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武士 異伝  作者: 弁鳥有無
失われた神々
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玖拾弐  天秤の傾き


 武蔵を見下ろす女神の無慈悲な双眸を見たアチェロの背筋は凍り付いていた。春の暖かさなど何処かに消え去り、全てを凍てつかせる猛吹雪の如き厳しさが感じられた。しかしその瞳の奥には悲哀も含まれている、深い業を背負う異界からの放浪者への哀れみが。


「......あの、私も治してくれない?そろそろ死んじゃいそうなんだけど」


 今まで黙っていたアンシェラはそう言うと地面に蹲る。顔が土気色に変色、アンシェラもまた毒に侵されていた。


「そもそもアンシェラは何故生きているのだ?」


 複雑な感情を抱きながらアチェロが疑問を口にする。


「そこの、女神さ、まに救わ、れたのさ。私、だけじゃ、ないよ、ふん。あの、早く、なお、して」


 毒が身体を巡り口が廻らなくなってきたようだ。全身が痙攣を始めていた。どういうことなのかとアチェロが視線を上げると、女神は静かに目を閉じ口を開く。


「私も力及ばずとも抗っていたのです。狂乱の女神、彼女の意識の間隙を突き、貴方方にささやかながら力添えをしていました」


「......そうだったのですか」


「お、喋りは、い、いから、お、願い」 


 女神とアチェロの会話に割り込み、息も絶え絶えにアンシェラが懇願する。武蔵と同じように、冬の大地のような厳しいまなこでアンシェラを見下ろすヴェルキュリア。


「条件があります、蠍の子アンシェラ。貴女には私の償いの一端を担ってもらいます」


「な、、んでも、きくか、ら、早、く、死ん、じゃう」


 アンシェラの声がか細くなっていく。


「ならば私と誓約を結びなさい。残りの生涯を費やし我が娘、豊穣と慈愛の女神ヴェルキュリアの巫女ベルに仕える使徒となる、と」


「ほ、本、当は、嫌、ぜっ、たい、嫌、だ、けど、誓、う、ち、か、う......」


 限界を迎えたのか口から泡を吹き白目をむいていた。既に皮膚は生あるものの色をしていない。


「いいでしょう」


 女神が呪文を唱えるとアンシェラの体が光に包まれ、土気色だった肌が回復していく。氷漬けにされたような冷たさであった身体が、手足の隅々まで心地よい温かさで満たされる。

 アチェロとユーリが沸き上がる負の感情を抑えて見守る中、アンシェラの状態は見る見るうちに回復していく。程なくして眼球が動き上下左右を見て景色が揺れないのを確認すると、地面に手をつき、すぐさま起き上がった。足に力を入れ手の開閉を繰り返し全身に魔力を循環させ、己の体の状態を確かめる。手の甲で口を拭き、不快さと共に血と痰が混じった唾を吐き出した。


「凄いねぇ、こんなにも完全に治せるなんて流石女神様。アンシェラ感謝感激、じゃぁそういう事で、さようならぁ」


 早速誓いなど忘れてこの場を立ち去ろうとするアンシェラであったが、突如極限の痛みが全身を襲う。余りの苦痛に大地に身を投げ出すように倒れ、鎧と巌窟王を収める鞘が鈍い音を響かせる。悶絶しているアンシェラの顔に、光で組み上げられた複雑な紋様が浮かび上がっていた。


「誓約の刻印を刻みました。誓いを破ろうとすればそのように苦痛に苛まれ、誓いを破れば死に至ります。誓いとは即ち、ベルの元を離れず護り、命に従う事です。努々(ゆめゆめ)忘れなきよう」


 激痛にのたうち回りながら心の中で悪態をつくアンシェラであったが、今はただ痛みが去るの待つ事しか出来ない。優しく穏やかな色を取り戻したヴェルキュリアの双眸が己の足元を見る。横たわるベルの裸体が一度痙攣し、瞼が静かに開かれる。


「ねぇちゃん!!」


 目を開けたが視線が定まらないベルにユーリが声をかけた。アチェロがゆっくりと体を起こすベルに自らの上着を被せ優しく微笑んだ。


「......お帰り、ベル」


 アチェロは涙を流していた。ベルの虚ろだった瞳に光が灯り、目の前の男が誰かを思い出す。ヴェルキュリアの助力によって狂乱の女神と同化していた記憶までが蘇り、自分が置かれた状況を正しく認識していた。


「......ただいま、アチェロ」


 そう言って淡く儚げな笑みを浮かべたベルをアチェロは強く抱きしめていた。驚き躊躇していたベルの両手がアチェロの背に廻され優しく抱き返す。お互いを確認する二人の傍で、少年は嬉しさと嫉妬が入り混じった顔で佇んでいた。そんなユーリに気づいたベルは、アチェロの体から手を離し、少年の頭を両腕で包む。剥き出しの豊満な胸に抱かれたユーリは顔を真っ赤にしていた。喜びの再会を果たす三人をアンシェラは苦痛に耐えながら、苦虫を噛み潰したような顔で見ている。ベルたちを愛おしく見守るヴェルキュリアの青い瞳が、何かに気づいたように北西の空を見上げた。


「どうやら力あるまじない使いが複数こちらへ向かっているようです。急いでこの地を離れたほうがいいでしょう」


 狂乱の女神の結界が消え、探査を阻害する力が消失した事により、捜索の手が伸びようとしていた。女神につられるように三人も空を見上げた。


「......ヴェルキュリア」


 アチェロが女神の異変に気付く。ヴェルキュリアの身体が景色に溶けるように透けて、光に変換され始めていた。逆さに降る光の雨に包まれながらヴェルキュリアは愛らしいかんばせに苦痛を堪えるような表情を浮かべてベルを見る。ベルも瞳の奥に強い感情を湛えながら見つめ返していた。ヴェルキュリアは哀しそうに目を伏せる。


「私も再び眠りにつきます。赦してください、最愛の娘ベル。私の弱さによって貴女に途轍もない業を背負わせてしまいました。ですが、どうか生きてください。その重みに耐えかねて己の未来を摘み取るような真似だけは、どうか......」

 

 愛おしい娘の生を懇願する慈愛と豊穣の女神は、悔恨が積層する瞳で再びベルを見る。 


「私に遺された最後の力を貴女に託しました。勝手なお願いですが、この力で大地に還っていった人々の命を贖ってください。力なき弱き人々を救う一助にならんことを。ベルが愛する人の子ら、我が娘をお願いします。ベル、ベル......私を崇め続けた哀れな血族の末裔、愛しい娘、さようなら......」


 ヴェルキュリアは雲一つない蒼穹の空に、光の粒子となって消えていった。重く張り詰めた表情でベルは暫く見上げていたが、顔を戻しアチェロとユーリを振り返る。


「ありがとうアチェロ、ユーリ。貴方たちのおかげで私は戻ってこれた」


 微笑んだベルにアチェロは頷き、ユーリは恥ずかしそうに俯く。痛みから解放され立ち上がったアンシェラをベルの憎悪に染められた視線が貫く。


「そんな目で見ないでよベルちゃん。これからず~っと一緒なんだからさぁ」


 何も答えず睨み続けるベルに、アンシェラはやれやれと両手を上げ降参の手ぶりをする。女神とアンシェラの誓約を聞いていたアチェロとユーリも何とも言えない気持ちになっていた。

 漸く回復したのか、武蔵が膝を上げ緩慢な動作で立ち上がり、ベルたちに背を向け歩き出すがその足取りは重い。


「何処へ行く、ムサシ?」


 気づいたアチェロが問いかけるが、武蔵は振り返らない。満身創痍の状態ではどれ程の距離も歩けるとは思えなかった。


「我が剣、いまだ天に届かず」


 呟くように言い、それが挨拶とばかりに立ち止まることなく、そのまま歩き去っていった。


「行ってしまった......。感謝を言う暇もなかったな、それに異界からの放浪者とは......」

 

 武蔵の後姿が消えた方向を見ながらアチェロが言うと、ユーリも何かを含んだような顔で頷いた。アンシェラが嘲笑するような笑みを浮かべてベルを見る。


「私たちもさっさと逃げたほうが良くない?なんてったってベルちゃんは街一つを沈めた大虐殺者なんだから、あはっ」


「貴様っ」


「いいのアチェロ。アンシェラの言う通りよ。この場を去りましょう」 


 激高しアンシェラへ掴みかかろうとするアチェロをベルが止める。アチェロが射殺すように睨みつけるがアンシェラはどれ程の事も感じていないよう。青年はゆっくりと息を吐き出し感情を抑える。


「......分かった。急ぐぞユーリ」


 ユーリを促し、アチェロたちは文字通り逃げる様にエルボヌエルグを後にした。



 アチェロたち一行は隣国アインヴェルヘに向かっていた。おそらくエルボヌエルグの捜索に派遣されたのは軍の精鋭だろう。もし自分たちが、ベルが関わっていたと判断されれば面倒なことになる。見つからぬよう距離を稼ぐことが最優先とアチェロは考えた。先頭をアンシェラが行き、次いでユーリ、ベルと続きアチェロが最後尾を務める。

 少し前にエルボヌエルグのあった場所で大規模な探査魔法が発動したのを確認していた。飛竜隊や天騎兵が駆り出されていると推測されるので、万が一見つかった場合は口裏を合わせ白を切ると言うことを打ち合わせている。しかし何者かがこちらへ向かっている気配は感じられないので無事アインヴェルへに着けるだろうと踏んでいた。武蔵が助けた屋台の一家から情報が洩れるかも知れなかったが、それはもう考えても仕方がない。


 最後尾を歩きながらアチェロはこの数日の出来事を思い返していた。ベルが家族同然に暮らしてきた孤児たちは殺害され街は腐海に沈んだ。だがユーリと自分は生き残り、ベルは帰ってきた。ベルが自分の傍で生きている、今はそれだけでいい。そっと前を歩くベルを窺うが、蘇った嬉しさなど微塵も感じられない張り詰めた顔をしていた。悲壮とも言えるその表情に不安になるが、あれだけの事があったのだ、当たり前だ、とアチェロは自分を納得させる。

 ベルの事とは別にアチェロの頭に引っ掛かっているものがあった。何故武蔵は自分がベルを斬ってくれと叫んだ時に微動だにしなかったのか。圧倒的な力の前に恐怖で身体が動かなかったのかと思った。だが違う。あの異国の男は狂乱の女神そのものにも嬉々として挑んだのだ。不意に脳裏にヴェルキュリアの言葉と、武蔵に向けられた悲哀と困惑が混じる瞳が蘇る。女神は何と言った?「放浪者よ。貴方は恐ろしい人ですね」、確かにそう言った。恐ろしい?一体何が?疑念が確信に変わりアチェロは立ち止まる。


 まさか、まさか。あの男は神と戦うがために二万人もの人々の命を犠牲にしたというのか。

 思い起こせば武蔵がベルを止める機会は、あの時だけではなく幾度となくあった。その全てを自分は杞憂と流してしまっていたが、果たして本当にそうだったのか。アチェロは武蔵が歩き去った方へと振り返る。

 もしそうならば、あの男こそが人類の敵ではないのか。己の目的のために二万もの人命を天秤にかけ、いとも簡単に傾ける事が出来る、人のできる事ではない。だがあの男がベルを殺していれば、彼女は今自分の前を歩いていなかった。アチェロは煩悶する。何時だ?あの男は何時気づいたのだ?

 

 アチェロは初めて武蔵と会った時のことを思い出した。突然ベルが狂乱の女神に乗っ取られる触媒となった禍々しい真紅の首飾りをつけていた日の事を。あの男は如何なる理由でか首飾りを嗅ぎ付けベルへと辿りついたのだ。そして首飾りに何らかの力を感じ取りベルを泳がせた......。

 つまりあの時点で狂乱の女神降誕の原因となった首飾りを破壊していれば、今回の惨劇は起きなかったことになる。あの男は平然と街の民を己が目的の贄としたのだ。だからヴェルキュリアは言った。「恐ろしい人」と。この先幾度となく同じことを繰り返すだろう。人類にとっての厄災、生かしておいてはいけない。

 

 あの男は、武蔵は極度に疲弊している。翻って自分は情けない事だが、絶対領域に触れ伏していただけだ、力は十二分に残っている。今ならば、いや今しかない。

 一歩を踏み出そうした時。


「駄目よアチェロ。今の私たちではあの男に敵わないわ」


 ベルの言葉に瞠目するアチェロ。男が愛した女は全てを見通していた。アンシェラは沈黙して成り行きを見守っている。


「私にこのような重荷を背負わせたあの男......」


 ベルの身体を中心に禍々しい魔力が渦を巻き溢れ出ていた。突風が巻き起こり、アチェロらの身体が後方へと吹き飛ばされそうになる。


「絶対に許さない!!」


 見た事もない憤怒の表情を浮かべたベルにアチェロの背筋が凍り付く。何ということだ。アチェロは絶望する。この魔力、いや神気、これはまるで狂乱の......。


「駄目だよ、ねぇちゃん」


 少年の声が響いた。ユーリであった。


「ねぇちゃんにそんな顔は似合わない」

 

 風圧に耐えるユーリの顔からは子供の幼さが消え失せ、愛する女性を諫める男の精悍さが表れていた。暫し無言で見つめ合うと、ユーリを見るベルの顔から怒りが消え神気も消失する。


「......そうね、貴方の言うとおりだわ。......ユーリ、ほんの少しの間に男の人になったのね」


 少女に戻ったベルは優しくユーリの頬を撫でた。少年はくすぐったそうに目を細める。アチェロはそんな二人をただ見つめていた。


「ほらほら家族ごっこはそのへんにして早く行かないと見つかっちゃうよ。私はどっちでもいいけど」


 先頭を行くアンシェラが振り返りながら促すと三人は歩き出す。

 荒れた大地を行く四人の影が小さくなり、やがて消えた。

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