第10話 扇動された虫達の悲鳴
前回のあらすじ
自分が走ると霧が迫り全員が死ぬことに気づいた夢奈。走ることをやめたが、そのペナルティの激痛が全身を襲う。絶体絶命のピンチの中、ついにたぬきが助けに来た。
校舎から聞こえる声が、わざとらしく残念そうに言う。
「あらら。邪魔が入りましたね。ゲーム終了かな」
たぬきの全身から殺意が溢れてくる。可愛いマスコットのような見た目と裏腹に、それは猛獣、いや怪物のようだ。
あの異常者め……放送室にでもいやがるのか? すぐにでもぶっ殺してやりたいッ!
だが、たぬきは今はそれが不可能なことを知っていた。
今は、目の前の敵を倒さねばッ!
異常者への殺意を上乗せし、殺虫剤の怪物に殺意を向ける。だがその時だ。
「クソッ! やりがったな!」
霧が津波のように四方八方からグラウンドに押し寄せてきたのだ。おそらく、殺虫剤の怪物が霧の量を増やしたのだろう。
まずい! この範囲ではシールドで全員を守れないッ! このままだと、オイラ以外は全滅する……せめて、亜美子だけでもッ!
たぬきはすぐに右手を亜美子の方に突き出した。
「亜美子! これを頭から被れ! 急げッ! 死ぬぞ!」
亜美子の目の前に顔と同じ大きさくらいの、半透明の光でできたシャボン玉のようなものが現れた。たぬきは亜美子が被ったかどうか確認せず、殺虫剤の怪物に向かって突進する。
説明している時間がなかったが、このシャボン玉のようなものはたぬきの作ったシールドの一種である。これを被れば全身がシールドに包まれ、霧の毒を回避できるのだ。
このタイプのシールドは他の人を守る専用の技で、たぬき自身には使用出来ない。また、これを使っている間、別のシールドを貼ることもできない。
全ては霧に包まれた。もはや人間が動ける場所など、学校の敷地内のどこにもない。たぬきは霧に怯むことなく、すぐに殺虫剤の怪物にパンチを入れようとする。だが、それは叶わなかった。
「あの野郎、どこだ?」
殺虫剤の怪物の姿が消えていたのだ。完全に見失った。
霧で自分のいる位置さえわからなくなりそうだ……皮肉なことだが、悲鳴のおかげでグラウンドの中心だけはどうにかわかる……
おそらく、女子生徒達は本能的に霧から逃げようとグラウンドの真ん中に集まって来たのだろう。まるでバルサンのような燻煙式殺虫剤から逃げる虫のように。
ん? なんだこの霧? 消臭効果まであるのか? 何のために? 絶対にいらないだろッ!
悪臭もするはずだが、霧の中では臭いが全くしないのだ。だが、そんなことは戦いに関係なく、すぐに気を引き締める。
オイラはオイラのやり方でやるぞ!
霧の毒にやられた人間をさらに傷つけてしまう恐れがあるため、たぬきは中心から離れて戦おうと決めた。たぬきが、敵を探そうとしたその時だ。
「うわぁッ!」
突然、たぬきは背中に鈍い衝撃を受け、そのまま前へ倒れ込む。すると今度は間入れずに、後頭部に衝撃が来る。
「クソがッ!」
たぬきは咄嗟に仰向けになりパンチをする。何かに当たった。黒い残像も見えた。おそらく殺虫剤の怪物の足だと思われる。
だが、すぐに避けられてしまい大したダメージを与えられなかった。たぬきの手には殴った感覚が残る。
さっきのでわかった。こいつは相当硬い。これだと致命傷は与えられないぞ。ちょこまかと霧に隠れやがってッ! そもそもなんであいつ黒いのに白い霧で隠れられるんだよッ!
殺虫剤の怪物の攻撃は続く。音も気配もない連続攻撃。一気に仕掛けるとたぬきに動きを悟られてしまうので緩急をつけながらの攻撃だ。
もはや殴られているのか、蹴られているのかさえわからないぞッ!
たぬきはあらゆる方向から攻撃を受けて何度も何度も飛ばされる。シールドを亜美子に使ってしまったため、予期せぬところから来る攻撃を防ぐ手段がない。
元々毒霧がメインのゴミ野郎だ。打撃は大したことない。だがこのままではまずいぞ。この霧をどうにかしなければッ!
たぬきは必死に考える。考え抜く。考えながら何度も攻撃を受ける。そして答えは出た。
昔、漫画で読んだあれなら、あれなら状況を打破できるぞ。でもあれがオイラにできるのか……いや、試してみるしかない。
たぬきは直立姿勢になり、矢のように上へ飛ぶ。そして、2メートルくらいのところで、そのまま扇風機の羽のように回り始める。
すると強い風が発生して、霧の一部が晴れてきた。さらに、何かがたぬきにぶつかり弾け飛ぶ。
「よしッ! 今のはラッキーだッ!」
運のいいことに、殺虫剤の怪物はこの動きが予期できなかった。そのため、回転に身体が巻き込まれてしまい弾き飛ばされたのだ。
完全に物理法則を無視するような技が成功した。これが霧対策の決定打に、ならなかった。
ダメだ。オイラの身長じゃあ霧が晴れる範囲が狭すぎる。せめてあと85センチ。身長185センチあれば……
「うぁッ!」
たぬきは後ろからの攻撃を受けて地面に叩きつけられる。
「ぐはッ!」
さらに、間を入れずに見えない攻撃を受け、たぬきは吹き飛ばされる。その時、たぬきは異変に気づいた。
しまった。悲鳴が消えてしまった。これではもうグラウンドの中心がわからないぞ。
たぬきは自分がどこにいるかさえも、わからなくなったのだ。五里霧中とはまさにこのこと。
今は受け身に徹して、ダメージを減らすしか無いッ! 状況を改善させるんだッ! 拳よりも……頭を使えぇぇぇぇぇッ!
たぬきは脳みそをフル回転さる。考えた。必死に考えた。攻撃を受けながら考え抜た。何度殴られても、何度蹴られても、とにかく考えた。
そしてたぬきは答えにたどり着く。この現状を打破するためのたった一つの答えに。
やはり強い力でぶん殴るしかない! とにかく、強い力でぶん殴ろうッ!
赤い霧もたぬきの不意打ちによる攻撃で消えた。よって理にかなっている考えではある。問題はどうやってやるかだ。
「これならどうだッ!」
たぬきは独楽のよう回りながら、霧に向かってパンチやキックを繰り出しはじめた。
たぬきの回転で周りの霧が晴れる。そう、四方八方から攻撃されるなら、四方八方を攻撃し続ければ良いのだ。攻撃こそが最大の防御。
しかし、殺虫剤の怪物は一向にたぬきに向かってこない。それもそのはず、わざわざ攻撃されるところに突っ込んでくる奴などいないのだ。
次第にたぬきの動きが遅くなり、ついには回転が止まってしまう。体力がなくなったのだろうか。
そろそろか……
数秒が経った時、たぬきは攻撃をせずに回り出した。周りの霧が晴れる。
「ここかッ!」
たぬきの真上に殺虫剤の怪物の黒い足があった。たぬきは踏みつけられる直前に、思い切り飛び上がり足の裏を殴る。
「クルシイナィァァァァァ」
殺虫剤の怪物は、鈍い金属音と共に悲鳴を上げる。かなりのダメージを受けたようだ。たぬきは疲れたふりをして、相手を誘い、回転で霧を払い攻撃したのだ。
「逃げやがってッ!」
二発目を入れようとしたが、殺虫剤の怪物は霧の中へと消えていた。
殺虫剤の怪物は全く気配がない。たぬきはこれまでたくさんの怪物を倒してきたが、ここまで気配のない相手は初めてだ。だが、霧さえなくせば気配は読める。
それでも、同じ手が二度も通用するはずもなく、それから先は何度やっても攻撃が当たらなかった。
流石に疲れてきたな……
たぬきの体力は確実に消耗している。体の痛みが増してきて、息も切れ始めた。息苦しく、攻撃を受けた以上に手足が傷む。
何かがおかしいぞ……まさかッ!
たぬきは恐ろしい事実に気が付いた。
オイラの身体に毒が回り始めているッ! 一つ一つは小さくてもダメージを受けすぎたのか……奴の狙いはこれかッ!
しかし、たぬきはもう一つ気づいたことがあった。さっきの自分の一撃によるある変化だ。
これは……! ……もう時間がない。やるしかない。幸い近くだッ!
たぬきは走り出す。するとすぐに攻撃が来る。
「うッ!」
攻撃を受けたたぬきは宙を舞う。だが、そのまま身体を回転させて軌道を変え、回転しながら四方八方への攻撃をし始めた。これでは殺虫剤の怪物も手が出せない。
よし、思い通り。
たぬきが攻撃をやめると、その身体はあるところへと打ち付けられた。地面とは違う感触がする。衝撃をやわらげるためか、たぬきはそこに身体をなすりつけるように転がるとすぐに起き上がる。
すまない。こうするしか無かった。
心の中で誰かに謝ると、その場から全力で走り出す。足に激痛が走る。それでもたぬきは走る。
「うぁぁぁッ!」
しかし、後ろから強い衝撃が来てたぬきは思い切り、10メートルほど先へと吹き飛ばされてしまう。だが、またすぐに起き上がるとニヤリと笑った。
「うまくいった。今回もオイラの勝ちのようだな」
今度は校舎の方から、機械で加工されたかのようなあの声が聞こえてきた。
「ほぉ。それは楽しみだね」
不気味なことにその声は本当に楽しんでいるようだ。
「黙れクソ野郎ッ! ここからは気合いの勝負だッ!」
たぬきが走り出すと、殺虫剤の怪物の姿が現れた。そのまま体当たりすると、殺虫剤の怪物は反応すらできずに命中する。
金属音が響く。殺虫剤の怪物はどうにか踏ん張り、また霧の中に姿を隠す。
しかし、今度は殺虫剤の怪物がたぬきの姿を見失ってしまった。あたりをキョロキョロ見渡してもその姿は見えない。
「ここだッ!」
たぬきが背後から飛び蹴りをくらわせる。
「クルシィナァ!」
殺虫剤の怪物が再び霧の中に姿を消すと、今度は右側からたぬきのパンチが来る。殺虫剤の怪物の位置は完全に把握されているのだ。
ここらからは一方的だった。霧の中に逃げ込んでもすぐにたぬきが現れ、攻撃を受けてしまう。霧以外の防御の手段をもたない殺虫剤の怪物はやられるしかなかった。
そして、ついにその身体は後ろから地面に倒れた。
「クルシイナィァァァァ!」
殺虫剤の怪物は痛みに声をあげる。
「無駄に硬いがオイラの力なら何とかなるだろ。覚悟しろ」
殺虫剤の怪物の目の部分にたぬきが立っていた。そして、はぁぁと息を吐くとそのままその身体をボコボコに殴り始める。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
「クルシイナァ! クルシイナァ! クルシイナァ!」
工事現場のような激しい音が、たぬきの攻撃の凄まじさを物語る。しかし、たぬきもギリギリの状態だ。毒のせいで手足が溶けないまでも、肉が見えるほど皮が剥け、その拳は血に染まっていた。
「いけぇッ!」
たぬきの拳が、殺虫剤の怪物の目を潰しそのまま貫く。穴の空いたところから黒い液体が漏れてくる。
それと同時に、あたりを覆っていた霧が無くなり赤い空が見えてきた。たぬきは肩で息をしながら一旦攻撃をやめる。
「最期に教えてやるよ。オイラは霧にやられた人がいるところへ行き、体の溶けた部分を自分につけたんだ。オイラの身体に攻撃すれば、その臭いは移るよな? 臭いのおかげで位置がわかったのさ」
あの時、たぬきは自分の攻撃により、霧から消臭効果がなくなったことに気づいたのだ。そして、この作戦を思いついた。たぬき自身についた臭いは、僅かにする自分の体臭と徐々に混ざり若干だが変わった。そのため、嗅ぎ分けることができたのだ。
「さぁ、終わりにしよう」
話しているうちにたぬきの体力が回復していた。たぬきは、穴から黒い液体を流し、全身がボコボコに凹んでいる殺虫剤の怪物を攻撃しようとする。
だがその時、校舎から不気味な笑い声が聞こえてきた。たぬきの動きが止まる。
こいつの笑い方……嫌な予感がする。
「面白いことになってるよ」
校舎から嫌な声が聞こえた。そして、その声をかき消すくらいの大きな叫び声が聞こえてくる。
「亜美子! 亜美子! しっかりして! 死なないでッ!」
夢奈が叫ぶ。まだ身体が動かせる状態ではないが、声が出るまで回復したのだ。その目からは涙が溢れている。
たぬきは声が聞こえる方向を見る。
「何でだよ……」
目の前の光景が信じられなかった。たぬきにとって、完全に想定外の事態だ。
そこには半透明の光の膜に全身を覆われた夢奈がいる。無傷ではあるが、たぬきのシールドの性質上、身動きが取れない。
一方、亜美子はうつ伏せになって倒れていたのだ。白目を剥いているが、口を僅かに動かしながら呼吸はしている。だが、両腕と下半身の全てはドロドロに溶けてなくなっていた。
「亜美子! 亜美子ぉーッ!」
夢奈は叫ぶ。




