捌拾参 狂気の女
武蔵の言葉をアチェロは驚愕を持って受け止めていた。てっきり自分たちを逃がすために時間稼ぎをしたあと、どうにかして追跡を振り切ったとばかり思っていたからだ。十人からなる歴戦の集団をたった一人で打ち破ったなど、実際に武蔵の力を目の当たりにしていても耳を疑った。しかも武蔵は無傷だ、何処にも負傷した様子は見られず、それどころか夜の上黒い衣服なので定かではないが返り血さえ浴びていないように思われる。幾ら武蔵が強かろうとそんな事が可能なのだろうか。半信半疑のアチェロの後方では、当初武蔵から感じられた不吉な匂いなど何処かへと弾き飛ばしたユーリが、目を輝かせて物語の主人公でも見るかのように武蔵に熱い視線を注いでいた。
武蔵と相対するアンシェラは愉しそうに口を歪め、切れ長の冷徹な目で値踏みするように凝視する。女の卓越した感覚が、自然体で佇む異国の男が只者ではない事を捉えていた。アチェロやベルを相手にしていた時とは違い稚気は鳴りを潜め、いつ異邦の剣士が動いても対処できるようアンシェラの周囲の空気が張り詰めていく。分隊を屠ったと暗に述べた武蔵の言を真と受け取ったのだ。にもかかわらず部下たちを失った悲しみや、武蔵に対する憎しみは長身の女からは微塵も感じられない。ただ薄い唇に冷たい笑みを湛えている。
一方で不動であった赤蠍の隊員たちが、武蔵の言葉を聞いて俄に浮足立つ。共に厳しい鍛錬を積み、数々の修羅場を越えてきた仲間、戦闘に熟達した前衛と後衛で組み立てられた十人からなる分隊が、眼前の魔力も碌に発していない異国の男に倒されたとは到底信じられなかったからだ。己を強く見せようとするただの虚言か、相手を狼狽させるための妄言か。それとも事実なのか。本来ならば一笑に伏すところだが、隊長であるアンシェラの態度が真実と告げている事が困惑に拍車をかけていた。
武蔵は高位マナ使いで構成された赤蠍を前にして構えることなく、敵意も殺意も魔力さえ発さずに、ただ立っている。誰もが黙して、火柱の唸るような重く低い音だけが轟いていた。
「へぇ、そこまで魔力を消す事が出来るんだねぇ」
沈黙を破ったのはアンシェラであった。感心した様な声で一般人程度の魔力しか放っていない武蔵へと話しかける。その言葉で隊員たちは気づく。異国の男は魔力を持たないのではなく、如何なる術でか抑えているのだと。
「面白い。君の力、見せてもらおうか」
言って腰に下げた鞘から剣を抜き放った。剣先に向かって幅広となり重心がある禍禍しい曲剣が、鈍い光を放ちながら姿を現す。と同時にアンシェラから膨れ上がった強大な魔力が叩きつけるように襲うが、武蔵はそよ風のように受け流していた。それを見て女の口角が更に上がる。
「くく、これは愉しませてもらえそうだ、誰も手を出さないでね。君たちもだよ」
アンシェラの刃のような目が遠巻きに傍観するアチェロたちを斬り裂くように見た。アチェロとユーリは圧倒的な魔力の前に蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまう。視線が確かな力を持っていた。尋常ならざる相手と見て取ったか、武蔵もまた静かに鬼丸国綱を抜いた。抑えていた気が解放されアンシェラをも上回る魔力が武蔵を中心に渦巻き、炎の熱さえも吹き飛ばす。瞠目する赤蠍の隊員。アンシェラは僅かに目を細めただけ。
炎の柱によって赤く照らされる武蔵とアンシェラ、超級のマナ使いである二人の間を硬質の気が埋めてゆく。軋む音さえ聞こえてくるような緊張感の中、若い女の声が割って入った。
「待って!!あの子たちは何処にいるの?」
愉しい遊びを邪魔された子供のように顔を顰め、アンシェラが体の向きはそのままに目だけを動かし声の主を睨みつける。武蔵も興が削がれた瞳でアンシェラから視線を移す。二人の目線の先にいるのはベルであった。
「あ~、せっかく盛り上がってこれからって時に何なの君は?空気読めないの?そんなの後でいいじゃない」
武蔵の気が自分から逸れたことを感じ取ったアンシェラが、曲剣の剣先をベルに向け声を荒げる。ベルは臆することなく不快感を露にする長身の女をじっと見つめた。
「出来ないわ」
「出来ない?どうして?」
眉根に皺を寄せたアンシェラが苛立たし気に問い返す。
「だって貴女はムサシに勝てないもの」
アチェロとユーリ、赤蠍の隊員達の視線がベルに釘付けになる。ベルはアンシェラに向かい、貴方は武蔵に勝てずに命を落とすから答えることが出来なくなる、だから今聞いているのだと言っていた。アンシェラはきょとんとした顔をすると俯いて肩を震わせる。
「くっく、私も侮られたものだね」
「私には分かる」
確信があるのか、強い眼差で断言するベルに苦笑いを浮かべていたアンシェラの相貌から表情が消える。
「......いいだろう。子供たちの亡骸だったね。エミール、持ってきてあげてよ」
感情が抜け落ちた人形のような顔でベルを見たまま、背後の部下に声をかける。一人の隊員がアンシェラの隣まで進み出ると左右の手に掴んだ物体を差し出した。夜ということもありベルは初めそれが何か分からず刮目する。やがて理解した少女は目を見開き悲鳴を呑みこんだ。炎によって闇から引きずり出されたのは幼い子供たちの頭部だった。
「感謝してね。私たちが運び出してあげたんだよ。ほぅら、この子たちも言ってるよ。アンシェラお姉さんのお蔭でわたしたち無事なの、なぁ~んてね」
部下から受け取った子供の頭部を左右の手で一つづつ掴み人形劇でもするかのように向い合せる。アニーとキアラだった。
「ねぇ、君たち。ベルお姉ちゃんが私に酷いこと言ったんだよ、どう思う?」
「ベルお姉ちゃんはアンシェラお姉さんに謝るべきだよ。アンシェラお姉さんがあんなヘンテコな格好した異人なんかに負けるなんてあり得ない」
「わたしもそう思うわ。だってアンシェラお姉さんの方が美人で背も高くて強そうだもん」
右手と左手を宇小刻みに動かし、声色を変えてさも子供たちが喋っているように見せる。ベルは瞬ぎもせず呼吸すら忘れて凝視していた。その様子を見てアンシェラは左右の手に掴んだ子供たちをベルに向ける。
「ほら君たちから直接ベルお姉ちゃんに言ってやって」
「駄目だよ、お姉ちゃん。失礼なこと言っちゃ。アンシェラお姉さんは私たちを運び出してくれて、思い出の詰まったこの汚い家も綺麗に燃やしてくれてるんだから感謝しないと」
「そうだよ、ついでにこの糞汚い貧民窟も一緒に掃除してくれて、あぁなんてアンシェラお姉さんは素敵なんでしょう!!私憧れちゃうわ」
「なぁ~んちゃって」と言うと左右の手にあった頭部を握り潰した。柔らかい頭蓋骨が割れ脳漿が溢れ眼球が地面へと零れ落ちた。ベルは魂でも抜かれたかのように呆然と見つめている。アニーとキアラだったものは見る影もなく大地からベルを見上げていた。
「あら、壊れちゃった。さすが貧民製は安かろう、悪かろうだね。汚いなぁ」
部下が差し出した布で手を拭きながらベルを見るアンシェラの瞳には嗜虐の光が煌めき、愉しくてたまらなそうに口が吊り上がっている。液体が勢いよく地面に流れ落ちる音が傍観する人々の耳を打った。両手で腹を抑え、ユーリが食べたものを吐き出していた。アチェロもまたアンシェラの狂気の行動に言葉を失っている。武蔵は刀をだらりと下げたまま、時が止まったかのように大地の一点を見つめ続けるベルを、感情が読み取れぬ黒い双眸で眺めていた。
「な、ぜ?」
「ん?何か言ったかい?」
「何故、......こん、な酷い、事が出来る、の」
虚ろな目を地面に散らばるアニーとキアラへ向けたままのベルの口から、虚ろな言葉が零れ落ちる。
「酷い事って何?お姉さん、分からな~い。そんな事よりベルちゃんもお人形ごっこやる?まだまだ一杯あるよ」
合わせた両手の甲を頬に当てたアンシェラが振り返り目線で合図をすると、隊員達が次々とベルの足元へ何かを放った。幾つかが転がり足に当たって跳ね返る。今にも錯乱しそうなベルの視界に入ったのはまたしても人の頭部であった。カロンがアリーヌがエロワがシャルロがアニエスがアンヌがいた。更に見知った大人たちのものがあった。ベルが己の胸に強く手を当て、衣服を握り締める。心臓が灼熱のように熱く苦しい。
「あぁ、話を聞いて君を心配して駆けつけたんだろうね。鬱陶しかったから序に首を斬っておいたよ」
アンシェラは何食わぬ顔でさらっと言った。地面に転がっているのは昼間、内紛を知り医院へ激励に来てくれた人々であった。フェリシアンに気を付けろと言ってベルを心配していた穀物屋の主人もいた。幼い頃からよく面倒を見てくれていた古着屋の中年女の頭部もあった。怒り、憎しみ、悲しみが交じり合った極限の感情が爆発し、頭が処理しきれない。
「あーはっは、何?ベルちゃん、その顔!!」
ベルの開いた眼は既に何も映していなかった。遠くで嘲弄する女の声が聞こえるだけだ。それも定かではなくなり、意識が急速に遠のいていくのが感じられた。
ベルの視界が黒く染まる。夜の暗さではない、一点の光もない漆黒が少女を包んでいた。その闇の何処からか何かが語りかけてくる。心に直接響いてくるようなその声は、慈愛と悲哀と憂い、そして底知れぬ憎悪を含んでいた。
「......ベル、ベル。あぁそんなに悲しまないで、そんなに苦しまないで、私の愛しい娘。自分が許せないのですね。でも貴女は何も悪くない、間違っているのは貴女を取り囲む世界であり、人です。力が欲しいのでしょう?その女を殺す力が。ならば委ねなさい、あなたの血を肉を、魂を......あなたの全てを、私に......」
許さない。アンシェラを。
許せない。子供たちを、貧民街や街の皆を巻き込んでしまった自分自身を。
私はどうなってもいい、ただアンシェラだけは、この女だけは。
少女の瞳に憎悪の炎が激しく灯る。
「......ねる」
憎しみに囚われたベルは全てを声に委ねた。
「おぉ!!ベル!!遂に、遂にこの時が!!!」
「あぁ、ベル!!なんという事を、あぁ......」
闇の空間が震えた。狂喜と絶望の相反する二つの声が同時に木霊する。
身体の隅々を闇が侵食していくのが分かった。漆黒は何者かの意識であった、だが構わない。
アンシェラを殺せれば、この身体がどうなろうとも。
ベルの心が憎悪によって満たされた。再び狂乱の女神の力が覚醒する。




