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武士 異伝  作者: 弁鳥有無
失われた神々
86/104

捌拾伍  腐海

 

 眉根を寄せて顔を上げたアンシェラの視線の先ではベルの腕が回復していた、かに見えた。だが繋がっているようであった腕は再び重力に引かれて地面に落ちる。ベルはどういう事かと疑問の色が浮かんだ目でアンシェラを見た。


「この巌窟王で斬られた傷は極めて治りにくくなる。錬金術師に言わせると刀身に魔力の流れを阻害する式が宿っているそうだよ、どうやら君にも効くみたいだね」


「ふむ」


 アンシェラの返答を聞いたベルは納得した様に息を吐くと、唇を動かしながら上腕部分を左手で掴み、そのまま引き千切った。上腕骨が肩関節から外れ鈍い音が鳴る。勢いよく血が滴る己の腕を一瞥、興味をなくしたように目線を上げアンシェラ目掛けて投擲。


「弾けよ」


 少女の言葉と共にアンシェラの前方で腕が爆散。血と肉片と骨片が降りかかる。腕に仕込まれていた目に見えない細菌が宙にまかれ、身近の生命体の体内を目指すがアンシェラが振り下ろした巌窟王によって、青い光を散乱させて消滅する。ベルもこの程度でアンシェラを始末できるとは思っていない。攻撃の隙を窺う女への牽制と時間稼ぎであった。

 更に紡いでいた言葉を終えると、地面が隆起、今も血が流れ続ける肩口まで盛り上がり、接着してそのまま腕の形となる。今度は落ちることはなく右手は開閉を借り返す。大曲剣を構え戦闘態勢のアンシェラをベルの双眸が捉えた。


「阻害式とやらは断面部に限定されるようだ」


「そう来たか」


 己の腕を引きちぎり土によって代替するという、常軌を逸した行動を目の当たりにしてもアンシェラの口元から冷たい笑みが消えることはなかった。赤い少女は己の腕を切り落とした長身の女へと土の腕を伸ばすと掌を大きく広げ、目に見えない何かを潰すように握りこむ。


「先ずは汝を屠る。次はこの街の民草である。その次はこの大陸に息衝く者ども。我を卑しめ辱めた人形は一欠けら残さず腐海の底に沈めてやるわ」


 アンシェラを通して世界を見る眼差しは海の底のように深く暗い、そして告げる声は人類に対する呪いに満ちていた。恐れるものなど何もないはずのアンシェラの項の毛が逆立つ。


「せいぜい抗って見せよ」


 言い捨てたベルは胸の前で交差させた腕を八の字に開き、指は複雑な印を結ぶ。通常ならば踏み込み一刀のもとに両断するアンシェラであったが動く事はなかった。今まで見てきた幾つかの小手先が脳裏をよぎり、直前の握り潰す行為にも意味があるとアンシェラは考えさせられてしまった。その僅かな逡巡が、呪文の詠唱と言うベルを斬る事が出来た絶好の機会を逃してしまう。


「我は呼びかける。汝、腐れる大地より生まれし千年の蛇よ。古き塩の盟約により銀の毒とならん。七大土膿蛇金地銀尾ヴォル・ヴェル・グ


 ベルが詠唱を終えると泡立つ大地から、大人が一抱え出来ない程の胴体を持った濃緑色の七体の巨大な蛇が鎌首を持ち上げた。思考が誘導され、まんまと魔法の発動を許してしまったアンシェラは、額に皺を寄せながらベルの遥か頭上を見上げる。七つの不気味な蛇のようなものは、目がないにもかかわらず如何なる理屈でかアンシェラを見定めると頭部を向け、次々と襲い掛かかった。

 

 眼前にまで迫った巨大な頭部をアンシェラの大曲剣が縦断すると、宿った魔力を無効化された大蛇はただの泥濘に戻り地面へと落ちてゆく。それを皮切りに六体が楕円を描いた複雑な動きでアンシェラへ突撃。それらを常人を越える体捌きで躱していき、すれ違いざま一体の胴体を薙ぐが別の大蛇の攻撃が脇腹を掠める。忽ち大蛇が触れた部分の鎧が茶色く変色し錆びつき欠けた。魔導率が高く上級使を越えるアンシェラの魔力によって強化されたはずの精霊銀製の鎧が。息をつく間もなく襲い来る大蛇を大きく回避、距離を取る。胴を分断された蛇は魔力を失い土塊と化していた。


「......何これ、信じられない」


 己の脇腹に穴が開いた鎧を一瞥し目線を戻したアンシェラの眼前で、土に還ったはずの二体の大蛇が再び地面から鎌首を持たせていた。七体に戻った大蛇が上空から己に狙いをつける様に、アンシェラが苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。


「これはきりがないね」


 魔力の供給元のベルをどうにかしない限り、大蛇は何度も蘇るであろうことが容易に想像がつく。だがそのベルを攻撃しようにも七体もの大蛇が邪魔で近づく事が出来ない。しかも掠めただけで精霊銀の鎧を錆びつかせる毒蛇だ。ベルは大蛇の背後で手印を組みながら魔力を供給し続けている。僅かの思考の内、アンシェラの眼球が一瞬横に動き、次いで足が勢いよく地面を蹴り土煙が舞う。

 右方向へ走り出したアンシェラに触発されて大蛇が襲い掛かるが僅かの差で捕らえ切れない、曲線を描きながら時間差で次々と大地へ衝突、頭を潰しては蘇る。アンシェラが足を緩めると大蛇たちが間髪を入れず突撃。躱す女。そして悲鳴が上がる。


「ぐあぁ!!!」


 男の苦痛が闇夜に響き渡る。大蛇の攻撃を躱し損ねたアチェロの叫び声であった。左肩に受けた傷が見る見る広がりどす黒く変色していく。アチェロは脂汗を滴らせながら歯を食いしばり、右手で腰から剣を抜くと傷口に当て肩を削り取った。

 勢いよく血が流れ出て、大きく切り取られた肉が地面に落ちると湿った音を立てた。男は苦痛のあまり膝をつき大蛇を見上げる。追撃はなかった。毒々しい濃緑色の巨大な蛇たちは鎌首を空高く擡げたまま躊躇するように震えていた。それを見ていた長身の女が笑う。アンシェラはこのままでは埒が明かないと判断、アチェロを巻き込む算段を取ったのであった。

 

 恋人を大蛇に攻撃させ動揺して隙が出来るなら、ベルを討つ。そうでないならばアチェロを囮に逃走するつもりであった。アンシェラには命の危険を犯してまでベルを殺す理由はないからだ。伯爵の命令など知ったことではない。部下が殺された仇を取るなどという思考は爪の先ほどもなかった。結果は前者。だがベルとは大きく距離が空いてしまい、さらにその間に大蛇が立ちはだかっている。瞬時に判断を下すと巌窟王を鞘にしまう。


「後は任せたよ」


 激痛を堪えるアチェロを見、視線を横に走らせて軽く手を上げるとアンシェラは背後を気にすることなく背中を向け走り去っていく。見事な逃げっぷりであった。大蛇の向こう、茫漠としたベルの双眸は遠ざかるアンシェラではなく蹲るアチェロを見ていた。胸の魔石が赤く光ると動きを止めていた七体の大蛇が眼下の男を標的に定める。苦痛に歪んだ顔を上げたアチェロの目とベルの視線が交錯。愛しい女を映す男の瞳には諦観があった。七体の大蛇が迫る。アチェロは静かに目を閉じた。

 

「あああああぁぁ、ぁ、や、め、て」


 ベルの口から少女の声が漏れると魔石の赤い光が減衰、大蛇たちがアチェロに食らいつく寸前で動きを止めていた。形を留める事が出来ず、ただの土となって崩れる様に大地に落下していく。二度と聞くことがないと思っていた声を聞き、死を覚悟して閉じた目を開いたアチェロの視界に飛び込んできたのは、苦しそうに己の胸を掴むベルの姿だった。


「ベル!!ベルなのか!?」


「ア、チェロ......」


 胸に同化した真紅の魔石が明滅を繰り返す。内に存在する得体の知れぬ何かが、僅かに残されたベルの意識を侵食してゆく。自我が塗り潰されていく耐え難い激痛に顔が歪む。身体が心が、魂が悲鳴を上げていた。それでもベルは言葉を紡ぐ。愛する者のために。  


「こ、のまま、では街のみんなを、ユーリを、アチェロ、貴方を、殺してしまう。私が、私で無くなる前に!!お願い、私を止めて!!」


 自分の中にいる何かは世界を憎悪している。今も人間を、アチェロを殺せと言う呪いの言葉が頭の中を埋めつくす。事ここに至って、ベルはアンシェラに対する憎しみのために体を委ねてしまったこと後悔していた。最早自分にできることは一つしかない。ベルは哀願した、自分を殺してくれと。それを聞いたアチェロの目に絶望が浮かぶ。


「お、願い、アチェロ......」


 魂が砕けそうなほどの苦痛の中、ベルは愛する男へと微笑んだ。儚げなその笑みは最後の別れを意味していた。ベルの命の灯が消えゆくように魔力が小さくなっていく、それに反比例するように魔石はより強く眩き始める。残された時間は少ない。だが決断がつかずベルを見つめる事しか出来ないアチェロの視界に異邦の剣士の姿が映る。傍観するだけであった武蔵は誰も気づかぬうちにベルに手が届く位置にいた。視線を戻したアチェロの顔は大きく歪み震えた。


「頼むムサシ、ベルを......ベルを殺してやってくれ!!!」


 目を固く瞑り、下を向いた青年の絶叫が木霊する。アチェロの悲痛な叫びは確かに武蔵に届いた。だが異邦の剣士は動かない。いや動けないのか。

 

「生きて......ア、チェロ」

 

 消えゆく声に思わず顔を上げベルを凝視するアチェロ。男の眼前で少女の胸から赤い光が溢れだした。アチェロに届くように手を伸ばしていたベルは完全に赤い光に飲まれてしまう。零れ落ちそうなほど目を見開いていたアチェロは両膝を落とし右手を地面につけ嗚咽を漏らす。 

 

 魔力が収斂していき赤い光が収まったそこには、完全にベルの身体を手中に収めた何かがいた。人間のものとは思えない酷薄な笑みを浮かべると世界を呪う歌が口から紡がれてゆく。それは朗々と高らかに空に吸い込まれていった。武蔵はベルを検分するかのように見つめ、腰の鞘に手を当て今にも斬りつけそうにも思われたが結局動かなかった。

 呪文という名の歌を歌え終えると、ベルは憎悪に爛々と輝く双眸で武蔵達生き残った者を見た。


「腐海の底に沈め、そして我が糧となるがいい!!大腐底海波激浪濤ヴォー・イー・ドゥ

 

 赤い女を中心に大地が泡立ち腐り始め、町全体に伝う凄まじい地響きと共に全方位に波濤のように広がってゆく。呑まれた赤蠍の隊員達の遺骸が、忽ち分解されていた。肉体が、金属が、大地までもが。全てを腐らせ尚も膨張していく、何処までも広がる海のように。それはまさしく腐った海、 腐海であった。


「走れぃ!!」


 武蔵はアチェロへと叫び、未だ意識の戻らないユーリを手荒く掴むと抱え走り出した。武蔵の言葉で我に返ったアチェロの頭の中でベルが最後に漏らした言葉が繰り返される。「生きて」ベルは確かにそう言った。ならば自分はどれ程辛くとも生きねばならない。左肩を庇うように立ち上がり、ベルを一瞥、未練を残したまま駆けだす。

 だが腐海が広がる速度は、魔力によって強化されたアチェロたちの脚力をも上回る。背後の大地が沸騰したように泡立ち始めると、武蔵は腰にある鬼丸国綱を抜き振り向き様一閃。刀身の数十倍の長さで地面に線が刻まれた。どういうわけか腐海の侵攻がその線によって阻まれている。

 しかしその不可視の壁も次から次へと押し寄せる汚れた深緑色の泥濘によって乗り越えられてしまう。押し寄せる腐海の一滴がアチェロの衣服に降りかかると、大きな穴が開き拡大し続けるのを見て慌てて破り捨てた。恐ろしい侵蝕性であった。腐海の波濤に追いつかれそうになると武蔵が刀を振るい時を稼ぐ。ユーリを脇に抱え走り続ける武蔵の視界の片隅に見知った顔が映る。エッテカルを売る屋台の主であった。


「異国の旦那っ!!」


 向こうも気づいたようで必死な形相で武蔵へと呼びかける。隣には小さな子供を連れた寝間着姿のアデールがいた。背後に迫る腐海の大波に、携行灯火によって照らされた顔には恐怖が張り付いていた。


わっぱを頼む」 

 

 ユーリをアチェロへ押し付けると、武蔵は方向転換、鬼丸国綱に気を注ぎ今にもその巨大なあぎとに飲み込まんとする毒の激浪へと振り払う。三人の直前まで迫っていた波濤が分断され勢いを失くした。顔面を蒼白にした主人を左肩に、母娘を左脇に抱えるとアチェロの後を追う。


「落ちぬよう、しかと掴まっておけ」


 武蔵が走りながら言葉をかける。


「たた、助かったちぇ、ぐぁっ」


 死の恐怖に晒され、顔面蒼白の屋台の主、クリスは舌を噛んだ。


「ありがとう、異国のお客さん。......本当にありがとう」


 突如として訪れた死の危機より逃れる事が出来た安堵から、アデールは娘を抱きしめ涙を流していた。幼子はきょとんとした顔で母親を眺めている。武蔵は何も言わず街の中を駆け抜けた。 


 武蔵らが去った後方では住民が怒涛の勢いで広がる腐敗の海に浚われ命を散らしていく。街の中は夜明け前だというのに人に溢れていた。貧民街の大火事により多くの者たちが目を覚まし、街路へと出ていたためだ。故に目を覚ましながら腐海に食らわれる人々の断末魔が、途切れることなく闇夜に響き渡る。腕に覚えのある冒険者たちも腐海の侵攻を留めようと、ある者は炎の壁を創り、またある者は強力な風を叩きつけたが、澄んだ大海に一滴の墨汁を垂らしたが如くまるで意味をなさなかった。成す術なく冒険者たちも一般の者と同じように毒の激浪に侵され命の灯を消した。貧民区の騒ぎさえ届かぬ程、距離が離れた富裕層が住む北区画では、皆眠りについたまま腐海に飲まれていったのは幸せな事であったのだろうか。

 

 武蔵は生と死を分かつように、未だ広がり続け背後より襲い掛かる緑の波濤へと刀を斬り払う。幾度振るったか、武蔵たちは何とかエルボヌエルグを離れ、街を望む小高い丘へと辿り着くこと出来た。貧民街区が街の外れに位置していた事が味方した。息を切らし地面に血の染みを作って這いつくばるアチェロ、肩に担がれ運ばれてきただけのクリスにアデール母娘もまた疲労困憊で喘いでいた。目を覚ましたユーリは武蔵の隣で呆然と生まれ育った街を眺めている。


 街を見下せば、その全てが腐海に沈んでいた。人も建物も家畜も樹木も何もかもが埋もれてゆく。富める者も貧しき者も貴族も平民も老若男女を問わず全て平等に。地鳴りのように轟き渡る音はエルボヌエルグの全ての生あったものの怨嗟の声にも聴こえた。

 生き残った者たちが見守る中、町の中心から南東に外れた位置に赤い光が灯る。その光を中心に街を飲み込むほどの超巨大な魔法陣が描かれてゆく。空には渦巻くように暗雲が立ち込め、雷鳴が轟き稲光が発生。光が厚い雲の間を這いずる様は龍が駆けているようにも見える。禍禍しくも美しい幾何学模様が街に重なり、超巨大魔法陣が完成した。腐海に沈んだエルボヌエルグ全域から赤い光点へと魔力が凝縮。街の住人や商人、冒険者、旅行者を含む一万九千九百十二人の血と肉と魂が捧げられていく。


 魔法陣のあらゆる場所から蛇の如き紫電が空へと昇り始め、街を囲う巨大な光の円柱が誕生していた。その荘厳な光景にユーリにアチェロ、クリスにアデールは声を失い目を奪われた。光の蛇が一匹、また一匹と消えてゆき、天を覆うほどの大蛇が蜷局を巻いているかのような黒雲の中心が割れると、その裂け目から真紅の光の柱が大地に向かって落ちていく。

 

 狂乱の女神がベルの肉体を依り代に地上へと顕現しようとしていた。

 

 世界に神が降誕する。

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