玖拾 神と敵対するもの
狂乱の女神は地面に埋没したまま身動ぎ一つしない武蔵を見下ろすと、一瞬何とも言えぬ表情を創り、左足を掲げた。踏み潰すべく下ろそうとするも蒼穹の眼球が横にずれる。
「ねぇちゃん!!ねぇちゃんなんだろ!?」
少年の声が響き、気が削がれたのかヴェルキュリアは掲げた足をゆっくりと元の位置に下ろした。ユーリであった。アチェロに自分たちの戦いを見届けてほしいと頼まれ、観戦していたが居てもたってもいられなくなり駆けつけてしまったのだ。
絶対領域に囚われたにもかかわらず何事もなく立っている少年は、見上げるほどの頭上にあるベルと瓜二つの女神の顔を見て立ち竦む。覚醒して日が浅いユーリは、魔力がない状態が日常的であった。故にアチェロやアンシェラの様に、魔力があるのが恒常化した状態から突如消え去った事により脳が混乱を起こし、運動機能の低下と言った酩酊にも似た様態にならずに済んだのだ。
「何故来た!?逃げろ、引き返すんだ!!ユーリ!!」
アチェロが叫ぶ。ヴェルキュリアは深い底に在る記憶を掬い上げる様に遠い目で少年を見据えた。気圧されたように数歩退くユーリ。
「......汝はユーリであったか、ベルの想い子。疾く失せよ。されば僅かだが命を長らえることが出来よう」
一瞥すると興味をなくしたのか未だ動く気配の無い武蔵へと視線を戻す。それだけの出来事であったが少年は悟ってしまった、自分が母のように姉のように、そして一人の女として慕っていたベルが最早いないことに。知らず涙が溢れる。
「......違う、お前はねぇちゃんじゃない。ベルねーちゃんを何処にやったんだよ、返せ、返せよ、ベルを返せ、化け物!!!」
女神は癇癪を起こす我が子を見る母親のように泣き喚くユーリを見つめると
「世界が壊れゆく様を見せるのも酷と言うもの。今その命の灯を吹き消すのも慈悲」
言って呪文を唱え始める。
「逃げろ、逃げるんだユーリ!!」
ベルが残した最後の家族であるユーリまでも失うわけにはいかない。思うように体が動かないアチェロはただ力の限り叫んだ。女神の威容に呑まれていたユーリは、その声を受けて正気づくと踵を返し逃げ出す。
「もう遅い 七大土膿蛇金地銀尾」
ヴェルキュリアによる魔法が発動、七体の巨大な蛇が大地に描かれた魔法陣より現れると空高く鎌首をあげユーリへと襲い掛かる。ほぼ同時に飛来した石礫が女神の装束に衝突するも勢いをなくし、鈍い音を立てて地面へと落ちる。
集中を削がれた事により七体の蛇は大きく逸れ、ユーリを捕らえ損ない大地へと激突してしまう。大蛇が復元する気配はなく、ヴェルキュリアが石礫を投擲したものを見下ろす。揺らめく陽炎のように異邦の剣士が立ち上がっていた。顔は赤に染まり、着物は破れ、満身創痍。肩を震わせ、歪んだ口からは血が滴り落ちる。
「くっく、そうでなくてはならぬ......。仮にも神を名乗るものが容易く人の手の届く存在であってよいはずがない。この恐怖、この痛苦こそが我が望み」
低いがよく通る声が静まり返った辺りに響く。ユーリは九死に一生を得て腰が抜け、アチェロは動かぬ体のまま呆然としていた。ヴェルキュリアを見上げる武蔵の目には畏れ、そしてそれを上回る狂喜の光。その眼差しを受けた女神が眉を顰め、初めて厭わし気な表情を浮かべる。
「死にぞこないの戦狂いが、遊戯の時は終わりを迎えた。滅せよ」
女神は左足の足刀を武蔵目掛けて撃ち下ろす。
巨体に似合わぬ、高速の蹴りが武蔵へと迫る。直撃したかに見えたが、女神の足は武蔵を通り抜けていた。風圧だけで砂塵が舞い上がる。ヴェルキュリアは足を引き、軸足の重心移動で先ほどよりもさらに速い速度で撃ち出すが、またも武蔵を捉えられない。紙一重で攻撃を見切った武蔵は伸び切った女神の足を駆けあがり跳躍。ヴェルキュリアの蒼い双眸と武蔵の黒い双眸が同じ位置で交錯。
「応!!!」
どれ程の打撃を受けようと決して離すことのなかった鬼丸国綱を両手で握り、女神の額目掛けて振り下ろす。咄嗟に庇った左手を手首ごと斬り落とした。滝の様に零れる真紅の血と共に落下した武蔵は、女神の右手の拳打を成す術なく正面から受け吹き飛ばされるが姿勢を崩すことなく大地に着地する。不完全な体勢での打撃であったため威力は減衰していた。
手首から溢れ出ていた血が早くも止まるのを見ていた武蔵は二つの事を確信した。先ず不意打ちなど意識の外からの攻撃には結界が作用しないと言う事。二つ目に如何に女神とて結界を纏ったままでは攻撃することは不可能だという事、即ち打撃を躱し内に入った斬撃ならば通用すると。しかし、であるならば今の一撃で致命傷と言わずとも深い傷を負わせられなかったことは痛恨の極みであった。何故ならば
「重ねて見事だ。放浪者よ。まさか我の動きを見切るとはな。無為に何度も我が攻撃を受けていなかったと言う事か」
攻撃の隙を衝かれ手首を斬り落とされてもヴェルキュリアから余裕が失われる事はなかった。
「汝の考えている通り、体術の真下では我とて結界を張る事は出来ぬ。故に今の様な失態を犯す。だが」
何故ならば女神は体術による近接戦闘から魔法による中、遠距離攻撃へ移行すると予想されるからだ。そうなれば武蔵の唯一の勝機は女神が呪文を詠唱している間に距離を詰め鬼丸国綱を斬りつけるのみとなる。距離が空いた今の状況は不利、武蔵が踏み込もうと軸足に力を込めるも、見計らったように女神の口が開かれる。
「豊穣の大地よ 我が誉となれ 豊穣泥濘水穀物」
地面に落ちていた彫刻の如き手首が触媒となり、何らかの魔法が発動。波紋が生まれ一瞬で泥濘と化した大地が武蔵の足を捕える。間を置かず足元へと鬼丸国綱を走らせ女神の魔法を斬り裂くが詠唱を許してしまう。危惧した通り女神は己の体を使った体術から魔法攻撃へと切り替えてきた。
「ロウレリ ロウレリ 我は言祝ぐ 往古より来今まで愛を紡ぐ 星辰の光に照らされし清浄な大地に 天より無垢なる水を注がん 豊穣女神祝福誉」
女神の足元に魔法陣が展開、毒々しい気体が発生。距離を詰め、今にも斬りかかろうとしていた武蔵目掛けて黒紫色の瓦斯が襲い掛かる。鬼丸国綱が一閃。瓦斯が蒼い光を散乱させ消失。距離を縮めようとするも、今度は七体の大蛇が武蔵を阻む。更には瓦斯が再び発生、近づけない。失われたはずの左手も復元していく。幾つもの魔法が同時に発動していた。
「そんな......何故複数の魔法を同時に使う事が出来るんだ......?」
息を呑み、神と人との戦いを傍観していたアチェロが武蔵の疑問を口にした。
「人形の衰退も激しいと見える、我が手を下すまでもなく滅びの日も近いのかも知れぬな......。冥府への土産に教えてやろう。福音魔法言語だ。複数の意味が込められた言ノ葉を用いることで一度の詠唱で魔法を並行展開できる。このようにな」
幾度もの打撃の損傷と疲労で息が上がり始めた武蔵に、女神が元通りになった左手を開いて見せる。武蔵は遥か頭上にある女神の顔を検める様に注視し思考する。ヴェルキュリアの力の根源は眉間にあるのではないか、魔法が発動する時、神気を高める時、常に眉間に気が集中していた。左手と違い眉間、或いはそれに近い場所では損傷を受けた場合、復元出来ないのではないか。だからこそ女神は左手で庇ったのだ、武蔵はそう推測していた。
「さぁ足搔いて見せよ」
女神の言葉と共に複数の魔法が武蔵を襲う。腐食性瓦斯を斬り、大蛇を断ち、女神へ迫ろうとするも斬りつけた傍から復元し切りがなかった。
「うわあ!!」
悲鳴に目を向ければ、少年が大蛇に狙いをつけられていた。大きな口に呑まれる間際に太刀を振るい蛇を両断してユーリを腕に抱きかかえ後退。足元から女神の気が感じられ、大きく横に飛ぶ。分断した大蛇の残骸が爆散、命あるものを喰らい尽くす細菌魔法が発動する。避けきれぬと見た武蔵は刀を振るい無効化するが、そのたびに少なくない気を消費していく。一方女神の神気は底知らず、魔力の量、魔法力では勝負にならない。
何とか女神の魔法を凌いでいる武蔵であったが完全に躱しきれている訳ではなかった。手や足、胴体の皮膚は変色し爛れている。武蔵の全身に巡らされた強大な気が、毒や細菌に対し大きな抵抗となって押し留めているだけで、このままでは何れ侵されてゆくのは時間の問題であった。少しづつ追い詰められている事を認識する武蔵であったがヴェルキュリアまでもう一手足りない。攻めあぐね、戦況は悪化の一途をたどっていた。悪戦苦闘する武蔵を尻目に、女神は瞑目し両手で手印を組む。
「オーデヌ・オーディ・ヴァーィ・アヴァド・ンゥ」
女神の詠唱と共に額に神気が集中し嘗てないほど膨れ上がっていく。大地に現れた魔法陣は一瞬で武蔵達を飲み込み、エルボヌエルグを超える範囲で展開。呼応するように黒雲渦巻く天空にも魔法陣が展開される。
武蔵の背を悪寒が走る。あれを発動させてはならぬと本能が激しく警告する。だが大蛇が、瓦斯が、大蛇の残骸に仕込まれた細菌魔法が行く手を阻み、女神にあと一歩のところで届かない。聞く者の魂を震わせるようなヴェルキュリアの歌声にも似た詠唱が高らかに歌い上げられる。神の力を目の当たりにし石化したように固まるユーリを腕に抱いたまま武蔵は機を窺う。アチェロもまた悲鳴を喉の奥で飲み込み固まっていた。
見渡す限りの大地がどす黒く変色し泡立ち始めると共に鼻が捥げる様な異臭が漂いだす。空の魔法陣からも何やら得体の知れぬ濃霧が発生しつつあった。世界の果てまで届くような轟音と、立っていられないほどの大地の震動が起こり始める。
「地よりなるものは我が長子 我が血肉なり 闇より深き穢れの王よ 産褥の大地を我は願いたもう 古きは灰燼に帰し 新しき世界の門を開かん 負界の種子をこの地に撒き散らせ 創滅大腐新造世海造消界」
まずい、詠唱が終わる。いくら鬼丸国綱といえど、あれを斬ることは出来ぬ。何か手はないものか、何か......。腕に抱えたものの重みを感じると共に、ユーリの登場で女神の動きが止まり、九死に一生を得た先ほどの光景が脳内に蘇る。武蔵は迫る世界の終焉に零れ落ちそうなほど目を見開き、顔面を蒼白にしている少年に向かって叫んだ。
「娘の名を呼べぃ!!」
気が込められた武蔵の大声に神の呪縛が解け我に返るユーリ。僅かに遅れて言葉の意味を理解する。
「ベルねぇちゃぁぁぁぁぁぁん!!!」
声の限り、命の限り、遥か星の彼方まで届けとばかりにベルの名を呼んだ。刹那、狂乱の女神の憎悪に燃える瞳が虚ろとなる。
少年の魂の慟哭ともとれる叫びが、瞬き一つほどの時間であったがヴェルキュリアの活動を停止させていた。狂乱の女神を降誕させた事により、砕け散ったベルの魂の欠片に確かに届いたのだ。生まれ育った街区を少しでも良くしたいと奮闘した少女と、それによって救われた少年との絆は神でさえも断ち切れず、極微の糸で繋がっていた。一瞬とは言え人の繋がりが神の力を上回ったのだ。
神気の供給が途絶え、超巨大魔法陣が瓦解、応じるように天空のものも消失していき地鳴りと地響きも止む。
「つええいぃ!!!」
ベルとユーリの絆が齎した奇跡ともいえる間隙をついて武蔵の体は宙に有った。少年を放し鬼丸国綱の鞘を大地に突き立て、それを支えにして遥か天へと跳躍。鬼丸国綱がヴェルキュリアの核があると思われる頭部へと振り下ろされようとしていた。だがそれよりも僅かに早く、何処かに残っていた少女の魂を今度こそ完全に消し去ったのか、蒼穹の瞳が人類に対する恩讐の光を取り戻す。ベルの縛鎖を破ったヴェルキュリアの高次障壁が展開された。鬼丸国綱と結界が衝突し、紫電が発生。激しく蒼い火花を散らす。
「無駄だ。我が結界はこの物質界はもとより星幽界を超え、更なる高次元にまで及んでおる。物質界に囚われた汝如きの力では破れぬ」
瞬時に己に起きた状況を理解したのだろう、女神が苦々しく口を開く真下、突如足元の地面が盛り上がる。腐海となりかけた土を押し退けて巨大な白銀の円錐が斜めに出現し、狂乱の女神の結界と衝突。
ヴェルキュリアが纏う不可視の障壁に幾何学模様が踊り、円錐の切っ先が触れた傍から錆に変わっていく。その体積の殆ど全てを錆に変えながらも尖った切っ先が遂に結界を突破、純潔の肉体へと突き刺さる。驚愕の表情を浮かべ、己の足元を見るヴェルキュリア。そこにあったのは汚泥に呑まれたはずのアンシェラが疲労困憊で巌窟王を大地に突き刺す姿。
「な!?」
女神の結界が僅かに緩んだ。勝機。今を逃せば最早女神を斬る機は訪れぬと考えた武蔵は、全身を震わせ渾身の力を太刀に込める。今迄以上の大きな紫電が発生、あまりに眩い光が人と神の影を焼く。
「無駄だと言った筈だ。人形!!!」
ヴェルキュリアの神気が膨れ上がり、鬼丸国綱が押し戻されてゆく。ユーリが、アチェロが、アンシェラが、見ていた誰もが思った、やはり人では神に勝てないのか、世界はこのまま終わるのかと。だが、ただ一人そう考えていない者の犬歯を剥き出しにした口から吐き出されたのは、己と愛刀の全存在を懸けた魂の言葉。
「天地の間で、俺と鬼丸国綱に斬れぬものなど」
武蔵の気が爆発。
「無い!!!」
武蔵が吠えた。一際激しく迸る白光。次の瞬間女神の体は眉間から股間まで分断されていた。




