捌拾肆 二度目の覚醒
その場にいる全ての人間の視線が一点に集中していた。
「ぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉん!!」
世界に対する呪詛にも、軛から解放された歓喜の歌にも聴こえる絶叫が少女の口から放たれる。極限まで反らされた胸が真紅に輝き、辺りを炎よりも赤く染めあげる。尋常ではない事態を目の当たりにするアンシェラの瞳には好奇の煌めき。眩いばかりの赤い光を放つベルの身体から、途轍もない魔力が溢れ出した、それは先ほどアンシェラが見せたものよりも大きく、武蔵から放たれたものよりも強い。
余りにも強大な魔力は大気に干渉し突風を巻き起こす。周囲にいる者たちが腕を掲げ熱気と共に迫り来る強風から顔を守り、吹き飛ばされぬ様両足に力を入れ耐える。ベルから放たれる魔力は力を増し、比例するように荒れ狂う暴風は踏み止まる事を許さず、地面に引きずられる跡を残しながらアチェロたちの身体が後方にずれ出した。
信じられないことに少女の魔力は更に膨らみ続ける。童心に返ったように心を躍らせていたアンシェラまでもが、呆けたように口を開き、赤い光に覆われるベルに目を奪われていた。勢いを増す魔力と共に赤い光は一際強く輝き、そして爆発した。
衝撃波が発生、一瞬で伝播し、アチェロをユーリを、アンシェラと赤蠍を、武蔵を、炎と黒煙と僅かに生き残った貧民街の人々を、そして大火によって脆くなった建物や残骸を飲み込みんだ。
「あ......」
呻きとも苦鳴ともつかぬ言葉を口から零しながらアチェロは意識を取り戻した。煤塗れの顔を手で拭い、口の中に入っていた灰を吐き出す。手をついた地面が熱を持っていた。頭を振り、煤と灰、土と瓦礫に埋もれていた身体を起こすと燃え盛っていた炎は跡形もなく消えており、アンシェラ率いる赤蠍と赤い光を纏ったベルが対峙しているのが見えた。その様子から爆発からどれほどの時間も経っていないように思われる。
全身に力を入れて損傷の有無を確かめる、幸いにも骨折や大きな傷はなさそうであった。はっと我に返り、周囲を見渡して灰燼に帰した残骸の中からユーリの姿を探す。
赤蠍とベルの戦いを見届けるかのように離れた所に立つ武蔵が目に入る、無事のようだ。そしてその足元に、ぐったりと項垂れた煤塗れの少年の姿があった。アチェロは安堵すると、茶色の目を再び赤い光に覆われる少女へと向ける。
「ベル......」
灰被りの男は悲痛な面持ちで愛する女の名を呼んだ。何故だか、もう二度と自分が知っているベルが帰って来ることはないと感じていた。
「いやぁ、凄いなぁ。まさかベルちゃんがこれ程の力の持ち主だったとは、アンシェラお姉さんビックリ!!」
顔の前で両手を広げお道化て見せる。己を上回る魔力を放つ存在を相手にしてもアンシェラの軽口は収まらない。薄笑いを浮かべ話しかけるアンシェラに対し、ベルは路傍の石でも見るかのようにただ見つめている。その瞳には怒りや憎しみといった色は無く、それどころかあらゆる感情が抜け落ちていた。己に向かって音を発するものがあるので、そちらを向いているだけ。人が道に転がる小石や、大地に生える雑草を視界に入れているが認識していないように、ベルの形をした何かにとってアンシェラは取るに足らぬ存在であった。
「これじゃぁ警吏風情が皆殺しにされるのも無理ないねっと」
話すことによって注意を引きつけるアンシェラの背後で前衛の五人が散開し、全身甲冑とは思えぬ身のこなしでベルへ襲い掛かっていた。白銀の尾を引きながら、僅かの時間差もなく五つの剣が無防備に立つベルに向けて振り下ろされる。しかしそれらがベルに届くことはなかった。
少女を包む赤い光が警吏の時と同じく武器を赤い錆へと瞬時に変化させていたからだ。突如として剣の重量が消失したことに瞠目する隊員たち。練度がまるで違ったが、警吏との戦いが再現されていた。闘い慣れた隊員たちは理解の及ばぬ現象にも、冷静さを失わずにベルから距離を取るべく退く。それを無機質な瞳で見ていたベルは、後退していく赤蠍に向けて手を横に振り払った。
呪文の詠唱が無かったため何らかの物理攻撃が来ると判断した隊員たちは、防御の姿勢を取るが何も起こらない。
「腐れ落ちよ」
相も変わらず茫漠とした眼差しのベルの口から一言低い音が漏れ、訝し気に身構える赤蠍の前衛。だがやはり何も起こらない。アンシェラは少し引いた場所で傍観に徹する、と攻撃を受けた気配が無いにもかかわらず五人の隊員たちが血涙を流し始めた。それだけではなかった、兜で覆われた顔に次々と膿胞が生じると大きく膨れ上がり、膿を吐き出しながら溶けてゆく。
五人が五人とも激痛の叫び声をあげながら顔に手をやるが兜が邪魔で触れる事が出来ない。最早半狂乱となって兜を強引に取り足元に放り投げると頭皮が剥がれ顔にかかる。髪の房が付いた頭皮は溶け行く顔面に赤く太い線を描きながら、湿った音と共に地面に落ちた。
更には目だけではなく耳、鼻、口、尿道に肛門と全身の穴という穴から出血。立っていられず膝をつき苦痛に身を捩る。その様子を誰もが唖然とした表情でただ眺めていた。
瞼が唇が崩れ眼球と歯が剥き出しになり、桃色の筋の間に骨が覗く。生きながら溶解する痛みで気が触れたのだろう、五人は剥き出しの歯を大きく歪め、狂ったような哄笑を上げ始めた。
さらに臓腑が筋肉が神経が分解されて液状化し、足元に黒い染みを作りだすと支えるものが失われた全身甲冑が重い音を立てて地面と接触。
百を数えないうちに、屈強なマナ使いが原形を留めずに骨と液体に変わり果てていた。
黒い粘液の上に出来た五つの甲冑の山を、息をするのも忘れ凝視する後衛の赤蠍。回復魔法をかけようとする思考さえも奪うような凄惨な状況であった。アンシェラは地面に広がる少し前まで人であった液体を一瞥すると気持ち悪そうに顔を歪めベルを見る。
「ベルちゃん、今何したの?魔法のようだけど、何で君、詠唱なしに発動出来るの?」
アンシェラの疑問は当然であった。人類は魔法という力を呪文の詠唱なしにこの世界に顕現させる事が出来ない。人間にとって魔法は能力ではなく、あくまで術式だからだ。
ベルの形をした何かは答える代わりにアンシェラを指さす。差された女は躱す素振りも見せずに左手を曲剣の歪な柄頭に当て、魔力を注ぎ込む。棒立ちするアンシェラの前で青い光が火花を散らした。数秒続き青い光は宙に溶けるように消えていく。
「うわ、こわ。君どういう理屈か知らないけれど詠唱なしで魔法を使えるみたいだね」
アンシェラは何かに気づいたようにベルに向けた目を細める。
「いや、違うな。その赤い光が既に魔法なのか。そして有効範囲に入った者の体内に目に見えない何かが侵入し、鍵となる言葉によって発動する、と。症状から見ると細菌だろうね。態々手を振ったり指を指すのは詠唱なしで魔法が使用できると誤解させるため。そんなとこかな?」
図星だったのか、アンシェラを見る無機質だったベルの目に興味の色が宿り、赤い唇が開かれる。
漏れてきたのは、先ほどまでのベルとは異なる、若い娘のようであり年経た老女のようでもある不思議な響きの声色であった。
「汝、なかなかの魔法障壁を持っているな。未熟とはいえ我が力を退けるとは大したもの。何より僅かな情報も逃さぬ洞察力、事実を重ね的確な答えを導く推理、見事だ」
「ベルちゃん、どうしたの!?声がお婆ちゃんみたいになってるよ!!」
賞賛されようと変わらぬアンシェラの道化師めいた口調に、ベルの口の両端が歪められる。
「くく、面白き人形よ、私が今こうして在るのは汝の功労とも言える。褒美の一つも与えてやりたいが愛しい娘の最後の願いだ。汚濁に飲まれて消え去れ」
赤い少女の口が世界を振るわせる魔韻を含んだ言葉を紡ぎ詠唱を始める。
「腐れ廃れよ、大地を侵し、大気を犯さん。あらゆる万物は穢れとなり水は汚濁となって汝の敵となれ。腐瓦海黒斯紫食菌」
ベルの掲げた手から腐食性瓦斯が発生、爆発的に体積を増大させアンシェラへと迫る。瓦斯に触れた大地が濃緑色に泡立ち、耐え難い臭気が辺りに立ち込める。その光景を見たアンシェラが流石に顔色を変え、魔力によって強化された長い足を生かして大きく後ろへ跳躍、範囲外へ逃れると指を鳴らした。アンシェラがベルと会話をしている間に、赤蠍の後衛による魔法の詠唱が終わり四つの呪紋が発現。
「炎紅熱火帯条」
四条の炎の帯が瓦斯に向かって殺到する。先ほどアチェロらの目前で街路に逃げ行く人々を瞬時に炭化させたのと同じ火炎放射魔法であった。離れた場所にいる武蔵やアチェロにまで熱風が届くほどの威力。四つの太く赤い帯が暗褐色の瓦斯の浸食を押し留める。炎によって熱せられ気体が上空へと拡散、拮抗。
だがそれも一瞬であった。尚も増大する瓦斯の前に炎は術者である後衛諸共飲まれてしまう。断末魔を上げる間もなかった。干渉時間の限界と共に腐食性瓦斯が消失、後に残ったのは泡立つ一面の大地と異臭、そして腐り果て緑色の粘塊となった四人の残骸だった。
塵芥でも見るかのようにどうでもよさそうであったベルの目が横へと流れる。黒い光が一閃。赤い光が斬り裂かれ、少女の腕が真紅の色を引いて地面に落ちる。
「ありゃ、浅かった?」
四人の部下の命を囮にしたアンシェラの奇襲も深手を負わすには至らなかった。一撃離脱したアンシェラの右手には、黒ずんだ刀身を持つ禍禍しい大きな曲剣が握られていた。ベルが僅かに目を見開き己の腕を切り落とした長身の女を見る。
「我が結界を斬り、尚且つ手傷を負わせるとは。どうやら汝を侮り過ぎていたようだ」
警戒の響きが込められた言葉を受けアンシェラが笑う。
「凄いでしょ、この無効化能力。君の持つ金属を酸化させる結界をも切り裂く事が出来る。巌窟王、復讐するものの大剣さ」
そう言ってアンシェラは自慢げに曲剣を掲げる。鈍く黒い光を放つ刀身には、赤い光によって錆びついた様子は見られない。ベルは厭わし気に長身の女を見ながら唇を動かすと、呪紋を発現させた地面が泥濘と化して盛り上がり、切り落とされた腕が持ち上げられてゆく。上腕部分の切断面に合わさると接合部分が泡立ち始めた。
「させないよ」
そうはさせじとアンシェラが踏み込もうとした大地が泥濘み、足を取られてしまう。
「ちぃっ!!」
大曲剣が足元に向かって振られると地面が固さを取り戻す。一瞬ではあったが大地に飲まれた具足の先が僅かに錆びついていた。眉根を寄せて顔を上げたアンシェラの視線の先ではベルの腕が回復していく。




