第37話 とぼけた時間
亜美子は玄関で靴を履こうとしていた。泣きすぎた目は真っ赤に腫れ、全身が気怠く、左手は痺れている。だが、そんな事に構っている時間はない。
早く夢奈ちゃんに知らせなきゃ!
すぐに携帯電話を開き、着信履歴を押す。
「……え?」
亜美子は夢奈とかなりの頻度で電話をしていた。必ず、履歴が残っているはずだ。
だが着信履歴を全て見ても、和泉夢奈の名前がないのだ。発信履歴も確認したが、結果は同じだった。
亜美子は電話帳を確認する。あ行からわ行まで、隅々まで確認する。
「ない……夢奈ちゃんの名前がない……どうして?」
もう時間がないので、亜美子は携帯電話が壊れたと結論づけた。携帯電話をカバンにしまう。その時、さらにおかしいことに気がついた。
あれ? 誕生日プレゼントは?
亜美子はカバンをひっくり返して、焦りながら探す。だが、いくら探しても見つからなかった。
部屋に忘れた……? もう探しにいく時間がない。
カバンの中身を戻して、傘も持たずに学校へと急ぐ。
学校には前回よりも早く着いた。雨も降ったが、そんな事を気にしている余裕はない。亜美子は急足で階段を登り、教室のドアの前に着くと、無言で開ける。
朝の2年2組はガヤガヤとうるさい。生徒達は、各々が話したい友達とお喋りを楽しんでいる。そう、一見いつもと変わらない教室に一安心する。
「おはよう亜美子!」
「加藤! おはよう!」
「お! 今日は早いな!」
だが、その安心は束の間だった。教室に夢奈がいない。席さえないのだ。
ど、どういうこと?
亜美子は何が起きているのか全く理解できず、ただ困惑することしかできなかった。挨拶を全て無視して、本当は口も聞きたくなかったが、麗美に訪ねる。
「ねぇ。夢奈ちゃんの席、なんでないの?」
麗美は怪訝な顔で答える。
「夢奈って誰? そんな子、もともとこのクラスにいないけど?」
その言葉を聞き、亜美子の頭に一気に血が上る。
「酷いよ、麗美ちゃん! そんなわけないでしょ! 私のことからかわないでよ!」
麗美はビクっとなる。だが、何か亜美子がふざけているのではと思い、他の生徒達が口を出してくる。
「夢奈って誰だ?」
「そんな奴、うちの学校にいたか?」
「加藤、もしかして大麻でも吸ったんじゃないの?」
「いやいや、大麻じゃそんなやばい幻覚見えないでしょ」
「亜美子、大丈夫? 変な夢でも見た?」
……こいつら、なんでよってたかって夢奈ちゃんを…?
亜美子は下を向いてゆっくりと歩く。ただならぬ気配に、教室が一瞬で鎮まりかえる。そして、誰も座っていない椅子を見つけると、その脚を持ち窓ガラスに方に向く。
亜美子の視界に入ることが怖くなり、窓ガラスの方にいた生徒達はすぐに退く。
亜美子はカバンを床に起き、椅子を引きずりながら、窓ガラスに向かって歩く。
教室に椅子を引きずる異様な音が響く。そして、窓ガラスまで1メートルほどのところに来た時だ。
バリィィィィン。
亜美子は椅子を窓ガラスにぶつけたのだ。粉々の破片が教室に散らばる。
ドォォォォン。
鈍い音を立てて、椅子が地面に落下した。雨が壊れた椅子に容赦なく降り注ぐ。
「……私、具合悪いから帰るね」
クラスメイトは身動き一つ取れずにいる。亜美子はカバンを拾い、教室を後にした。
廊下には、先ほどの音を聞いた他のクラスの生徒がたくさんいた。だが、みんな亜美子を見るとそっと避けて道を譲っていく。
そんな中、たった一人だけ亜美子に近づく生徒がいた。
「おい。さっきの音、なんだよ? おまえ大丈夫かよ?」
亜美子はその生徒にだけ、心の底からの笑顔を見せる。
「京介、ありがとうね」
この言葉を最後に、亜美子は校舎を後にする。
亜美子は傘立てから盗んだビニール傘で帰宅した。玄関を開けると、そこには鬼の形相のお母さんが待っていた。亜美子は目を合わせられず俯く。
「さっき学校から連絡あったよ。あんた何したの?」
「別に……」
亜美子は暗く小さな声で答える。お母さんの語尾が強くなる。
「何なのその態度!? あんた反省しているの!?」
亜美子はゆっくり顔を上げてお母さんを見る。お母さんは目を逸らした。その顔から、今まで見た事がないような怒りが滲み出ていたからだ。それでいて、かなり体調が悪そうだ。
「……私、寝るね」
お母さんは何も言えずに、自室へ行く亜美子を見送った。
亜美子は夢を見た。記憶の中の出来事をもう一度体験したかのような、リアルで奇妙な感覚の夢だ。自由に動くことはできないが、夢の中で夢だという自覚もある。
夢の中の亜美子はスーパーのトイレのような場所にいた。そこの洗面台の鏡に自分の姿が写っている。4歳くらいの姿で、夢奈と似たような髪型をしているが、もっと子供らしいおかっぱだ。
周りには母親もいないが、何故か全く不安そうにしていない。むしろ、楽しそうだ。
ここ、どこだろう。私、この髪型したことないし。……まぁ夢だから良いか。
亜美子は深く考えないことにした。4歳くらいの亜美子はそのまま小走りでトイレから出る。
どうやら、ここはスーパーのようだ。そのまま、トコトコ走ると入り口に着いた。
外は、大雨だ。灰色の空から降る雨は、まるで世界の終わりを彷彿とさせる。
そこまで言ってしまうと、ちょっと言い過ぎな気もするが、今日降っている雨よりもさらに激しい雨だ。
季節はいつぐらいかわからないが、周りの服装から考えるとおそらく6月頃だろう。それでも、この雨のせいで風はかなり冷たい。
その雨を、4歳くらいの亜美子と同じ歳くらいの女の子が眺めている。その後ろ姿は、14歳の亜美子の髪型によく似ていて、4歳の亜美子よりも小柄だ。
誰だろう。この子。
亜美子はとても気になったが、運のいいことに4歳くらいの亜美子も気になったようだ。
「こんにちは」
その女の子が振り向く。その女の子は、前髪も14歳の亜美子にそっくりだ。不安そうな顔で、4歳くらいの亜美子を見つめている。そして、その顔は14歳の亜美子が知っている人物によく似ていた。
「私、まいご! あなたは?」
その女の子は、雨音に掻き消さらそうなほど小さな声で、14歳の亜美子が何よりも聞きたい名前を言った。
「……夢奈」
やっぱり。やっぱり、夢奈ちゃんだ。小さい頃の夢奈ちゃんだ。夢だけど、すごく嬉しい。
14歳の亜美子は嬉しさのあまり泣き出しそうになる。だが、4歳くらいの亜美子の耳に、その名前は入っていないようだ。お構いなしに喋りだす。
「元気出る言葉、教えてあげるね!」
元気の出る言葉? 何それ? 私も知りたいよ。
辛い出来事が起きた亜美子にとって、それは興味深く魅力的な話だ。だが、4歳くらいの亜美子から発せられた言葉は、意外なものだった。
「キュルラン・キュルラン!」
え……変身の……呪文?
亜美子は目を覚ます。制服のまま、ベッドで眠っていたのだ。ゆっくりと上半身を起こす。そして、ボソリと言う。
「キュルラン……キュルラン……」
寝たおかげで左手の痺れと怠さはなくなった。だが、全く元気が出ない。
やっぱり、夢は夢か……
亜美子は深いため息をつく。だが、あることを思い出していた。
……私、あの夢、何度か見たことある。確か、最初に見たのは初めて変身して倒れた時だ。あの時、夢奈ちゃん、学校休んでお見舞いに来てくれたよね。学校終わってからは、麗美ちゃんが来てくれたよね。
麗美に言われた言葉が頭に蘇る。
夢奈って誰? そんな子、もともとこのクラスにいないけど?
亜美子は首を横に振る。麗美の言葉を振るい落とすように。
そんなことない。夢奈ちゃんはうちのクラスにいるよ。今、どこに隠れているの? 会いたいよ。
亜美子はベッドから起き上がり部屋を出て、玄関に一直線に向かう。そして、先程盗んできたビニール傘を手に取り、扉を開ける。
もうすっかり暗くなっているが、雨は止んでいない。亜美子は外へと飛び出した。
CLOSEDの札がかかった雑貨屋Dream House。隆は、カウンターにぼーっと立っていた。最近の隆は明るい顔をしていたが、元の暗い目に戻っている。
チリンチリーン。楽器のようなドアベルの音が激しく店内に響く。その音色はなんだか悲しく叫んでいるようだ。
「隆くん! 夢奈ちゃんがどこにもいないの!」
入ってくるなり、亜美子は鬼気迫る顔で言う。隆は圧倒されてしまったためか、今までにないくらい驚いた様子だ。
「ゆ、夢奈!? 夢奈だと!? どういうことだ!?」
「夢奈ちゃんがいないんだよ! 学校にもいないし、私の携帯にも連絡先がないの!」
え……? 学校……? 亜美子ちゃん……何を…………まさかッ!
隆は全てを察した。驚きの顔から、どんどん血の気が引き青ざめていく。亜美子は畳み掛けるように続ける。
「何その顔!? 隆くんまで夢奈ちゃんが初めからいないって言うの!? ここでこれと色違いの青い石のハートのネックレスを買った子だよ!?」
亜美子は胸元からネックレスを出す。
「え、なんで……」
この時、亜美子は初めて気がついた。ネックレスのチェーンが夢奈にプレゼントしようと思っていたものと同じなのだ。ピンクのハート形の石には、いまいち合わない。
「これは夢奈ちゃんの誕生日プレゼントに買ったのに……なんで私が……」
状況が飲み込めない亜美子に、隆が暗い声で言う。
「僕の記憶では、これは亜美子ちゃんが自分のために買ったネックチェーンだよ。それに……青い石のハートのネックレスは……作っていない」
「そんなことあるわけないでしょ!」
亜美子は隆を怒鳴りつける。隆はもはやどんな顔をしていいかわからず、無表情になってしまう。そして震えた声で言う。
「亜美子ちゃんに話さなければいけないことがあるんだ」
「何ッ!? 教えてよッ!」
亜美子の鋭い声が隆を刺す。
「まず、あの怪物は……人間から生み出される」
「そんなこと知ってるよ! 夢奈ちゃんが目の前で怪物にされたんだからッ! なんで今までそんな大事なこと教えてくれなかったの!?」
「ごめん、僕は……」
隆は何か言いかけようとしたが、亜美子が言葉を被せる。
「ごめんじゃないよッ! 夢奈ちゃんは今どこにいるの!? 知っているなら早く教えてぇッ!」
隆は黙って頷く。相変わらず無表情だが、全身がガタガタ震えている。隆は精一杯声の声を出して亜美子に言う。
「怪物にされてしまった人間は……この世界から存在が消えてしまう。怪物にとどめを刺した人と、異常者の記憶にしか残らないんだよ」
亜美子は言葉を失った。こんな話、到底受け入れられるものではない。
暗い夜の雨はさらに激しさを増していく。




