玖拾肆 日常
武蔵は人が集う事で起こる雑多な音の渦の中を歩いていた。通りは多くの人で賑わっている。既に日は落ち、空には月が昇っているというのに街は夜の闇から逃れていた。無論月が落とす光ではない。暗闇の中でも街を現しているのは、眩いばかりの人が作りだした光、街灯であった。
定期的に配置されている街灯は魔法で灯されており、松明などとは比較にならぬほど周囲を明るく照らし出す。さらにそれを覆う多角形のギヤマンが光度を何倍にも高めていた。街中は昼と変わらぬほどの活気があり、生み出される喧騒は煩いほどだ。
武蔵が歩くのは飲食店街の様で、通りの左右には酒場や飯屋が無数に立ち並び、怒声や嬌声が通りにまで届いてくる。大きな店の入り口付近には専用の魔法灯が掲げられ、一際強く存在感を浮かび上がらせていた。
特に何かに惹かれたわけではないが一軒の店に入る。扉を開くと魔法灯が控えめな明るさで、五十人ほどは入るであろう店内を橙色に染め上げていた。中にいた者たちの目が一斉に闖入者を向く。数多の視線に臆することなく武蔵は店内を見渡すと、太刀と木塊を卓に立てかけ空いていた席に座る。常連の客で成り立っているのであろうその店では、明らかに武蔵は浮いていた。
異物を見咎めたか、周囲の者たちが武蔵へと奇異の視線を無遠慮に送る。中には声高に武蔵の風貌を揶揄する者もいた。だが武蔵は動じない。店の女将らしき中年の小太りの女が厨房から出てくると武蔵に小声で声をかける。
「あんた、見ない顔だね、余所者だろ?悪いことは言わない、別の店に行きな。ここは新参者は好まれないんだ」
「腹が減っておる。食い終わればすぐに出てゆく」
動こうとしない武蔵を見て店の女将らしい女は一つ深い息を吐き出す。
「仕方のない異国人だ。面倒ごとに巻き込まれても知らないからね、なるべく早く出ていくことをお勧めするよ。で、何にするんだい?」
女が迷惑そうな顔をするも、良心が咎めたのか武蔵に忠告する。
「これで腹を満たしたい。量が多いものを頼む」
そう言って武蔵は懐から出した銀貨一枚を卓の上に置く。純度が高いとされる、長い髭と高い鼻を持ったヴォルケン三世の横顔が刻印されたヴォルゲイツ銀貨だった。
「飲み物は?」
「水でよい」
「はいよ」
女が銀貨を拾い上げ厨房へと戻っていく。武蔵が店内を見回すと其処彼処に敵意に満ちた無数の目が爛々と輝いていた。異種族との交流が盛んなこの街では異国の民など見慣れたはずだが、好奇と侮蔑が込められた視線が止む事はなかった。
程なくして女将が盆を掲げ料理を運んできた。両手で抱えるほどの大きな椀に満たされた汁に何枚もの焼かれた肉、黒麺麭が笊に溢れんばかりに盛られている。椀と肉から立ち上る香りが鼻腔を擽り、腹の音が盛大に鳴った。目の前の獲物に食らいつき、見る見るうちに平らげてゆく。
武蔵が旺盛な食欲を満たす中、若い小柄な男が卓の前に立っていた。横に並ぶのは長身で軽鎧に身を包んだ男。小柄な男が鼻を指でつまみながら、長身の男へと問いかける。
「おい、何か匂わねーか?」
何時の間にか店の中の音が消えていた。荒事の予感に店内の全ての人間の意識が武蔵と男たちへと集中する。
「確かに。動物の匂いがするぜ」
「何の動物だ?」
「この匂いは猿だ。猿の匂いがするぜ」
「おいおい、馬鹿言っちゃいけねぇ。こんな街のど真ん中に猿なんかいるわけねぇだろう」
「でも匂うぜ。こいつぁ間違いなく猿の匂いだ。それも黄色い猿の匂いがプンプンするぜぇ。この野郎からなぁ!!」
言って小柄な男は足を高く掲げ、武蔵が座る台へと踵を落とした。分厚い木材で作られた頑丈なはずの食卓が、箸でも折るかのように意図も容易く二つに裂けた。常人と思えない力は、マナ使いの剛力に拠るものなのだろう。店にいるほぼ全ての者は魔力を垂れ流していた。ここは冒険者という荒くれ者が集う場所であった。
武蔵は食卓に置いてあった椀と麺麭を両手に持ち、何事もなかったかのように食事を続けていた。固い麺麭を食いちぎっては咀嚼し汁で飲み込む事を数度繰り返して食事を終えた。徐に立ち上がると、割れた卓を跨いで敵意に満ちた目で睨みつける小柄な男の横を通り過ぎる。何時の間にか腰には太刀が差され、背には木塊が背負われていた。厨房へ行って椀を置くと中で様子を窺っていた女将へと声をかけた。
「邪魔をした」
「ふざけんな、てめぇ!!」
自らの存在を歯牙にもかけない泰然たる態度に小男が激情し腰から短剣を抜いて襲い掛かる。鋭い踏み込みからの刺突は確かに武蔵を貫いたかに見えた。だが、異邦の男の肉体を捉える事はなく、身体の平衡を崩し派手な音を立てて無様に床へと転がってしまう。
「ぶはーはっは!!」
「おいおい、酔ってんのかよゲイツ?何、床と戯れてんだ!?」
周囲の者からは、小男が何かに躓き、自分で勝手に転んだように見えたらしい。武蔵は床に這いつくばる小男にまるで興味を示さず扉へと向かうが、長身の男が立ち塞がる。次なる戦いの予感に緊張の度合いが高まるが、武蔵の黒い双眸が一睨みすると、気圧されたように長身の男の足が知らず退き道が空く。武蔵はそのまま入口へ向かい、重い樫の扉を開けると僅かに背後を一瞥し夜の街へと消えた。
「大したものだ」
店の最奥に座る男が酒杯を掲げながら、見えなくなった武蔵の背に目線を向けたまま呟いた。燃えるような赤い髪を持ち、座高だけで小柄な女ほどもある、立ち上がればどれ程の大きさなのか見当もつかない、常識外れの巨躯の男であった。壁には大の男の背丈を越える大剣が立てかけられている。
「貴方とどちらが強いのかしらね」
対面に座る妖艶な女が笑みを浮かべ、疑問を口にする。
「さぁな」
「何のために、こんな野卑な連中の溜まり場に来たのかと思っていたけど、まさかあんなのと出くわすとはね。予感でもあったの?」
「ないさ、何もな」
蒸留酒で喉を潤しながら巨躯の男はそういって目を閉じた。
「そう」
匂い立つような色を放つ女は、卓に肘をつき組んだ両手の指に顎を乗せて男を見つめ、愉しそうに微笑んだ。




