捌拾玖 狂乱の女神
その部屋には花を象徴化した色鮮やかな柄の刺繍が織り込まれた絨毯が敷かれていた。乳白色で仕上げられた壁は落ち着きがあり、一点の曇りもなく一流の職人の手によるものである事が伺われる。瀟洒でありながら華美ではない空間で、若い男が絹でできた純白の寝間着を羽織り、精緻な飾りのついた窓から空を眺めていた。長い金色の髪から覗く横顔には情事を終えた後の様な倦怠感があった。
「分かるかい、スピート。微かにしか感じられないのに世界を包むようなこの魔力、ぞくぞくするね。何かが、僕が思うに、恐らく神々の一柱が復活したんだ。エルボヌエルグは昔、慈愛と豊穣の女神を崇めていたからね」
男の口が動き何やら唱え終わると、掌の上に光の線で描かれた手毬程の球が発現し、国を表す薄い影のある一点が一際輝いていた。「ほら」と言って手を掲げたまま振り返った男の顔には二十に届かぬ少年の面影があった。部屋には男以外の人間は見当たらない。寝台の上に黒猫が貴婦人のように優雅に寝そべっているばかり。細い首には中央に赤い石が嵌め込まれた美しく荘厳な飾りがかけられている。
「みんな、ビックリするんじゃない、神様が本当にいたのかって。人間は短命だから昔の事なんかすっかり忘れてるんでしょ?」
男の言葉に何処からか少女の声が返ってくる。掌の上にあった光球は薄い光となって消え、青年は再び空へと視線を戻す。
「だからこそ人類は文字を発明したんだ、そうすれば後世に、より確実に、より正確に遺せるからね。あの辺の国では口伝や文献の伝承が意図的に消された形跡があるんだよ」
「あいつらの仕業ってわけね。あたし、あいつらきらーい。......ねぇねぇ、そのエルボ何とかって街、強力な結界に覆われてて中で何が起きているのか、まるで分らないよ」
部屋には男しかいない、しかし少女と思しき人物との会話が成り立っている。不可思議な光景であった。
「そうだね。僕たちのような目敏い人間対策なんだろうね。結界から零れるこの魔力を、一体どれだけの人間が正確に感じ取っているのかな......今頃教会の老人達は大慌てしてる事だろうね」
虚空を見つめる男の蒼穹の双眸には蔑みの光、そして声には揶揄する響きがあった。
「ディーチィー、どうすんの?」
「どうもしないよ。エルボヌエルグとは距離があるんだ、直接の被害はない。出てくるとしても少し先の時間の話さ。何より僕たちが出ていったら国際問題になるよ。イルティアのお偉方がどう動くのか、見ものだね」
「あの国は機能不全を起こしつつあるんでしょ?誰も気づかないまま滅びちゃうかもよ」
「それはないよ、どんなに国が傾いても優秀な人材はいるからね。問題は彼らが隅に追いやられて力を発揮できない事なんだ、だから仮に何とかできたとしても大変な被害を被るだろう」
「女神様の降誕がイルティア崩壊の切っ掛けになるかもねー」
ディーチーと呼ばれた男は答えず、物憂げな瞳でエルボヌエルグの方角を見ながら己が思案に没していた。
「......これは始まりに過ぎないのかもしれない。老エッダの呟きにある混沌の時代、神々の運命さえ翻弄するような......もしかしたら僕たちは後世で語られるような時の流れの中にいるのかもね」
「伝説の時代?格好いい!!当然あたしとディーチィーが主役よね」
「二つ目の神話、そう呼ばれるかも知れないよ」
遥か彼方の空を見上げたままディーチィーは微笑んだ。
アンシェラの最期を目の当たりにしたアチェロの思考は乱れていた。ベルが女神降誕の器となってしまった原因の一つは間違いなくアンシェラにあった。幾つかの要因はあったにしろ、最後の一押しをしたのはアンシェラだ、憎い、殺してやりたかった。貧民街に火を放ち、関係があった街の住人を虐殺してベルを追い詰め、結果エルボヌエルグは腐海に沈んだ。憎んでも憎みきれない相手だ。そんなアンシェラが恐らくだが、武蔵が意識を取り戻す時間稼ぎのために魔力を失った身でありながら命を懸け、呆気なく汚泥に飲み込まれてしまった。地面は平らで見る影もない。
「ふむ。アチェロと言ったか、図らずとも汝の願いを叶えてしまったようだ。そなたはどうするのだ?」
アンシェラが最後にとった行動で思考が散乱しているアチェロの遥か頭上から、女神の言葉が天啓の如く降り注ぐ。青年は女神を見上げた。
「......女神ヴェルキュリア、一つだけお聞かせ願いたい。ベルはどうなったのですか?......貴女の中で生きているのですか?」
「おぉ、アチェロよ。ベルの愛しい男よ。残念至極、ベルの魂は我らを降誕させた際に砕け散ってしまった......人形の身では神の器とはなりえぬのだ。もう何処にもいない、何処にも。あぁベル、世界から消し去られた我らを最後まで忘れなかった哀れな血族の末裔、最愛の娘、赦しておくれ、赦して......」
己の体を抱き、狂おしいほどに赦しを請うヴェルキュリアの碧い双眸は深い悲哀を湛えていた。大地が、大気が女神の哀しみに染められたように色を失っていく。アチェロには女神が今にも泣きだしそうに見え、心の底からベルを悼んでいるように感じられた。ヴェルキュリアが伏せていた顔を上げる。
「我らにこのような苦痛を与える人形が許せぬ。愛しい娘をも犠牲にしなければならぬ、この怒りの苛烈さを思い知るがいい」
女神の哀しみが人類への憎悪へと転化する。憤怒の炎が灯った瞳で射すくめられたアチェロは今度こそ死を覚悟した、しかし女神による断罪の刃が落ちてくることはなかった。
「ふむ、生きていたか、しぶといものだ。のう、異界からの放浪者よ」
ヴェルキュリアの視線の先に、徐に立ち上がる異邦の剣士の姿があった。右手に刀を握ったまま、埃塗れになった顔を上げると黒い双眸が爛々としていた。その様を見たアチェロは絶句する。この男はあれほどの差を見せつけられながら、まるで闘志を失っていない、まだやる気なのだ。言葉もないアチェロが見守る中、武蔵はヴェルキュリアと対峙すると口を開いた。零れた血が大地を赤く汚す。
「あの程度の当て身では俺を屠る事かなわぬ」
武蔵の言葉を受けた女神の口が愉しそうに歪み、全身から大きな神気が溢れだす。
「そうか、では少しばかり本気を出してやろう。見事受け止めて見せよ」
女神はたった一歩で武蔵との距離を縮めると、右足の親指を突き出して蹴りを放った。武蔵はその攻撃を避けようとも躱そうともせず、両腕を交差させ正面から受ける。凄まじい速さで丸太の様な大きさの指が武蔵の体を打つ。息を呑んで嘱目するアチェロの脳裏には、勢いよく武蔵が弾き飛んでいく様が鮮明に映し出されていた。だが現実は違った。武蔵の体は数歩下がったのみで踏み止まる。己の六倍はあろうかと言う巨人の一撃を受け止めたのだ。
武蔵はそのまま指を抱え、持ち上げようと全身の筋肉を瘤の様に膨らませる。己の打撃が受け止められた事に微かに驚きの表情を浮かべたヴェルキュリアであったが、余裕が失われることはなかった。その女神の顔色が変わる。足を引こうとするが動かない。
「ぬおぅ!!!」
武蔵の気が練り上げられ腕へ足へと伝わり、更なる剛力へと変換される。その刹那、ヴェルキュリアの左足は地を離れ右足の指を抱える武蔵へと撃ち込まれていた。武蔵は十字に腕を交差させた姿勢のまま、大地に深い爪跡を残しながら五十歩ほど退かされる。
「我は言祝ぐ。豊饒の大地よ、我が手足となれ」
ヴェルキュリアが開いた左手を前に突き出して左から右へと線を引き、右足を踏みつけると地面に波紋が生まれ、武蔵の真下の土が盛り上がり巨人の足となって突き上げた。思いもよらぬ方角からの攻撃にまともに喰らい打ち上げられてしまう。女神の巨体がゆっくりと純白の装束を棚引かせながら舞うように動き、落ちてくる武蔵へと肩を入れた右の縦拳が撃ち出される。直撃する瞬間、踏み込んだ右足の膝を抜く。先ほどの再現であったが威力が違っていた。放物線ではなく直線で吹き飛ばされた武蔵の体は、轟音をあげて大地に減り込んでいた。
「......」
言葉もなかった。武蔵が女神の右足を止めたとき、もしかしたらいけるのではとアチェロは思った。武蔵の魔力が高まり、女神の顔色が変わった時その思いは更に強くなっていた。だがそれは幻想に過ぎなかった。魔法を使わず体術のみで武蔵を圧倒する力。これ程の力を持つ存在を、一体誰が止めることが出来るというのか。誰が倒せるというのか。アチェロは確信する、世界はそう遠くない未来、腐海に飲み込まれるだろう。
狂乱の女神は武蔵へ向けて一歩を踏み出す。その前進を止めることが出来る者はこの場にはいない。




