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 四方を海に囲まれた王都には、東西南北に4つの港がある。

 そのうち南の港の近く、王都にぐるりと輪のように描かれたメインストリート沿いに、キビの働くカフェはあった。学園を卒業してから働き始めたカフェ。もう、3年になる。

 ここは、キビの祖母が若いころに始めた小さな店だった。港で働く常連客や、隠れ家好きな観光客に支えられてささやかながら繁盛していたこの店は、結婚を機に祖母が王都を離れることになったために一度は人手にわたることになる。しかし一人娘が結婚して家を出て、はやくに夫を亡くした祖母はキビが生まれたころに、再びカフェを始めたのだった。王都の南の港の近く、メインストリート沿いの、同じ場所で、同じ店で。



 甲高い鈴の音が鳴った。

 来客を知らせる合図に、キビはカウンターの中から扉の方を見やる。扉からは髭をたくわえた常連がひょっこり顔を出していた。


「いらっしゃい、ガラルドさん」



 キビがそう言葉をかけるのだが、ガラルドはそれ以上店に足を踏み入れずに、ちょいちょいと手招きをした。髭に隠れた口元がにこにことしている。



「キビ、少し出ておいで」



 そんな常連の誘いに、疑問に思いながらも、キビは素直に従った。手に持っていた布巾とマグカップを置くとカウンターから出てガラルドの待つ扉へ向かう。待ってましたとばかりにガラルドがキビの手をとった。触れ合った手に、思わずキビの胸がとくんと鳴る。

 ガラルドはそのままキビを引っ張ると扉の外へ連れ出した。キビが「なに」と聞いても、ガラルドは「いいから」と笑うだけだった。笑うと、目の端にしわが寄った。その笑顔が好きだからキビは何も言えなくなるのである。


 背中の方から突風が吹いた。視界の端をたくさんの白いなにかが過ぎ去っていく。ひとつだけ前髪にひっかかったなにかをつまんで見ると、それは薄紅色をした桜の花びらだった。キビがつまんだそれを吹き付ける突風がさらった。

 突風にさらわれた桜の花びらが空へと舞いあがっていく。それを追うように見上げれば、アパートのバルコニーの一面を彩るたくさんの桜。それをさらに上へと見上げていくと。


「わ…」



 空が、一面の、桜色だった。


 キビの口からは思わず感嘆の声がもれた。頬を赤く染めて空を見上げるキビの表情は、いつもの大人びたそれではなく、まるで少女のようだった。ガラルドと初めて会ったころの、少女のような。



「まるで、初めて会ったころのようだな」



 それは、空を覆う桜の花びらのことを言ったのか、それともキビの少女のような表情を言ったのか。ガラルドの視線からすると、答えは前者だった。



 幼いキビがガラルドと初めて会ったのも、こんな桜の舞う春のことだった。

 王都でカフェを営む祖母のもとへキビが両親に連れられて遊びに来たのはとても幼いころだった。そのころからガラルドはこの店の常連で、髭は無く今よりもずっと若かったけれど、今と変わらない優しい笑顔なのだった。

 初めて会ったとき、桜の花びらが舞い散っていた時。ガラルドは幼いキビの視線に合わせてしゃがみこみ、目じりにしわを寄せた優しい顔でキビに笑いかけた。それから力強くて、それでいて優しい手でキビの頭を、こう言って撫でたのだった。




「頭がすっかり桜色だな」


 ははと笑ったガラルドがキビの頭を優しくはたいた。はら、はらと桜の花びらが散ってキビの肩に舞い降りた。ガラルドを見上げたキビがくすくすと笑う。


「ガラルドさんこそ、お髭に」


 キビはそう言ってガラルドの口元に手を伸ばした。髭についた桜の花びらを取ろうとして、キビの手がガラルドの唇に触れた。キビの口から思わず「あ」と声がもれた。胸が優しく、とくんと鳴る。唇に触れた手をそのままに、ガラルドの瞳を熱く見つめてしまう。こちらを見つめ返す、濃灰色の、優しい瞳を。


 あのころからずいぶんと時を重ねて、ガラルドは立派な髭をたくわえて、すっかり年も重ねたけれど。その目じりにしわを寄せた優しい笑顔が変わらないから。その力強くて、それでいて優しい手が変わらないから。

 キビはずっと、ガラルド・アイリーンに恋をし続けているのである。





「それで?そのまま唇のひとつでも奪ったのかしら」

「できるわけないって知ってて言ってるでしょ、いっつもそうなんだから」


 学友の働くカフェを訪ねてきた友人に対して、キビは「からかわないでよね」と少しだけ眉をひそめる。

 カウンターに立つキビの目の前で、口に手を当てて優雅にうふふと笑う彼女はキビの学友だった。この美しい金色の髪を肩に垂らした学友は卒業した後も、こうして時々カフェを訪ねてきてはキビから恋の話を聞き出すことを趣味としているのだった。ちなみに彼女の左手の薬指にはたいそうな指輪が輝いており、つまるところ奥様は暇を持て余しているのだ。

 暇を持て余した奥様はティーカップを優雅に持ち上げて口元へ運び、アールグレイを一口喫すると、ほうとため息をついた。そしてカップをソーサーへ戻して、再び口を開いた。



「ねえキビ、いつも言っていることだけれど、想いは口にしないと伝わらないのよ?」

「…いつも言っていることだけれど、私は伝えたいわけじゃないのよ」


 学友の苦言に、キビはその口調を真似て言い返した。そんなキビに、学友は上品に口に手を当てて「まあ」と非難の目を向ける。



「伝えない想いに価値などあるのかしら」

「これも、いつも言っていることだけれど、あなたにはわからないのよ」


 学友の非難めいた視線を、キビはよく磨かれたティーカップで弾き返した。



「叶わない恋なんてしたことのない、あなたには」


 キビの声は、思ったよりもずっと冷やかに響いた。

 それは、学友の耳にも、そしてキビの耳にも。

 キビの耳にソーサーとカップの触れ合う、カチャリという音が聞こえた。それから学友の、いつもと変わらない声が。



「キビ、あなたの言うとおりだわ、わたくしにはあなたの気持ちは分からない」


 学友は力強く、「けれど」と続けた。



「あなたのその辛そうな顔を見ているとね、やはり伝えない想いに価値はあるのかしらと、そう思ってしまうのよ」


 学友はそのように言い切ると静かに目を伏せて、アールグレイを一口喫する。それからまた優雅な動作でカップをソーサーへ戻すと、キビの耳にまたカチャリという音が聞こえた。

 布巾で包んだティーカップを両手で握りしめたままそっぽを向いてうつむいたキビの顔を、学友が伏せていた目をあげてじっと見つめる。かつて彼女の家名だった、カーマインの瞳が。そして学友は静かに、優雅に、口を開くのだった。



「ねえキビ、あなた今、泣きそうな顔をしているわよ」






 ガラルド・アイリーンは王立騎士団の総長を務める男だ。

 その慈愛に満ちた微笑みは全団員からの信頼を集め、また老齢に片足をつっこんだ年齢を感じさせない実力は全団員からの尊敬を集めている。


 しかし、そんなガラルド・アイリーンもこのカフェにいる間は、ただの髭をたくわえた常連客なのだった。

 甲高い鈴の音が鳴る。



「いらっしゃい、ガラルドさん」


 キビがカウンターの中から声をかける。扉を開けて入ってきたのは、黒を基調とした騎士団の制服に身を包んだ、髭をたくわえた常連客だった。片手をあげてにこやかに「やあ」と挨拶をする。

 それからガラルドは誰に案内されるでもなく、まっすぐに窓際のカウンター席へ向かう。そこが、ガラルドの指定席なのだった。

 ガラルドが指定席の隣に座る老婦人に親しげに声をかける。目じりにしわを寄せて、くしゃりと笑い、髭に隠れた口元をほころばせる。とても、団員に見せられる顔ではない。キビはそんなガラルドの表情を一瞥するとココアパウダーの缶を手に取った。その蓋を開けて、ココアパウダーをさじに山盛り一杯をすくう間も、窓際のカウンター席で並んだ2人が談笑しているのが感じられる。老齢という言葉が似合う2人の会話は、若い男女のように華やかではないけれど、互いが微笑むたびに花が咲きそうなその空間は、まるで若い恋人同士が作り出すそれだった。けしてあの2人は、若くも無ければ、恋人同士でもないのだけれど。そう錯覚してしまいそうになるほどに、キビの目には幸せそうなガラルドの顔が映るのだった。

 マグカップの中でココアパウダーと砂糖を練ったものに、よく泡立てた温かいミルクを注ぐ。常連客のために砂糖を控えめにしたそれを、ガラルドの前に置いた。



「ありがとう」

「…いえ、ごゆっくりどうぞ」


 自分に向けられた笑顔に、なんとか笑顔はつくろうのだが、キビの胸がずきんと鳴る。それは、隣へ向ける笑顔とはまったく違うものだから。



「おばあちゃんも、ゆっくりお話しして」

「ありがとうね、キビ」


 ガラルドの隣に座る祖母へも笑いかけて、キビは2人に背を向けた。

 2人が再び談笑を始めたのを感じた。会話の内容は聞き取れない。キビは聞きたくなかった。2人が時々顔を寄せ合って、見つめあい、笑う様子など、キビは見たくなかった。

 頭に、学友に言われた言葉がよぎる。



―あなた今、泣きそうな顔をしているわよ



 キビは学友に、何度も、何度も言った言葉をまた繰り返す。



―あなたにはわからない


 頭の中の、学友に。


―叶わない恋なんてしたことのない、あなたには


 かつて学園のサロンで、学友に何度も言った言葉を。新年のあの日、日記に書くことのできなかった言葉を。



―だってあの人は、今でも、おばあちゃんが、好きだから




 ガラルド・アイリーンは王立騎士団の総長を務める男だ。

 しかし、このカフェにいる間は、ただの初恋を忘れられない、女々しい男なのだった。






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