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 新年を迎えたカフェの店内で、キビと祖母は並んで座り、話をしていた。

 窓際の指定席に祖母が、そしてその隣、ガラルドの指定席に、キビは座っていた。2人の間には2本のろうそくが灯りをつけて立っていた。その温かい光が、闇と静寂に包まれた世界を照らしていたのだった。



「ねえキビ」



 ろうそくの灯りを見つめながら、祖母がキビに呼びかけた。祖母は手を温めるように、ミルクティーの入ったマグカップに両手を添えている。



「キビは、お茶をいれるのがうまくなったわ」



 祖母の口元は、穏やかな笑みを浮かべていた。ろうそくの灯りに照らされて、暗闇の中どこか幻想的に浮かぶその微笑みに、キビは少しだけ不安を感じた。祖母が、どこか遠くに行ってしまうような、不安を。



「ドーナツだって、とてもおいしい、だから、キビはもう、一人前ね」

「おばあちゃん」



 不安を隠しきれず、キビは祖母を呼ぶ。その呼びかけに応じてキビの方を見た祖母は、やはり微笑むだけだった。

 祖母は近頃、体調を崩すことが多かった。キビはそれを、冬の寒さのせいだと思うようにしていた。この寒さが過ぎればきっと、また元のような元気を取り戻せると。それは、祈りにも近い、願望だった。



「おばあちゃんがいなくなっても、キビならもう、大丈夫よ」

「おばあちゃん、そんなこと」



 キビが祖母の腕に、手を添える。そんなことは言わないでと、懇願するように。しかし祖母は心配そうな顔をしたキビを安心させるように、やはり穏やかに微笑むのだった。マグカップに添えていた、しわの多い手で、キビの手をそっと包んだ。じわりと、温かかった。

 キビの胸が、ぎゅうとしめつけられた。キビは何も言えずに、ただ唇をかみしめた。そんなキビに、祖母はやはり、穏やかに微笑むだけだった。



「ごめんねキビ、おばあちゃんもう眠たいから、寝るわね」



 こて、と首をかしげて、祖母はそう言った。その可愛らしい仕草に、キビの口元からは少しだけ笑みがこぼれる。



「うん、おやすみ、おばあちゃん」



 キビがそう言葉を返すと、にこりと微笑む祖母の手が、ゆっくりと離れていく。キビは思わずその手を追った。また不安を感じてしまったのだった。祖母が、どこか、遠くに行ってしまうような不安を。祖母は、自分を追ってきたその手を優しく触った。そしてキビの手を、まるで慈しむように、するりと撫でた。



「おやすみ、キビ」



 祖母はゆっくりとキビの手を離すと、手燭を持ってカウンターの中へ入り、そして奥の階段を上っていくのだった。


 祖母のいなくなった店内で、キビは自分の手をぎゅっと握り合わせた。祖母の温かい、しわの多い手で撫でてもらった手を。その感触を思い出して、かみしめる度に、キビの胸はぎゅうとしめつけられた。



―もしも、おばあちゃんが、いなくなったら


 ひゅう、と浅く息を吸った。



―私は、悲しくて、どうしたらいいのか



 息を吸うと、胸が震えた。目の奥からじわ、と何かこみあげてくるのがわかった。キビは耐えるように唇をきゅうとかみしめた。


―あの人は、もしも、おばあちゃんがいなくなったら


 耐え切れず、こみ上げる思いがついに涙となってキビの目にじわりと溜まった。ぎゅう、と目を閉じると押し出された涙がキビの頬を濡らした。



―どれほど、悲しむのだろう



 窓の外から、ぱた、ぱたと音がする。外では空を厚く覆っていた雲から、ついに雨粒が落ちていた。



―悲しみに暮れるあの人を見たら、わたしは、わたしの、恋は



 雨粒が地面に打ち付けられる音はだんだんと大きくなる。ぱた、ぱた、ばたばた。ついに雨はざあざあと大きな音を立てて降り始めた。



―きっと、一生、叶わない



 新年を迎えたばかりの真っ暗な街に、冷たい雨が降る。キビの心を映すように、音を立てて、ばた、ばたと。






 新年を迎えてからひと月が過ぎ、祖母の体調はいよいよ思わしくなかった。

 体を起こすことも難しく、一日を寝て過ごすことが多くなった。医者によるとそれは加齢によるもので、加えて風邪をひいてしまったことで体調不良が長引いているのだろうということだった。しかし医者に薬を処方された後も祖母の体調はあまり良くならず、この頃は食事もベッドの上でとるようになっていた。



「もうおばあちゃん、またお薬飲んでない」


 昼食の食器を片づけに、祖母の部屋を訪れたキビはそんな言葉で祖母を叱った。



「あら、ばれちゃった?」

「ばれちゃった、じゃなくて、ちゃんと飲まなきゃダメじゃない」



 食後に飲むはずの薬を飲んでいないと、キビは祖母を叱るのだが、叱られる当人はいたずらに笑うだけで反省の色はうかがえない。「お薬は苦手なんだもの」と子どものような言い訳をする祖母に、キビは呆れるしかなかった。



「キビ、お店は平気?」

「うん、今はお母さんが店番をしてくれてるよ」



 祖母のベッドサイドに置かれた食器を片づけながら、キビは祖母の問いかけに答えた。祖母の体調がいよいよ思わしくないとなったのを機にキビの母親が駆け付け、今は、キビと母が交代で店番と祖母の看病をしているのだった。



「そう、ありがたいわね」



 そう言って祖母は穏やかに微笑む。いつもなら安心するはずのその微笑みが、あの夜のようにキビを不安にさせた。それがあまりにも祖母を儚く見せて、捕まえておかないと、どこか遠くへ行ってしまいそうで。



「キビ?」

「あ」


 気が付けば、キビは祖母の手を握りしめていた。しわだらけの手は、冷たかった。驚いた顔で自分を見つめる祖母に、キビは笑ってみせた。できるだけ、悲しくは見えないように。



「おばあちゃんの手が、冷たそうだったから、温めてあげたくて」

「まあ、ふふ、キビったら」



 キビの言葉に、祖母は笑った。あの儚くて、消えそうな、穏やかな微笑みではなく、少しだけ困ったように眉を下げて、でも楽しそうに笑った。祖母のそんな笑顔に、キビもちゃんと笑うことができた。悲しく見せない努力ではなく、楽しくて、笑うことができたのだった。



「ねえキビ」


 そんな笑顔のまま、祖母がキビを呼んだ。



「なに、おばあちゃん」

「今日は、あの人は来ているかしら?」


 祖母の問いかけに、キビは胸のあたりからなにかがすとんと落ちた感覚がした。

 ああ、そうか、そうなのか。きっと祖母もまた、あの人のことを、想っているのだと、キビはそう感じた。キビはその落胆を隠すために、必死に笑った。



「うん、来てるよ」

「そう」



 キビは、自分がうまく笑えていると思っていた。だからキビは、実はうまく笑えていないのだということに気づいてはいなかったのだ。祖母が笑って自分を見る目に、悲しみが宿っていることには、気づいていなかった。



「それじゃあ、あの人に伝えてくれる?もしも時間があるのなら、少しお話がしたい、と」

「…うん、わかった、伝えてくる」


 キビは必死に作ったその笑顔で祖母へそう言うと、その手を離して祖母の寝室を出て行った。

 一人残った寝室のベッドの上で、祖母は自分の手をすり合わせた。キビの体温をそこにとどめるように。そして独り言をつぶやくのだった。



「キビにあんな顔をさせてしまうだなんて、本当に、あの人は、罪な人だわ、…でも、そう、私もね」



 祖母は目を閉じて、ぎゅうと両の手を握り合わせた。そこに残る、愛しい孫の体温を慈しむように。

 それから2週間後、祖母は眠るように息を引き取った。





 祖母の墓前で、母や、親戚、そして祖母の友人や店の常連が悲しみに暮れる中に、キビはガラルドの姿を見つけていた。黒い喪服に身を包み、悲しみにうなだれている様子は、ただ、痛々しいと感じた。

 あの日、祖母がガラルドを部屋に呼んで、どんな話をしたのかキビは知らない。想像も、したくはなかった。もしも2人が、祖母の死を前にして結ばれたのだとしたら、キビの恋はそれこそもう、一生叶わないのだから。

 ただしそうでなくとも、祖母の墓前で悲しみにうなだれる痛々しいガラルドの姿を見たキビは、この恋は一生叶わないものになってしまったと感じていた。だからキビは、ガラルドに声をかけることはしなかった。できなかったのだった。キビはガラルドから逃げるように、その場を立ち去った。

 それでもキビの頭からは、悲しみに暮れたガラルドの、痛々しい、あの姿が離れなかった。それはキビの心を苦しいほどしめつけた。ついには歩いていたキビの足を止めてしまうほどに、キビを苦しめたのだった。



「…うう」



 キビの口からは、言葉にならない声がもれる。キビは両手で顔を覆った。あふれてくる涙を止めたくて必死に目元を抑えるのだが、涙はひとつも止まらない。それどころか更にあふれてくる涙を、キビは必死にぬぐい続けた。必死に、声を押し殺して。



「キビ」



 そんなキビの背中に、声がかけられた。キビは振り向かない。しかしキビはその声で、自分を呼んだのは学友だとわかっていた。黒い喪服に身を包んだ彼女はゆっくりとキビへ近づくと、その肩へそっと手を乗せた。まるで、傷つきやすい陶器の人形に触れるように、優しく。それから彼女はキビの背中にぴとりと体を触れさせて、ささやくように言葉をかけた。



「ねえキビ、こういう時はね、泣いていいのよ、子どものように、泣いてもいいの」



 その言葉は、しめつけられたキビの心を優しく解放していくようだった。涙が流れていく度心が楽になる気がして、キビは涙を止めようとすることをやめた。それから声を出すとより涙があふれることに気が付いて、声を押し殺すこともやめた。


「うあ、うあああああ…」



 友人の体温を背中に感じながら、キビは泣いた。声をあげて、まるで小さな子どものように、泣いた。

 キビが泣く理由は、祖母をなくしてしまったからなのか、それとも自分の恋が叶わないことを知ったからなのか、それはわからない。けれどキビはただ、心に感じる悲しさに従って泣き続けるのだった。声をあげて、まるで、小さな子どものように、いつまでも。






 祖母の葬式から1週間が経った。

 あれからガラルドは、店には来ていない。窓際の指定席はずっと、からっぽのままだった。キビは埋まらない指定席を一瞥すると、店の扉を開けて外へ出た。キビの手には、花が抱えられていた。祖母の墓前に供える花だった。

 街並みを彩るアパートのバルコニーには、沈丁花の花が咲き誇っていた。もう春が来ることを告げるその花を、キビは悲しげに見上げた。自分の春は、もう一生、訪れないものになってしまった、と。それでもキビは歩き出した。祖母の墓に向かって、祖母に、花を届けるために。


 そうして祖母の墓へたどり着いたキビは、そこにいた人物に目を見開き、息をのんだ。

 逃げようと、そう思った。しかしキビの足は動かなかった。それは祖母の墓前で片膝をつき、慈しみを込めたまなざしで祖母の墓を見つめるその姿に、目を奪われたせいかもしれなかった。とても、優しい、その姿に。

 キビが恋をした、ガラルドの姿に、キビは目を奪われていた。



「キビ」

「あ…」


 キビが立ち尽くしたままでいると、ガラルドは立ち上がり、キビを見た。祖母へ向けていたのと同じ、優しい、慈しみを映した、濃灰色の瞳で見つめられ、キビの胸がとくりと高鳴る。ガラルドが、目の端をくしゃりとさせて笑った。その笑顔が、高鳴るキビの胸をさらにきゅうと切なくしめつけた。



「花を、持ってきたんだな」

「あ、…うん、そう」



 ガラルドの言葉は、キビの足を動かした。祖母の墓前へ向かってキビは歩き出すと、その前で膝をつき、手に持った花束を墓前に供える。それから、地面に埋まっている墓石にそっと手を添えて、キビは祖母に語りかける。



「おばあちゃん、もうね、沈丁花の花が咲いたの、もう春が来るんだよ、温かくなるから、おばあちゃんもきっと、過ごしやすくなるね」



 キビには、祖母の上品な笑い声が聞こえてくるようだった。



「春の花が咲いたら、また、持ってくるから、待っててね、おばあちゃん」


 最後に「それじゃ、またね」と言って、キビは静かに立ち上がった。そして振り返ると、そこにはやはり、ガラルドが立っていた。優しい、慈しみの目をしたままでキビを見つめていたのだった。

 キビはまた、逃げようと思った。しかしまた、キビの足は動かなかった。逃げたいと思う気持ちとは裏腹な、ガラルドの傍に居たいという思いがキビをそうさせたのかもしれなかった。しかしその思いで留まっても、それからどうするということもなく、キビはガラルドのまなざしに耐え切れずうつむくだけだった。



「彼女にね、改めて許してもらっていたんだよ」



 そうしていると、ガラルドがそう口火を切った。



「ゆる、して?何を?」



 キビはガラルドの突拍子もない言葉に、思わずうつむいていた顔を上げた。ガラルドはやはり、優しい目で微笑んでいるだけだった。しかしキビはまだ、その目に宿った熱に気が付くことができなかった。わずかに熱を宿した濃灰色の瞳で、ガラルドはキビをじっと見つめて、口を開いた。



「彼女の大切な、愛しい孫に、私が求愛をしてしまうことを」



 言われた言葉をすぐには理解できなくて、キビの口からは「え」という声しか出なかった。その濃灰色の目にじっと見つめられて、キビはようやくその目に宿った熱に気が付いた。しかし気が付いたところで、キビは困惑しかできない。

 なぜ、この人は、そんなに熱のこもった目で、自分を見つめる必要があるのだろうか。それは、祖母に向けられるはずのまなざしで。でも、この人が今見つめているのは自分であって、祖母ではない。

 困惑しながらも、キビの胸は、うるさいほどの音を鳴らしていた。



「あの日、彼女の寝室で話したときに一度許してもらったんだ」



 あの日、それは、祖母がキビに頼んでガラルドを呼んだ、あの日だった。



「キビに、愛を伝えることを」



 キビは思わずはちきれそうになる心臓を押さえた。

 心臓の音が、耳の奥に響く。でも、どうして、だってこの人は。



「おばあちゃんが、好き、なのに」



 キビの口からは、そんな言葉が出た。ガラルドはその言葉に、驚いたように目を見開き、それからそっと、目を伏せた。



「そう、だな」



 そう言ったガラルドの顔が、キビには少しだけ、悲しげに歪んだように見えた。けれどキビの胸はまだ鳴りやまない。



「彼女に憧れていた、恋も、していたのかもしれない」


 冷たい風が吹いて、キビの耳を撫でた。けれどそれは、ほてった顔に心地よく感じる冷たさだった。



「けれど彼女が結婚すると聞いたとき、その幸せそうな顔を見たとき、彼女を祝福しようと思った、心から、きっと私は彼女のことを、姉のように思っていたのだろう、そしてそれは今も変わらずに」


 そう言ってガラルドは、視線を上げて、穏やかに微笑んでみせた。それがキビの目には、あまりにも魅力的に映るものだから、また耳の奥に響くほどにキビの鼓動が鳴った。



「キビと初めて会ったとき、ああ、彼女の孫なのだと感じたよ、幼いのに彼女にそっくりだと思ったからね」


 そう言われて、キビはガラルドと初めて会った時のことを思い出した。まだガラルドに、こんな立派な髭は無かった頃。祖母や母が紹介するでもなく、祖母の孫であることを言い当てたガラルド。キビがそうだと答えた時の、あの、目じりにしわを寄せた笑顔を。



「それから学園を卒業して、あのカフェで働き始めたキビを見て、なんというかな、驚いたんだ、すっかり大人になった、と」



 ガラルドは、照れくさそうに笑った。目じりにしわを寄せた笑顔で、またキビを見つめる。



「それから年甲斐もなく、惹かれてしまった」



 熱のこもった、濃灰色の瞳で。キビは、胸が苦しかった。心臓の音はやはり耳の奥に響いている。でも、それでも、ガラルドの言葉の方がキビの頭にはもっとよく響いた。



「いい年をしてなにを、と自分でも思いはしたのだが、キビの顔を見るたび、彼女にキビの話を聞かされるたび、キビに惹かれていく自分を止めることは出来なかったよ」




 キビは胸に当てた手を、ぎゅうと握った。苦しい胸を押さえつけるように。



「あの、夏の雨の日、キビが、もう子どもじゃないと言ったとき、正直どきとしたんだ、現実を突き付けられたようでね」


 ガラルドがもう一度、キビから目をそらすように目を伏せた。



「キビはもう子どもじゃない、誰かと恋に落ちて、そして、一緒になるのだろう、こんな年寄りがそれの邪魔になってはいけない、そうは思うのだが現実では、私は若い団員に醜く嫉妬をして、あんな大人げないことまでしてしまった、我ながら情けないと、反省したよ、そうしたらあの日、彼女に叱られたんだ」


 ガラルドはそう言いながら、少しずつ、キビの傍へ近づいていた。キビはそれになんとなく気が付いたのだが、逃げなかった。



「本当にそう思うのなら、キビの前から姿を消すべきだと、そしてそれが出来ないのなら、キビを幸せにすると誓え、と」



 ついにキビの前に立ったガラルドは、流れるような動作でその場に片膝をついた。



「ガ、ラルド、さん?」



 キビが目を丸くして思わずガラルドを呼ぶが、ガラルドはそのまま恭しく頭を垂れた。そして、すっと片手を差し出すと、その口を開く。



「もしもキビが、こんな年寄りでもいいのだと、そう言ってくれるのならどうか、どうか―私と一緒に、なってくれないか」



 頭を垂れたガラルドは、キビがどんな表情をしたのかはわからなかった。けれどたしかに、キビが息をのんだ音が聞こえた。それは、驚愕かもしれない、困惑かもしれない。あるいはその2つを含んだ、もっと別の。



「私、は」



 震える、キビの声がガラルドの耳に聞こえて、途切れる。それからキビが、大きく息を吸い込む音が聞こえた。



「ガラルドさんは」


 そして、やはり少しだけ震えた、彼女の愛らしい声で、ガラルドの名前を言った。



「初めて会ったころから、もう、だいぶ、年をとりました」



 それから、耳慣れない、自分に対するキビの敬語がガラルドの鼓膜を震わせた。ガラルドはそれを、頭を垂れ、片手を差し出したまま、静かに聞いている。



「でも、そんなことは関係なくて、私はずっと、ずっとガラルドさんのことが好きだから、こんなの、うそみたいって思ってる、でも、これがほんとなら、現実なら、私、私は」



 ガラルドの差し出した手が、熱い手にぎゅうと掴まれた。その感覚に、ガラルドは頭を上げた。そして、顔を真っ赤にして、宝石にも似た涙でその頬を濡らしたキビを見たのだった。



「ガラルドさんが好きだから、い、一緒に、なりたい」



 もはや泣きじゃくりながら話すキビの言葉は、まるで駄々をこねる子供のように聞こえた。

 そんなつたないキビの返事に、ガラルドは目を奪われていた。気が付けば、鼓動は大きく鳴っていた。

 大人になったキビ、けれど、子どものように泣きじゃくり、自分を好きだと言ってくれる。ガラルドは、不謹慎かもしれないが、そんなふうに必死に自分の告白に応えてくれるキビの姿を見つめて、かわいいと、思っていた。

 愛しいと、そう思う心がガラルドの体を動かした。


 差し出した手を握ったキビの熱い手をぎゅうと握り返して、ガラルドは立ち上がった。キビがそれに気が付いたときにはもう、ガラルドは握った手をぐいと引き寄せていたのだった。

 キビは驚く間もなく、ぼふ、とガラルドの胸におさまった。その胸から、鼓動が伝わってくるのがわかる。キビのものと同じくらいに、早い鼓動が。



「ありがとうキビ、ありがとう…」



 ガラルドが、キビのつむじのあたりでそうささやくので少しくすぐったいと思った。そのくすぐったささえも、今は幸福に昇華されていく。あまりに突然すぎたその幸福が信じられなくて、キビは思わず「うそみたい」とつぶやいてしまう。それを聞いたガラルドは、おもむろにキビを自分の体から離した。驚いて、まだ濡れた瞳でガラルドを見上げるキビの肩に、手を添えて、ガラルドはキビをじっと見つめた。

 口元は優しく弧を描いていて、目じりをくしゃりとさせた優しい笑顔で。キビが恋をして、そして今も心をとらわれている、笑顔で。



「うそではないよ、だって、ほら」



 そう言って、ガラルドはキビの顔にじぶんの顔を近づけた。キビは思わず目を閉じたが、直後に感じたのは、頬に当たる、なにかちくちくとした刺激だった。キビには覚えがあった。あれは、キビが10歳ぐらいの年になったころ、ガラルドが髭を伸ばし始めたころだった。物珍しいそれをキビが触っていると、ガラルドはいたずらな目をして、自分の頬をすり寄せてきた。かたい髭が、ちくちくとして。


「ガラルドさん、お髭が、痛いよ」


 キビは閉じていた目を開けると、くすくすと笑いながら抗議の声をあげた。するとガラルドはぴたと頬をすり寄せるのを止めて、こう言った。



「痛いだろう?これで、まず夢ではないことはわかったかな」



 それからもう一度、キビをじっと見つめる。濃灰色の、優しい瞳に見つめられて、キビは今度こそ目を閉じる時だと感じていた。心臓は落ち着かない。きっと、ガラルドもそうだろうと思った。けれどキビは、不思議と穏やかにいられた。それは、愛しい人と、こうして空間を共有しているからなのかもしれなかった。ガラルドが、ゆっくりと口を開いたのがわかった。



「そして、これで、うそではないことも」



 その言葉を待って、キビは静かに目を閉じた。

 すぐに降ってきた初めての口づけは、髭が当たって、少しだけ痛かった。







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