夏
「キビは本当に、お茶をいれるのがうまくなったねえ」
窓際のカウンター席、彼女の指定席で、祖母がティーカップを片手にしみじみとつぶやいた。祖母のつぶやきに、ドーナツの生地を作っていたキビが顔をあげた。
「そう?ありがとう、おばあちゃん」
「あら、まあ、キビったら」
すると祖母は口に手を当てて笑い出した。うふふ、と上品な笑い声をあげて。キビは祖母の笑う理由が分からない。どうしたのだろう、と思っていると、祖母が自分の左頬に手を当てた。
「あなたほっぺにね、粉をつけているわよ、うふふ」
「えっ、やだ、うそ」
祖母の指摘に、キビはあわてて自分の右頬に手を当てた。祖母が再び「そっちじゃないわ、こっち」と指摘をする。指摘通りに、キビは自分の左頬をぐいとぬぐう。
「おばあちゃん、これでいい?」
キビが祖母にそう聞くのだが、祖母はまだ口に手を当てたまま上品に笑っている。キビは祖母の、この笑い方を知っている。いたずらをして楽しんでいる時の笑い方だった。このかわいらしいおちゃめな祖母は、時々そういうことをするのだった。
「もうおばあちゃん、いじわるしないで教えてよ」
キビが降参とばかりにすがると、祖母は笑って自分の鼻をちょんちょんと指で触ってみせた。それを見てキビがすぐに自分の鼻をぬぐうと、祖母は「残念」と言って笑った。
「あんまりにかわいいから、あの人にも見せてあげたかったのだけど」
「おばあちゃんたら」
キビが顔を赤らめながら非難めいた視線を祖母に送るのだが、それをものともせずに祖母は上品に笑う。そんな祖母に呆れつつ、キビは祖母から視線をそらして窓の外を見やる。雨が、降っていた。
「雨、まだ続くね」
雨はもう一週間も続いていた。お気に入りの青い傘が乾かないうちに、また濡らす日が続いている。キビの言葉に、祖母も体をひねって窓の外を見た。雨粒が石畳の地面に打ち付けられてそこかしこで跳ねている。雨の中を、時々傘も差さずに走り抜ける人が居る。その服装からして、港で働く人間だった。窓の外を見つめていた祖母は目をすっと細めて口を開いた。
「仕方がないわ、そういう時期だもの」
しみじみと、この長雨を味わうように祖母はそう言った。キビもまた、祖母にならうように雨の音に耳をかたむける。ぱた、ぱたぱた、ぱた、ぴちゃん。すました耳に、雨の音がしみていく。それはまるで、雨のさえずりのようで。
「この長雨が過ぎれば、もう夏が来るわ」
それは、夏がそこまで来ていることを知らせるさえずりだった。
キビはさえずりに耳をすます。ぱた、ぱたぱた、ぴっちゃん。
2日後、雨はようやくあがった。
昇りたての太陽が王都の石畳を照らしていた。夏の日差しが、長雨が濡らした街を乾かしていく。立ち並ぶアパートのバルコニーには、色とりどりの傘が咲いている。どれも長雨が濡らした傘だった。
カフェの真上にあるバルコニーに、キビも傘を干した。お気に入りの、青い傘を。
キビが開店前のカフェへ降りてくると、祖母はいつもの指定席でティーカップを磨いていた。キビはカウンターの外へ出ると祖母へ声をかける。
「おばあちゃん、市場に行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
見送りの言葉を受けてにこりと笑ったキビは、扉の取っ手に手をかける。すると、祖母が「ああ、そうそう」と何かを思い出したような声を上げた。キビは取っ手にかけた手をそのままに、顔を祖母の方へ向けた。
「晴れたけれど、突然降るかもしれないからね、気を付けて」
それは、祖母の経験による天気予報だった。キビは「わかった」と返事をすると扉を開ける。
甲高い、鈴の音が鳴った。
外の街路樹はまだ濡れていた。その葉についた水滴に、朝の日差しが反射してきらきらと輝いている。街路樹が歩くたびに輝きを変えていく様子は、キビの心をわくわくさせた。少し歩くのを早めると、輝きはまたその様子を変えた。それが面白くて、ついにキビは朝の街を走り出した。走るキビの背中で、麻のナップザックが元気よく跳ねた。
南の港で開かれる市場は、久しぶりの晴天に賑わっていた。
この南の港は観光客の入り口になっている。そのため市場を賑やかす人の多くは観光客である。そのためにこの市場には、人の目を引くような目新しいものが多い。
キビは慣れた足取りでにぎわう観光客の間をすり抜け、人のいいおばちゃんの営む商店で目的のものを手に入れる。手に入れたそれを麻のナップザックへ詰め込むと、キビは再び観光客の波の中へ飛び込んでいくのだった。
「キビ、おはよう」
市場から出たところで、キビの名を呼ぶ声がした。声のした方を見ると、見慣れた姿。
「ガラルドさん、おはようございます」
しかしその姿は、見慣れた騎士団の制服ではなく、灰色のジャケットに身を包んでいた。その見慣れない格好に、キビが非番かと聞くと、ガラルドは「ああ」とうなずいた。
「久々の晴れだからな、市場も賑わっているだろうと思って見に来たんだ」
そう答えたガラルドの手には大きく膨らんだビニール袋があった。見に来ただけではなく、どうやら買い物も楽しんだらしい。
「何か買ったの?」
「ああ、これをな」
そう言ってガラルドがビニール袋から一つとりだしてみせたのは、鮮やかな黄色をした、レモンだった。
「夏らしくていいだろう?」
レモンを手にしたガラルドがにこりと笑う。まるで太陽のようなその笑顔に、キビもつられて笑った。
「キビは背中の麻袋いっぱいに、何を仕入れたんだ?」
それからガラルドがそう聞くと、キビは背中のナップザックを正面へ持ってきてみせる。そして意味ありげに、ふふと微笑むとこう答えるのだった。
「これもね、夏らしいもの」
何とは言わないキビの答えに、ガラルドは笑った。
「それじゃあ、カフェで見るのを楽しみにしておこうか」
キビの思惑を悟ったガラルドは、それからそう言った。
「それで、もう仕入れは済んだのか?」
「うん、今日はこれを買いに来ただけだから」
「そうか、では店まで送っていこう」
「え」
突然の申し出に、キビは驚いた。それから慌てて手を振った。
「いいよ、せっかくの非番なんだからゆっくりして」
「非番だから、だよ」
そんなキビに、ガラルドは微笑んだ。目じりに、しわを寄せて。
「それに、これは彼女になにか料理してほしくて買ったものだからね」
手に持ったビニール袋を軽く持ち上げて、ガラルドはそう言った。キビは途端に、かあんと頭が冴えていくのがわかった。ああ、そうか、そういうことだったのか。いや、少し考えたらわかるはずだった。この人がカフェに来る理由は、ひとつきりだった。
キビは、必死に、笑った。
「それじゃあ、お言葉に甘えようかな」
キビはたぶん、うまく笑えたと思った。ガラルドも、目じりにしわを寄せて笑ったからだった。
雲が迫ってきていたことは気が付いていた。
キビとガラルドが石畳の通りを歩いていると、ぱたとなにか地面に降ったのが見えた。ぱた、ぱたと次々に地面に降るそれは、ついにキビの頭にも降ってきた。
「わ」
「いかんな、キビ、これを持ってくれるか」
ガラルドはビニール袋をキビに渡すと、「麻袋は前で抱えなさい」と指示を出しつつ灰色のジャケットを脱いだ。そしてそれをばさりと頭の上に持ち上げる。傘のように広げられたそれは、すぐに激しく降り出した雨粒から2人の頭を守った。
「キビ、もう少し近くへ」
「あ、ええと、うん」
そう言われて、キビはガラルドの傍へ寄る。けれどガラルドが「もう少し」と言うのでキビはさらに傍へ寄った。ぴとり、と腕がシャツ越しにガラルドの腰に触れた。キビが思わず息をのんだ音は、雨の音にかき消されてガラルドには聞こえなかった。
「さ、急ごう」
ガラルドが、そう促した。激しい雨に打たれたジャケットはすぐにそれを吸い込み、雨だれを落とす。キビはうなずいて、雨の中をガラルドと共に走り出した。
「あら、あら、まあまあ」
土砂降りの中、ようやくカフェにたどり着いた2人を出迎えたのは、祖母の驚いた声だった。
「待ってて、今タオルを持ってくるわね」
そう言って祖母はカウンターの奥にある階段で上の部屋へあがっていった。
2人きりになった店内で、ガラルドがキビの濡れた髪をわしゃとかきあげた。キビの短い髪から、ぽたりとしずくが垂れる。
「結局、ずいぶんと濡れてしまったな」
ガラルドは申し訳なさそうに、少し目を伏せていた。
「仕方ないよ、突然の雨だったんだもの」
「体は冷えてはいないか?風邪でも引いたら大変だ」
「平気だよ、子どもじゃないんだから」
キビは笑って答えたのだが、ガラルドの反応は思いがけず真剣なものだった。
「そう、か」
その濃灰色の瞳がすっと細められた。キビには、それがどのような感情を表しているのかわからなかった。けれどそれは、ガラルドがいつも祖母へ向ける表情でもなく、それでいていつもキビに向ける表情でもなかった。その瞳の意味はわからないが、キビはその瞳に見つめられると、自分の胸がとくりと高鳴ることだけはわかった。ガラルドの髭から、ぽたりとしずくが垂れる。
「おまたせ、さ、2人とも、体を拭いて、そうそう、お茶もいれましょうね」
祖母がタオルを抱えて階段を下りてきたので、キビはあわてて視線をそちらへ向ける。祖母が両手でタオルを抱えているために、カウンターの跳ね上げ扉を上げられずにいた。
「おばあちゃん、タオル受け取るね」
キビは祖母のほうへ駆け寄り、カウンターの中にいる祖母からタオルを受け取った。祖母が「ありがとうね」と微笑む。それから「じゃあおばあちゃんはお茶をいれようね」と言う祖母に、キビは「そうだ」と口にする。
キビはタオルを持って入口へ戻ると、ガラルドにタオルを一枚渡し、それからそこに置いていた麻のナップザックを持ってカウンターに戻る。そしてそれを開いて中身を祖母へ見せた。
「これでお茶いれてくれる?」
「まあ」
それを見た祖母は笑顔を見せた。そしてそれを受け取ると、「それじゃ用意するわね」とお湯を沸かし始める。その間にキビは祖母の持ってきたふかふかのタオルで濡れた洋服を拭いた。水を吸ってすっかり重たくなってしまったカフェエプロンは外す。黒いベストもすっかり重いのだが、その下に着た白いシャツがぺたりと体にまとわりついているためにそれを脱ぐことはできない。
ガラルドを見ると、ジャケットの下に着ていた黒のティーシャツがぺたりと体にまとわりついて、その輪郭が現れている。老齢に片足をつっこんだ年齢とは思えない鍛え上げられた肉体は、彼が騎士団総長として団員から慕われるゆえんを表現していた。
そしてその目はすっかり、いつもの、濃灰色の目に戻っていた。
じっと見ていると、ガラルドはキビがこちらを見ているのに気が付いたようで、つかつかと歩み寄ってくる。そしてガラルドはキビの目の前に立つと、自分のタオルでキビの頭を包んだ。
「わぷ」
「髪はきちんと拭いたか?根元から、しっかり乾かすんだぞ」
それからキビの髪をわしゃわしゃとタオルで拭きはじめる。あまりに乱暴なそれに、キビから抗議の声があがる。
「もう、だから、子どもじゃないってば、自分で、できるよ」
「はは、そうだったな、すまない」
ガラルドは謝罪の言葉を口にするのだが笑いながらのそれに誠意は感じられない。髪をわしわしと乱暴に拭く手を止める気配もないガラルドに、キビはもう一度抗議の声をあげる。けれどそれは、楽しそうに。
「もう、はは、あはは、ガラルドさんてば」
抗議をするはずだったキビの口からは、笑い声がもれる。それにつられるように、ガラルドも笑った。2人の笑い声は、祖母が「レモングラスティーがはいったよ」と呼びかけるまで、この小さなカフェを満たし続けたのだった。