玖拾壱 豊穣と慈愛の女神 ヴェルキュリア
「天地の間で俺と鬼丸国綱に斬れぬものなど」
武蔵の気が爆発。
「無いっ!!!」
武蔵が吠えた。練りに練られ、束ねられた気が注ぎ込まれた鬼丸国綱が高次元結界を、そしてヴェルキュリアを斬り裂いていた。女神の白皙な顔の中央に縦の線が走る。その線は頭頂部を起点とし顔から首、首から胸へ腹へそして股間を終着点とした。
武蔵が放った鬼丸国綱による斬撃は狂乱の女神を縦に割り、ゆっくりと巨体が身体の中心線から左右に分かたれてゆく。アチェロが、アンシェラが、ユーリが己が目に映ったものを信じられずにいた。武蔵が、人が神に勝ったのだ、呆然とした半信半疑から勝利の確信へと変わろうとしたその時、女神の完全に分断された両半身が踏み止まり、大きく離れた二つの目が燃えるように輝くと武蔵を射殺すように見た。まだ終わってなどいなかった。
「おぉおのれぇぇぇぇぇ、神をも畏れぬ不届き者がぁあぁぁぁ」
ヴェルキュリアの二つになった顔は共に怒りに歪んでいた。
「我ら神々は元より高次の存在なのだ。肉体を斬られたぐらいでは滅びぬ。既に魂原界より物質界へと門は開かれた、存在核が多少傷つこうとも、次元回廊より流れ込む力でこの程度の傷などすぐに復元できるわ!!」
気道も肺も二つに分かれたにもかかわらず、如何なる故か怒声が轟き、神気が膨張、魔法式が展開を始める。闇色の空に円環の魔法陣が発現、暗雲渦巻く中心が円状に裂け、別次元に通じる門となる。その先には漆黒の闇の中に無数の光の螺旋が煌めいていた。女神の叫びに呼応するように開かれた次元より一条の赤い光がヴェルキュリアへと注がれ、縦に裂かれた身体の断面から光が溢れるが、それだけであった。何も起こらない。
「何故だ、何故復元せぬ?まさか......高位次元にある我が超弦体をも斬ったと言うのか!?」
超然としていたヴェルキュリアが狼狽えていた。武蔵は鬼丸国綱を構えたまま微動だにしない。
「......そんな、そんな馬鹿な。貴様、一体!?」
断面からだけでなく分割された肉体が光を発し始める。ヴェルキュリアは光に還元されてゆく己の両手を見据えると、何かに気づいたように虚空へと視線を上げる。
「いや、違う。これはお前の仕業か!!!何を、何を考えている!?人形に背かれ忘却の彼方へと追いやられた我を、お前まで裏切るというのか......もう一人の私を!!」
女神の分かたれた双眸には混乱があり、そして哀しみに変わる。口から吐き出されたのは慟哭であった。光は強くなり、肉体が分解される速度も上がっていく。
「このような処で......あと一歩、あと一歩で我らに背き貶めた人形の世界を我が腐海で沈められていたものを......おのれ、おのれぇええええぇぇ......」
恩讐の言葉を残し、やがて狂乱の女神は完全に光となり、そして宙に溶けていった。天を覆っていた暗雲は螺旋を描いて消滅。夜は既に明けていた。流れ込むように一陣の風が吹く。朝日に照らされる荒涼とした大地だけがあった。
狂乱の女神の神気が完全に消え去ったのを確認したのち、漸く武蔵は太刀を一振りしてから拾い上げた鞘へと納めた。皆が押し黙る静かな世界に納刀の音が響く。口を開く者はなく、勝利の余韻より喪失感が上回っていた。
「う......ベル、ねぇちゃん......」
少年の目から溢れる涙と嗚咽が、ひび割れた地面へと吸い込まれていった。
「ベル......」
空を見上げ佇むアチェロの口からも愛する女の名が零れ落ちた。そんな二人をアンシェラは肩で息をしながら冷めた目で見ていた。と、何もない空間に神気が収束し始める。途轍もない力。最大限に高まった神気は一転、解放され眩いばかりの光が辺りを照らす。
収まったそこにユーリらが目にしたのは、汚れなき純白の装束に身を纏い、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる巨人であった。其処に在るだけで凍てつく大地を溶かし若芽を息吹かせる春の暖かさ、そして母親に抱かれる赤子の様な安穏さを感じさせた。驚くべきことにその顔は狂乱の女神と瓜二つ。浮足立つアチェロとユーリ。
「そんな......蘇ったというのか?」
愕然とし、喉を鳴らしながら地面に零れ落ちたアチェロの言葉を巨人が拾う。
「いいえ、我が娘の想い人。私はヴェルキュリア。豊穣と慈愛を司るもの」
「どう......いう、事だ?ヴェルキュリア?」
混乱するアチェロを、あどけない我が子を見守る母親のように見つめる女神。人類に対する敵意など微塵もない、そこにあるのは生あるものを育み深く愛する心。その眼差しを受けてアチェロは全てを悟った。
「......貴女が、貴女こそが豊穣と慈愛の女神ヴェルキュリアなのですね。あぁ!!ヴェルキュリア!!貴女の敬虔な巫女が、何より私が愛した女性が一人命を散らしてしまいました。......己よりも他人を顧みる心優しき女性でした。何故、何故彼女がこのような事に!!」
アチェロの叫びにヴェルキュリアはゆっくりと頷くと
「分かっています。安心しなさい、人の子よ。ベルはここに在ります」
女神が瞑目し両手を広げると足元に光が集い始め、時と共に厚みをもっていく。光は形と色を持ち始め、やがて一糸纏わぬベルが大地に横たわっていた。豊かな胸が上下している、生きていた。
「……おぉ!!!おぉ、女神よ!!!」
歓喜の声を響かせてアチェロは跪き、頭の上で両手を組んで拝んだ。ユーリは呆然とし、ふらふらと覚束ない足取りでベルへと近寄っていく。アンシェラはばつの悪そうな顔で、武蔵だけが表情を変えず、眺めていた。
「砕け散った魂の欠片を集めておいたのです。これはもう一人の私の暴走を許してしまった、せめてもの償い」
胸に両手を当て、悔恨を述べる女神の言葉に顔を上げるアチェロ。
「......女神ヴェルキュリア、貴方は今もう一人の私とおっしゃいました。街を、人々を腐海に沈めたあの女神は一体何だったのですか?」
アチェロはかねてよりの疑問を女神に問うた。ヴェルキュリアは瞑目し数秒の後、開眼すると口を開き語りだした。
「......遠い遠い昔、私は豊穣と慈愛の女神として崇められていました。私は人類を愛し、人々もまた私を尊崇していました。穏やかな時は風の様に過ぎ去り、ある日、戦が起こりました。神々と人類との永く大きな戦。苛烈な戦いの末、私は敗れ肉体を失いました。更に時は流れ人々の記憶からも消し去られた、二度目の死を迎えたのです。私は寂しく悲しかった。そして心の片隅に闇が生まれました。我々を裏切り滅ぼした人類への憎しみ。始めは胎児のように小さかったそれは永い永い時の中で強く大きく育っていきました。私が制御出来ない程に。それがもう一人の私、貴方たちが見えた、人類に果てしない憎悪を抱く狂乱の女神......」
アチェロは言葉もなかった。汗を浮かべたアンシェラが皮肉な笑みを浮かべて女神を見る。
「分かっています。私の弱き心がこのような惨劇を招いてしまったことは弁解の余地はありません。だから私が出来ることをします」
そう言うと慈愛に満ちた碧眼が目を覚ます気配のないベルを捉え、次いで武蔵を見た。憐憫とも困惑ともとれる表情が女神の顔に浮かび、すぐに何処かへと去っていった。
「放浪者よ。貴方は恐ろしい人ですね」
アチェロもユーリもアンシェラも女神の言葉の意味が分からなかった。武蔵だけは理解しているのか無言で受け止めていた。
「不肖な身なれど私も神々の末席に名を連ねるもの。その私の半神を斬ったことで貴方の太刀には神殺しの力が付与されました」
「神殺し......」
左手に持つ鞘に納められた鬼丸国綱を検める様に胸の前に掲げる。
「貴方は上位の存在に抗する術を持ったという事です」
太刀を腰に戻すと女神を見上げる。
「女神ヴェルキュリアよ、一つお尋ねしたい。俺が日の本より、この地に跳ばされたは何かしらの因があるのか」
「放浪者、神に挑むものよ、残念ながら私はその答えを持ち合わせておりません」
「そうか」
言った瞬間、武蔵の体が揺れ、大地に膝をつく。着物から露出する皮膚が黒く爛れていた。ヴェルキュリアを斬るべく全ての気を注ぎ込んだことにより、抵抗する力を失った体に毒と細菌が廻ろうとしていた。口からは吐血。狂乱の女神の置き土産により武蔵の命は風前の灯であった。意識が深い闇に呑まれようとするも、温かな光が武蔵を包み踏み止まらせる。重い頭を上げると、全てを凍てつかせるほど透き通った蒼穹の瞳があった。そこに慈愛はなく無感情の海が何処までも広がっている。
「貴方に思うところはありますが此処で死なせるわけにはいきません」
女神の解毒魔法と抗体魔法が武蔵を死の危機から救っていた。黒ずんでいた皮膚は見る見るうちに色を薄くし、肌色を取り戻す。鉛のように重かった身体が徐々に軽くなっていく。回復魔法は対象者の魔力を必要とするが、今の武蔵には僅かも残されていない。にもかかわらず魔法は発動し、武蔵の体は回復した。
「魔力が残っていなかったため、命と引き換えに貴方には代償を払ってもらいました」
断罪の沙汰を下す法官の如き冷徹な声が響く中、 朧げな意識の何処かで何かに亀裂が入るような音がした。それは致命的なものだとわかった。精も根も尽き果てた武蔵には、片膝をついたまま回復を待つ事しか出来ない。




