ロサエ族の手によって、ひとり残らず処刑されたと聞いています。

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小学校の国語の教科書の読後感を思い出しました 思いがけないラスト
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