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武士 異伝  作者: 弁鳥有無
失われた神々
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捌拾漆  女神ヴェルキュリア


 あぁ、あぁ、死んでしまった。みな死んでしまったわ......なんてことを。何て事をしてしまったの......

 

 ふふ、何をいまさら。お前とて賛同したのではなかったのか。我らを裏切り忘却の彼方へと葬り去った人形どもへの鉄槌を


 無辜の民を大勢殺してしまった......。私の愛しい娘、ベルを使って、あぁベル、愛しいベル、赦して

 

 もう遅い。クロートーによって運命の糸は紡がれ歯車は廻り始めたのだ。我らは肉体をもって大地へと顕現した。これからだ、大地に息づく蛆虫を一匹残らず、一欠けらも残さず腐海に飲み込んでくれる。心地よい断末魔を奏でてくれることだろう。そのが猛る我が心を如何ほど鎮めてくれることか、愉しみだ、実に愉しみだ。


 もう私には止められない。赦して、愚かな私を赦してベル......






 


 見渡す限り平面と化した、まるで障害物のない大地の先に黒い影があった。闇の中で輪郭定かでなく、ぼんやりと浮かび上がるそれは人の形の様に見えた。頭部があり首から胴体に繋がり、手足があった。その造形は人以外の何物でもない。ただ大きかった。大き過ぎた。

 思わず足を止め、目を離すことが出来ないアチェロの背骨を悪寒が走り、反射的に生じた懸念を唾液と共にみ込んだ喉が鳴る。全てを嘲笑するような笑みを常に浮かべていたアンシェラの口は堅く引き結ばれ、その表情は硬い。空気は纏わりつくように重く、闇は濃さを増し、未知なるものへの不安と恐怖が加速していく。

 足を一歩踏み出すたびに多大な労力を強いられ、強い圧がかかる海の底を歩いているかの様。アチェロの息は上がり、アンシェラの額からは一筋、二筋と汗が流れ、地面へと滴り落ちていた。如何なる表情を浮かべることもなく、淡々と足を動かす武蔵に引っ張られるように二人は続くが、その足取りは重い。巨大な影に近づくにつれ三人の顔が上がってゆく。


 巨人がいた。優に人の六倍は在ろうかという建造物に比する大きさの巨人が。不思議なことに今まで黒い影にしか見えなかった目の前の存在が、はっきりと認識できるようになっていた。アチェロは呆けたように口を開け巨人を見上げる。闇色から一際際立つ、縦に襞が入った穢れなき乙女の如き純白の装束を身に纏い、体の線が透けて見える様は死地にあってすら官能的であった。

 豊満な胸の前で交差されていた腕が緩やかに下ろされ、閉ざされていた瞼が開いてゆく。なによりアチェロの心を奪ったのは、遥か頭上から三人を見下ろす慈愛に満ちた顔がベルと瓜二つだった事だ。澄みきった、とても美しい二つの蒼い瞳が、地を這う三人の人類へと優しく注がれる。


「よく来た。人形よ」


 上空から若い女の高い声と、老婆の低い声が重なった不可思議な音が降りてきた。厳かであり、温かみさえ感じられる声であった。薄い金色をした極上の絹の如き髪が、流れるように下ろされた両肩で揺れる。光を纏っているようだ。空に暗雲渦巻き、陽の光を遮り夜明けが訪れない禍禍しさとは裏腹に、神々しさがあった。その威容に膝を屈してしまいそうになるのを堪え、アチェロは息を呑んで次の言葉を待つ。


「汝らには感謝しておる。我らがいまこうして在るのは、其の方らの働きによるものだからな」


 無表情で立つ武蔵と僅かに呼吸が荒いアンシェラから、覚束ない足取りでアチェロが一歩身を乗り出す。


「ひ、とつ、お聞き、した、い」


 ただ其処に在るだけという圧倒的な存在感に押し潰されそうになるも、心を奮い立たせ口を開いた。


「許す」


 巨人がそう言った途端、アチェロの全身を隈なく覆っていた極度の緊張が緩和した。海の底から空気を求め、海面へ顔を出したような感覚であった。唖然としたのも束の間、一つ息を深く吸い込むと問いを投げかける。


「貴女は何者なのだ?ベル、とはどのような関係が?」


 巨人は瞑目し、徐ろに目を開いてアチェロを見た。


「我が名はヴェルキュリア。豊穣と慈愛の女神なり。ベルは我が系譜に連なる者である」


 やはり、青年はその言葉を飲み込んだ。アチェロの推測通り、目の前の存在はベルの一族が代々崇め奉ってきた女神だったのだ。だが何故善なる女神が人を虐殺し、街を腐海に沈めたのか。


「女神ヴェルキュリアにお尋ねする。なにゆえ、神たる御身が街の民を殺害し街を消し去ったのか」


「神々の恩寵を忘れ、堕落し欲のままにのものに下り、我らと敵対したからである。汝らを屠るは復讐に非ず、これは裁きなり」


「女神よ、私には貴女が何を仰っておられるのか理解できません。この街の民が貴女への信仰を失ったのを怒っておいでなのですか?彼のものとは?敵対?」


 ヴェルキュリアは悲哀を込めた瞳でアチェロを見るとゆっくりと目を閉じた。


「分からずともよい。最早我が憎しみはこの大陸を覆い、その全てを腐海に沈めるまで消えることはないだろう。さぁベルの愛しきものよ。同胞はらからを助けたくば我を止めて見せよ」 


 女神ヴェルキュリアから魔力が波の様に立ち上がった。言葉とは裏腹に、暖かく優しく全てを包み込むような大きい魔力がゆっくりと波濤の様に広がってゆく。それは魔力と呼ぶには余りにも神聖であり、 世界を満たす愛に満ちていた。それは神気であった。


 神の波動に身体が呑み込まれる瞬間、武蔵は鬼丸国綱を掴み切り上げていた。掲げた腕の隙間から黒い双眸が女神を見据える。ほぼ同じ間でアンシェラも巌窟王を抜こうとしたが、柄に手を当てたまま力が抜けたように身体を傾け、地面に膝を屈していた。アチェロに至っては両手両足をつき激しく喘いでいる。


「何、これ?ち、からが、はい、ら、ない?」


「いと小さきものが大いなる存在に対するは勇気とは言わぬ。蛮勇なり」


 厳然とした言葉が三人の頭上から振り下ろされる。


「な、にを、した?」


「何をした、と。あぁ嘆かわしい、その様な事さえ忘失してしまったか。まこと、人形の愚かさには果てがない。汝らは我ら神々の前で許しなく頭を上げることを禁じられておる。魔力を失うのだ。人形に刻印された神の枷、これを絶対領域と言う」


 ヴェルキュリアが冷然とした眼差しで見下ろしながら言った。アチェロは手足を丸めて亀のように蹲り、アンシェラでさえ顔を上げるのがやっとといった状況の中、武蔵だけは平然と刀を握った手をだらりと下げ女神を見上げていた。魔力を失った様子のない武蔵に、ヴェルキュリアの瞳に疑問の光が灯る。


「はて?其処な人形よ、なにゆえ汝は魔力を失わぬ?我らと相対する事が出来るは竜か巨神のみ。彼奴らの眷属とも思えぬが......」


 何事をも見通す透徹とした青い双眸が武蔵を貫く。アチェロとアンシェラは動く事もままならず、ただ成り行きを見守っている。 


「ふぅむ。汝、淀んでおるわ」


 淀んでいる、女神が発したその言葉が何故かアチェロの耳に強く響いた。



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