捌拾捌 彼我の差
「肉体と精神と魂魄が僅かに歪み重なり、淀んでおる。それが神の枷から外れる道理か。だがその肉を構成するのは紛れもなく人形のもの......」
女神は武蔵の深奥を覗き、口に出して確認するように言った。絶対領域に囚われたアチェロとアンシェラは耳を傾ける事しか出来ない。
「異形のものよ。汝、この世界のものではあるまい。忌まわしき来訪者でもない、なにものぞ?」
ヴェルキュリアの澄みきった湖のような蒼い二つの瞳が武蔵を興味深げに見据える。その視線を畏れなく受け止めた異邦の剣士の漆黒の双眸が刃のように鋭く光った。
「......俺は放浪者よ。強き力を求め、より強き兵を求め、この地に参った」
ヴェルキュリアの若さと老いが入り混じった笑い声が闇を切り裂くように響く。
「ふふ、面白きことを言う。......よかろう、異界よりの放浪者よ。神の一柱たる我に何処までその技が通じるか試してみるがよい。精々足搔いて見せよ」
女神は愉快そうに目を見開いて武蔵を見ると、たおやかに手印を切った。
「腐れ廃れよ、大地を侵し、大気を犯さん 大地より生まれしものは穢れとなり水は汚濁となって汝の敵となれ 腐瓦海黒斯紫食菌」
武蔵が詰めるより前に呪文が唱え終わる。ヴェルキュリアの足元から渦巻くように黒紫色の瓦斯が発生、爆発的に膨れ上がり大地を腐らせながら神に敵対する者めがけて襲い掛かった。気が込められた鬼丸国綱が一閃、周囲の腐食性瓦斯が光の粒子へと変換し、並外れたその無効化能力が女神の足元まで及ぶかに見えた。しかし瓦斯は無尽蔵に発生し続け、押し戻すように再び武蔵へと迫る。
「ぬぅ!!!」
丹田に貯めた気を背骨に沿って昇らせ腕へと伝い、鬼丸国綱に注ぐと気合とともに振り下ろす。前方を覆いつくしていた黒い空間が断たれ、光の雨が散乱し、今度こそ瓦斯は完全に無効化された。武蔵と鬼丸国綱は神が放った魔法さえも斬り裂いたのだ。女神は僅かに表情を曇らせながら、武蔵の技量を測るように見つめていた。
「二万に満たぬ贄ではこの程度か。とは言え、大したものよな、その力。強き敵を求め異界を渡ったというのも強ち嘘ではないようだ」
神と人との戦いをアチェロはただ呆然と見ていた。見ている事しか出来なかった。アンシェラもまた同じであったが、アチェロと違ったのはより深く今の攻防を理解できたことだ。先刻ベルが放った腐食性瓦斯と全く同じものであったが込められた魔力が桁違いであった。質も量も大きく異なるその魔法を、何とあの異邦の剣士は斬る事によって無効化したのだ。只者ではないと思っていたが、まさかこれほどとは。己にも同じことが出来たかという問いに答えは出ず、強く噛み締めたアンシェラの口からは音が漏れる。
ヴェルキュリアが攻め、武蔵が防いだ。一見互角のようにも見えた攻守であったが、実は違っていた。常に泰然自若としていた武蔵の額からは汗が流れ、僅かに息が乱れていた。対して女神に力の減衰は見られない。先を制するように武蔵が動く。踏み込み様、女神の大理石の如き滑らかな肌を持つ脛に斬りつけた。足の前の空間で紫電が発生、弾かれてしまう。反撃を見越してすぐさま構えなおすがヴェルキュリアは動かず、微笑みを浮かべながら武蔵を見下ろすのみであった。
「これは......結界か」
思わず武蔵が呟く。刀を持つ手には重い痺れ。来訪者の娘アナイスとの戦いの記憶が蘇る。
「そうだ。神が纏う神威、高次障壁だ。生半な力では破壊すること適わぬ」
女神の言葉を聞いて武蔵は思考を巡らす。アナイスとの戦闘を振り返れば、結界はより強い気で斬り込めば破壊することが出来る。だが今の手応えからして来訪者の結界を下回る事はないと感じられた。とすればどれ程の力であれば高次障壁とやらを打ち破れるのか。
「我は呼びかける 汝、腐れる大地より生まれし千年の蛇よ 古き塩の盟約により銀の毒とならん」
再びヴェルキュリアの薄紅色の唇が上下に開く。詠唱する姿には武蔵の攻撃への備えなど全く見られない、自らが纏う結界への自信、余裕が伺えた。足元には魔法陣が展開。腕の痺れの回復を待つ武蔵は女神の詠唱を見守る事しか出来ない。
「七大土膿蛇金地銀尾」
光輝く大地から女神の巨体に等しい大きさの泥濘で創られた七体の蛇が鎌首を持ち上げ、獲物を定め襲い掛かる。容易く己を一飲み出来るほど口を開けて迫る一体の大蛇を、漸く回復した腕を振るい鬼丸国綱で両断。青い光を散乱させ消滅しながらも、泥濘の残骸が着物の袖を掠め忽ち穴が空く。
「その蛇には毒があるよ!!!精霊銀を錆びつかせるほどの毒がねっ!!」
地に屈しながらアンシェラが大声をあげた。残る六体の大蛇が複雑な楕円軌道を描きながら武蔵を顎に捉えようとする。余りの巨大さに、武蔵の視界が土色に染まる。二体の動きを正確に見切り、寸毫の差でかわしながら巨木の様な胴体を両断するも、泥濘が着物に付着し溶かしてゆく。他の大蛇は武蔵を捕らえ損ない地面に激突、頭部を潰しながら何事もなかったかのように再生する。
まずい、武蔵と大蛇の戦闘を見ていたアンシェラは思った。ベルの時とは大蛇の動きが違い過ぎる。数倍は大きくなりながら動作はより鋭く速い。このままでは正面から攻撃を受けることはないにしても、身体の何処かに触れられるのは時間の問題と思われた。それだけでいいのだ、そうすれば接触した部分から毒が廻ってゆく。アンシェラは武蔵の身を案じているわけでは無論ない。だが己の命と武蔵の勝敗が直結している今、憂慮せざるを得なかった。
残った四体がゆらゆらと大きな頭を振りながら武蔵を喰らおうと機を窺っている。アンシェラが対峙したときは倒してもすぐさま再生したが、武蔵が屠った三体が大地から現れる気配はない。再生出来ないのか、女神が敢えてそうしないのかアンシェラには分からなかった。大蛇の後方に目をやればヴェルキュリアは微笑みを浮かべながら愉し気に観戦していた。その様を見れば嫌でも分かる、後者だ。女神は遊んでいるのだ。
四体の大蛇が動く。二体ずつ左右に分かれ挟撃、更にヴェルキュリアの背後から再生された三体が武蔵目掛けて襲い掛かった。前方と左右からの七体の攻撃を避けるには後方しかない、だが武蔵はそうしなかった。鬼丸国綱を両手で逆手に握り、気合と共に地面へと突き立てた。半球の力場が構築され、飲み込まれた大蛇は成す術なく光へと分解されていく。破壊の半球が女神に届く寸前で高次障壁に阻まれ衝撃波が発生、土砂を巻き上げアチェロとアンシェラを吹き飛ばした。
辺り一帯が砂塵で覆われる中、武蔵が土埃の幕を破り、ヴェルキュリアへと斬りかかった。周囲を陽炎の如く揺らめかせるほど昂った武蔵の気を乗せた鬼丸国綱が奔る。またしても女神の体の前面で結界が発動し、激しい紫電が発生。
「っえええええい!!!」
気合と共に鬼丸国綱を振りぬいた。空間が撓み、弦を弾いたような音を轟かせながら高次障壁が消滅するも、女神の体に傷はない。振りぬいた腕を戻す、その瞬間、巨大な力が武蔵を襲い、凄まじい勢いで真上へと吹き飛ばされる。ヴェルキュリアによる蹴りであった。清らかな純白の装束が身体に吸い付き、肉付きの良い官能的な太腿が露となる。武蔵は女神の背丈の倍は浮かび上がると、到達点で停止し同じ軌道で落ちてくる。微笑を浮かべたままヴェルキュリアは傷一つない美しい手を握り神気を込めると、縦にしてそのまま突き出した。身に纏う装束が動きによって流れ揺れる様は、優雅な舞のよう。身動きが取れず落下してきた武蔵に炸裂、目にもとまらぬほどの速さで弾き飛んでいく。三度大地で跳ねた武蔵の体は、衝撃波によって弾かれたアチェロやアンシェラの更に後方で漸く止まる。
意識を留めていたアンシェラが目を見開き、呆然とした表情で背後の武蔵を振り返っていた。収まりつつある土煙に見え隠れする武蔵は、仰向けになり右手に刀を握ったまま全く動く気配はない。まさかこの男がこれほど呆気なくやられるとは。人知を超えた現象に好奇心が擽られ、軽い気持ちで武蔵に同行した事を激しく悔やんだ。
「はてさて、我が威光を斬り裂くとは......土より捏ねられた人形の身で天晴、見事である」
素直に感嘆する女神の声が、アンシェラを我に返す。巨人の足音が地面を伝い身体を打ち、近づいてきているのが振り向かずとも分かる。
「その力に我も、少しばかり本気で応じぬと強者に対する礼を欠くというもの」
倒れたままの武蔵へと巨大な歩を進めながらヴェルキュリアの口が高らかに謡い始めると、身体を積層型魔法陣が覆っていく。
「オーデヌ・オーディ・ブーレイ・アヴァド・ンゥ 至尊の王に我は願い奉る 我が名は......ん?」
不意に女神は立ち止まると虚空を見つめ何かを考えている。その間に展開された魔法陣は光の粒子となり宙に消えていく。
「そうか、そうよな。剣士には魔法ではなく、我が肉体で止めを刺してやるべきよな」
一人頷きヴェルキュリアは武蔵への歩みを再開する。大質量が動く振動でアチェロが目を覚ました。重い頭で周囲を見回し直ぐに状況を理解する。アチェロとて決して愚鈍な男ではない、武蔵の危機に何とかしようと反射的に体を起こそうとするが、力が入らず地面に伏してしまう。
「ムサシ!!!」
アンシェラが怒声を上げるが武蔵は微動だにしない。アンシェラは必死で体を起こそうとするが足に力が入らず立つ事さえままならない。今この場で女神と仮初にも戦えるのは、絶対領域に囚われない武蔵だけだ。この男が殺されてしまっては死を待つだけとなってしまう。いや、もしかすると既に絶命しているのでは。あの巨体から繰り出された打撃を二度も受けたのだ、十分考えられる。だが、あの男しか。アンシェラの思考は錯綜する。体が揺れ、女神の美しくも巨大な足が見えた。
武蔵まであと一歩と言うところで女神は足を擽るような感覚を受けた。視線を下ろすと、顔面を蒼白にしたアンシェラが息も荒く、震える身体で巌窟王を足の小指に突き立てていた。どういうわけか結界は発動していない。如何に巌窟王と言えど魔力を帯びぬ刀身では女神の身体を傷つけること適わず、切先が大理石の如き肌で止まるのみ。何故このような無謀な真似をしたのかアンシェラ自身も分からなかった。わざわざ女神の注意を引くのは自殺行為だというのに。
「ふふ......、一矢なんて言えないけど報いてやったよ。まさかこの強く賢く美しい、皆に愛される私がこんな最期を迎えるなんてね......神様頭可笑しいんじゃないの?あぁ神様、ここに居たね」
女神を見上げるアンシェラは全てを受け入れ、笑っていた。
「魔力を失い、闘う力を無くしてもなお神に剣を向けるか。なかなか剛毅な性根よな。嫌いではないぞ、だが」
慈愛を含んだ瞳で優しくアンシェラを見下ろすと、優雅に手を天に向かって掲げた。
「出でよ、腐れし大口よ 大腐口廃頭」
ヴェルキュリアから言葉が漏れると、地面が大きく盛り上がり巨大な口の形をした泥濘がアンシェラを呑み込んだ。瞬き一瞬に満たない間。赤蠍の女隊長アンシェラのあまりにも呆気ない最期であった。




