秋
街路樹の葉が色づき始めたころ、その依頼は突然にもたらされたのだった。
いつものように黒を基調とした騎士団の制服を身にまとったガラルドが、甲高い鈴の音を鳴らしてカフェを訪れた。そしていつものように指定席へと行き、隣に座る祖母と談笑を始める。その様子を一瞥して、キビは常連客のためにいつものココアの用意を始めた。
そして用意したそれをガラルドの前へ置いたとき、祖母がキビを呼び止めたのだった。
「どうしたの、おばあちゃん」
「今ね、この人から依頼を受けたのよ」
「依頼?」とキビは首をかしげた。
「あのね、騎士団が港で訓練をするから、訓練の後にお茶とドーナツの仕出しをしてほしいっていうのよ」
そう説明する祖母の隣でガラルドがうなずく。
祖母から話を聞いたキビは、へえと目を丸くした。ガラルドが、このカフェで仕事の話をするのは珍しいことだった。
普段は仕事の合間にカフェを訪れることが多いために、黒を基調とした騎士団の制服で来るのは普通のことなのだが、その姿で仕事の話はしない。それはガラルド曰く「ここではただの常連客だから」ということだった。それでも時々、ガラルドは祖母にこのような依頼をすることがあったのだ。しかしそれはとても珍しいことで、少なくともキビがこのカフェで働き始めてからは初めての事だった。
「それでね、私はもう、そんな体力は無いから、この仕事をキビにお願いしたいのよ」
「私、が?」
「そう」
祖母が両手を合わせて、にこりと笑う。まるで、お願いと言うようなポーズに、思わずキビからは笑みがこぼれた。
「うん、私でいいなら」
「キビが来てくれるのなら、こんなに嬉しいことは無いな」
ガラルドの言葉に、キビの胸がどきと鳴る。
「団員も、若い女性に来てもらったら喜ぶだろう」
期待をしたわけではなかった。そんなことだろうと、思ってはいた。しかしキビは自分が思った以上に落胆したのがわかった。頭に上った血が、すうと下がっていく感覚がした。
「まあ、こんなおばあちゃんじゃ不満だっていうの?」
「ああ、いや、そういうわけではないのだよ、すまなかった」
祖母が冗談めかしてそんなことを言うと、ガラルドはあわてて言い訳をして、謝罪をする。その様子はキビにとって微笑ましくて、それでいて、キビの胸を締め付けた。2人が顔を見合わせて笑う様子など、やはりキビは見たくなかった。
キビは「詳しいことは後で聞かせて」と言ってその場を離れることにした。必死に、笑顔をとりつくろって。
約束の日が来た。
次々と群がってくる騎士団員に、キビは祖母の言葉をかみしめていた。
―たしかに、この忙しさは、おばあちゃんにはもう無理かもしれない
なんとか笑顔で、ミルクティーとドーナツを渡しながらもキビはすでに疲れていた。もう秋だというのに、額にじわりと汗をかくほどに、キビは休みなく動いていた。そんな中でも、キビは時々吹く、冷たい秋の風に汗が冷やされていく涼しさに心地よさを感じて、それを糧に笑顔を作っていた。
また、キビに声がかけられた。
「普段は、どこでお店を出しているんですか?」
それは、ミルクティーのお代わりを、でもなく、ドーナツのお代わりを、でもなく、キビと同じ年頃の騎士団員からの質問だった。しかしお代わりの要求を想定していたキビは若い騎士団員の質問を一瞬理解できず、「え」とこぼしたきり固まってしまう。
若い騎士団員はその反応を警戒と取ってしまったのか、慌てて弁明をする。
「あ、いえ、その、ドーナツがとてもおいしかったので!また、食べたいなと、思いまして」
その様子にキビの頭はようやく回転を始め、若い騎士団員の言葉を理解する。
「あ、あー、そういうことですね、ありがとうございます」
キビがにこりと笑うと、若い騎士団員は安心した表情を浮かべた。
「ここからすぐ近くの、大通り沿いにある小さなカフェから来てます、私じゃなくて、祖母の店なんですけどね」
「そうなんですか、あの、今度その店にうかがいます!また、ええと、このドーナツをいただきたいので」
「ありがとうございます、ぜひ来てください、待ってます」
キビに笑いかけられて顔を赤くした若い騎士団員は、まだその場を離れず「あの」と言ってキビの顔を見ている。しかし、なかなか次の言葉は出てこない。そうしているうちに、一人の騎士団員が彼の肩を叩いた。
「いつまで独り占めしてんだよ」
「えっ、あ、す、すまん」
「あ、お茶のお代わりお願いしまーす」
それは明らかに、顔を赤らめた彼をからかうような言い方だった。肩を叩いた騎士団員はそのまま彼の肩に手を回す。それからキビにミルクティーのお代わりを要求し、それを受け取ると彼の肩を抱いたままその場を離れていく。
若い騎士団員は去り際に「必ず、必ずうかがいます!」と必死な叫びを残していった。
「キビ」
それを見送るキビに、また声がかけられた。見慣れた姿にキビの頬がゆるむ。
「ガラルドさん」
「お茶のお代わりをもらえるかな」
「はい、すぐに」
ガラルドの要求にキビはすぐに動き、カップに注いだミルクティーを手渡す。
「忙しくしているようだが、疲れてはいないか?」
「疲れてはいるけど、大丈夫」
風が気持ちいいから、とキビは笑ってみせた。そんなキビの姿に、ガラルドも口元をほころばせる。
「それにお茶もドーナツも気に入ってもらえたみたいだし、良かった、さっきもね、普段はどこでお店を出してるんですかって聞かれたの」
「ほう」
ガラルドの口元が、わずかに引き締まる。濃灰色の目がすっと細められたのだが、それはほんのわずかだったのでキビは気が付かない。
「新しい常連さんができるかもね」
「そうだな、次にカフェに行くのが楽しみだ」
「ああでも、お客さんが増えてもガラルドさんの指定席はちゃんと空けておくから安心して」
にこりと笑ってそう言ったキビに、ガラルドも穏やかに微笑んだ。しかしその表情はやはり、ほんのわずかだけ引きつっていた。しかしそれは、ほんのわずかで、キビがそれに気が付くことは無かった。
「それで、その彼は毎日のように通っているのね?」
キビの学友であり暇を持て余した奥様は、今日もこの小さなカフェでアールグレイを楽しんでいた。もっとも、彼女がこの店で楽しむのはキビの入れるお茶だけではない。彼女の大好きな、恋の話を。
優雅な動作でティーカップを持ち上げ、アールグレイを一口喫する。
「夕方のいつも、決まった時間に来るからたぶん騎士団のお勤めが終わった後に、すぐ来てくれてるんだと思う」
学友の暇つぶしに付き合うキビは、ハーブティーを試作しながら学友にそんな言葉を返した。キビの言葉に、学友は口に手を当てて、上品に笑う。うふふ、と。
「そんなに愛されて、幸せね」
学友の言葉は、明らかにキビをからかうものだった。なぜならこの学友は、キビの恋の相手を知っているのだから。そしてその恋の相手には愛されないと、キビが思っていることを知っているから。
キビが学友に、非難めいた視線を送る。
「からかわないでよね」
「からかってなんかいないわ」
学友は、やはり口に手を当てて上品に笑うだけだった。キビはそんな学友へ非難めいた視線を送ることも馬鹿らしいと、彼女から目をそらした。
「女は愛される方が幸せだと、あなたに助言してあげようと思っただけよ」
「どうせ、どこかの恋愛小説の受け売りでしょう」
キビは学友の方を見ないまま、そんな言葉を返す。試作のハーブティーに、真っ赤なバラの花びらを足した。きつすぎるほどのバラの香りが漂う。キビはため息をついて、ポットの中のそれを流しに捨てた。失敗作だった。
再び鍋に水を張り、湯を沸かそうとするキビに、学友が声をかける。
「ねえキビ、わたくしはね、友人がいつも泣きそうな顔をしているのを見るのが、つらいのよ」
こちらを見ないキビを、学友はじっと見つめる。
「愛するというのは素晴らしいことだけれど、愛されるというのは、もっと素晴らしいことだわ」
それでもキビは、学友の方を見ようとはしなかった。学友は静かに目を閉じた。それからゆっくりと目を開けると、窓の外へ目を向けた。外はもう夕暮れ時だった。学友は静かに、席を立つ。
「わたくしは、あなたがどれほどの間あの人のことを想っているかを知っているから、今すぐに考えを変えろということは言えないわ、だから、ゆっくりと考えて」
そして最後にそんな言葉をキビにかけてから、甲高い鈴の音を鳴らして店を出ていくのだった。キビはただ、水を張った鍋を見つめていた。
甲高い鈴の音が鳴った。学友と入れ違いに客が入ってきたらしい。キビはあわてて顔を上げて、「いらっしゃいませ」と声をかけた。
「こんにちは!」
にこやかに、少しだけ緊張気味にキビに声をかけたのは、件の彼だった。キビと同じ年頃で、背が高く、短く切りそろえられた黒髪は彼の誠実さを表しているようだった。そんな若い騎士団員は、先ほどまで学友が座っていたカウンター席の隣へやってくる。
「あ、隣のカップ、今片付けますから、こちらにどうぞ」
「いいんですか?」
「だって、いつもここに座ってくれるでしょう?」
そう言ってキビがにこりと笑うと、若い騎士団員はぽうと顔を赤らめる。
「指定席がある、そういう常連さんは他にも居ますから」
「そ、そう、ですか」
ティーカップを片付けながら、キビはちらりと窓際のカウンター席を一瞥する。窓際の指定席は、今日はまだ埋まっていない。指定席が埋まらないのは、今日だけではなかった。ここ数日、あの指定席は埋まっていない。
若い騎士団員から、いつもの代金を受け取ると、キビはいつものメニューを用意する。揚げたてのドーナツと、ミルクを多めにしたミルクティー。出来上がったそれを若い騎士団員の前に置くと、彼は人懐こい笑顔で「ありがとうございます」と言う。そんな彼を見ながら、キビは思う。
―もしも、この人のことを好きになれたら、私は何か、変わるんだろうか
「そうそう、総長が、ちょっと隣国に行ってたんですけどね、今日やっと戻ってきまして」
そんなことを思っていた矢先、彼の口から思いがけない言葉が出た。総長、それはつまり、ガラルドのこと。キビが息をのんだ音は、彼には聞こえなかったらしい。
「やっぱり総長が居ないと俺たち締まらないっていうか、ダメですね、こんなこと言ったら総長に叱られるんですけど、やっぱり総長あっての俺たちなんですよ」
キビの胸は、とくりと、鳴っていた。
彼のことを好きになれば、変わるかもしれない。それは今が、未来が、変わるのかもしれないのだった。そしてキビ自身が変わるのかもしれなかった。
しかし、キビはやはり、変わることはできないと思った。やっぱり総長あっての俺たちなんですよ、と言った彼の声がキビの頭の中で繰り返される。初めはこの気持ちが恋だということには気が付かなかった。ただ、目じりにしわが寄るあの笑顔が好きで、その力強くて、それでいて優しい手に触れられると安心して、傍を離れたくなかった。幼いキビは、その気持ちの名前を知らなかった。そして年頃になるまで一度も同じ気持ちを味わうことなく成長したキビは、その時ようやくその気持ちの名前を知ったのだった。
恋、だと。
甲高い鈴の音が鳴る。
「いらっしゃい、ませ」
入り口へ視線をやったキビは、そこに立つ人物を見て思わず固まってしまう。
「やあ、久しぶりだ、キビ」
なぜならそこに立つ髭をたくわえた人物は、親しげに片手を上げて挨拶をした人物は、キビが恋をした人。
「ガラルドさん」
目じりにしわを寄せて笑う、ガラルドが立っていた。キビが呼んだ名前に、若い騎士団員が後ろを振り返ってぎょっとする。なぜならそこに、騎士団総長が立っているからだった。思わず椅子から立ち上がる彼に、ガラルドが優しく「いいから座りなさい」と声をかけながら歩み寄ってくる。
「おばあちゃん、呼んでくるね」
「ああ、いいんだ」
そう言って奥の階段へ向かおうとするキビを、ガラルドが制した。
「今日もキビに、会いに来たんだよ」
にこりと笑うガラルドに、キビの胸がどくりと跳ねた。体が熱くなって、頬がほてるのがわかった。こんな冗談を、ガラルドはたまに言う。けれど、そのたまの冗談が今だけはキビの心を揺さぶった。
それは、ガラルドの顔を久しぶりに見たからかもしれない。あるいは、ガラルドに恋をしていると、再度認識した直後だったからかもしれなかった。
いつものように穏やかに微笑んだガラルドは若い騎士団員の隣に座った。まだ立ち尽くしたままだった若い騎士団員は、隣に座ったガラルドからもう一度「いいから、座りなさい」と促されてようやく座った。その顔色は、あまり良いとは言えなかった。
「このカフェでは、私はただの髭の常連だ、そんなに緊張しないでいいんだよ」
「は、ひゃい」
彼の緊張をほぐそうとガラルドがそう声をかけるのだが、そううまくはいかない。ガラルドは困ったように笑いながらもさらに言葉を続けた。
「ここには昔から通っていてな、茶やドーナツはもちろんだが、ココアもうまいんだ」
キビはマグカップの中でココアパウダーと砂糖を練りながら、ガラルドの声を聞いていた。楽しそうで、嬉しそうで、どこか、少し、浮かれていると感じたそれは、キビが聞いたことのない声だった。あるいは、聞こうとしてこなかった声かもしれない。きっとそれは、祖母と話すときの声だから。
しかしどうしてそんな声を、今ガラルドは出しているのか、キビはわからなかった。
「常連にもなると、自然と指定席が出来上がってなあ、お前の座っている席はキビと話すのに一番いい席だろう?」
ガラルドの声に、なにか新しい感情が足された。キビにはわからないそれを、若い騎士団員は敏感に感じ取った。そしてあまり良いとは言えなかった顔色を、いよいよ悪くした。
「そうそう、それで私がよく座るのは―」
ガラルドが言い切る前に、若い騎士団員が勢いよく立ち上がる。顔色が悪く、呼吸が浅い。
「し、失礼、しましたっ!」
そしてなんとか言葉を振り絞ると、背を向けて入口の方へと慌てて駆けていくのだった。
甲高い鈴の音がけたたましく鳴った。大きく揺れる鈴を見ながら、ガラルドは穏やかに微笑んでいた。
「まったく、せっかちな奴だな」
「…はい、どうぞ」
「ああ、ありがとうキビ」
ガラルドの前に、ココアが置かれた。キビのガラルドを見る目には不審が映ってしまう。なぜ、あんな声色で話したのか。なぜ、若い騎士団員は顔色を悪くして出て行ったのか。キビにはわからなかった。
ガラルドはそんなキビの目を、キビとは違って、穏やかな濃灰色の目で見つめた。いたずらに笑う目の端に、くしゃりとしわが寄る。
「少し、大人げないことをしてしまった」
にこりと笑った口から出たその言葉の意味は、やはりキビにはわからなかった。