捌拾弐 胎動
迫る火の手と追手から逃れ貧民区の中を駆けるアチェロ。少し遅れてユーリが顔を煤塗れにしながら走っている。アチェロは背後を振り返り、気配を探って赤蠍の追跡がない事を確信すると速度を緩める。黒い汗が滴る背後の少年の顔には安堵。アチェロに背負われ、押し黙っていたベルが口を開いた。
「降ろしてアチェロ」
アチェロが腰を落とし、伸ばされたベルの足が地面につく。男の背中から女の体温が離れてゆき、ふらつく事もなくしっかりと大地を踏みしめていた。ベルの視界には見渡す限り、戦場跡とでもいうべき灰燼に帰しつつある貧民街の惨状が広がる。周囲に広がった燃え盛る炎がベルを赤く照らし、悲壮な顔の陰影を濃くしていた。ユーリが心配そうに声をかける。
「ねぇちゃん、大丈夫?」
「......えぇ」
少年に目を向け答えると女が歩き出す。ベルの突然の行動に怪訝そうな表情を浮かべるアチェロ。ユーリも戸惑っていた。
「何処へ行く気だ、ベル」
「家よ。最後にもう一度だけ見ておきたいの。母さんやお祖母ちゃんが護ってきた、そしてみんなと暮らしたあの場所を」
アチェロは足を止め振り返ったベルの顔を凝視する。
「最後?」
「もうこの街にはいられないんでしょう?」
ベルが真っすぐアチェロを見ていた。
「......そうだ」
アチェロもまたその視線を正面から受け止める。
「赤蠍は私たちを追ってきたのよね?私が記憶を失っていることに関係がある?」
「あぁ」
嘘を許さない女の瞳に男が首肯する。ベルの顔に何かを察したような表情が浮かび、そして消え去っていった。黒い煙が風に棚引き、一瞬ベルの姿を覆い隠す。
「......そぅ」
そのまま黙り込み再び歩き出したベルの後を、眉間に皺を寄せたアチェロと困惑顔のユーリが追う。その背を更に生き物のように動く炎と立ち上る黒煙が追っていた。
紅蓮の炎の柱が天に向かって屹立していた。それは燃えるなどと言う生易しいものではなかった。余りの熱さと熱風に近寄る事さえ出来ず遠巻きに眺めるだけ。
唖然として見上げるアチェロとユーリを余所に、ベルは無表情で嘗て我が家であった場所をただ見つめていた。炎の柱を映すその瞳には違うものが見えているようでもあった。
「お帰りなさぁい」
轟轟と響き渡る火勢の音を女の声が貫く。ベルの視線は劫火に固定されたまま動かない。アチェロとユーリが声のした方を見ると、男とも女ともとれる中性的な顔が炎の中で浮かび上がっていた。その人物を認識した途端アチェロの顔が歪む。
「アンシェラ、赤蠍の隊長のお出ましか......」
女としては極めて長身で赤甲冑を纏った赤蠍の隊長、アンシェラの姿がそこにあった。温もりを感じさせない酷薄そうな顔に長い手足はユーリに蜘蛛を連想させた、それもただの蜘蛛ではなく毒蜘蛛だ。知らず足が退いていた。
少年の横でアチェロが思わず歯軋りをする。声を掛けられるまで全く気配に気づく事が出来なかった、もし不意打ちを受けていたら何の対応もできず死んでいただろう。アンシェラの背後から次々と音を立てて赤い甲冑と赤い衣を纏った集団が現れる。アンシェラを含めた前衛が六人と後衛が四人、先ほどアチェロらが遭遇した赤蠍と同じ構成であった。隊を二つに分け挟撃することでアチェロとベルを炙り出す策なのであろう、そしてそれは二人が眼前にいる事実が功を奏した事を意味する。
赤蠍を見るアチェロの顔には絶望に近い表情が浮かんでいた。感じられる魔力から全員が上級使かそれに近い位階だと推測される。中でもアンシェラは別格であった、上級使どころではない。あの武蔵にも匹敵するのではないかと思われるほどだ。圧倒的な力の差を感じたアチェロの背を冷たいものが走る。
「アチェロとベルだね?初めましてになるのかな、私はアンシェラ。悪名高き赤蠍の隊長様さ」
長身の女は三人の前まで無造作に歩いていくと右手を胸に当て深々と腰を折る。お道化た仕草で人懐っこい笑顔を浮かべるアンシェラだがその眼はまるで笑っていない。アンシェラは一度も振り返ることなく、地響きのような音を立てる炎の柱を見つめ続けたままのベルを見咎めた。薄い唇が悪意を持って吊り上がる。
「子供たちは残念だったね。何でもグスタヴォとかいう男が君たちの家族同然ともいえる幼子たちを殺してしまったんだって?全く酷い話だ」
顔を左右に振りながらのアンシェラの言葉に僅かにベルが反応する。その気配を目敏く感じ取ったアンシェラの舌は滑らかに廻り続ける。アチェロとユーリは動けず、そして赤蠍の集団は二人のやり取りを傍観していた。
「安心したまえ。子供たちの遺体はちゃぁ~んと運び出して保管してあるよ」
ベルが今度ははっきりと反応し振り返ってアンシェラを見た。長身の女の瞳に加虐の光が灯るが、ベルを数瞬見つめると何処かへと消え去り好奇心へと変わる。
「それはそうと本当に君たちが五十人もの警吏を皆殺しにしたのかい?あの気色悪いフェリシアンの話と聞き込みから君たちに間違いないと思うんだけど。......ふむ、どんなに高く見積もっても二人は中級一位か二位程度の力しか持ってないようだ、何か隠された力でもあるのかな?」
「警吏を、皆殺し?」
頬に一指し指を当て、首を傾げるアンシェラの言葉にベルが呆然とした表情で鸚鵡返しに尋ねる。ベルを見るアンシェラの目が鋭さを増した。
「あれ?もしかして覚えていないのかな。それとも君が気を失っている間にアチェロ君が殺しちゃったのかな?」
アチェロを一瞥したアンシェラの視線がベルの胸元へと移動する。
「それともそれとも、君のそこから放たれる魔力に関係があるのかな?」
「......え?」
我知らずベルは左手を胸に当てた。不意にアンシェラの目線がベルから外され、己の背後の黒煙へと注がれる。つられるように他の者も目を向けたが煙で何も見えず、何の気配も感じられない。黒煙と炎と闇だけがあった。
「誰だい?」
アンシェラの問いかけに応えるかのように、灰と黒が混じる煙の輪郭がぼやけ、中から現れたのは武蔵であった。黒づくめの異邦の剣士を見るアンシェラの目が細められる。
「君は?」
無言で佇む武蔵を見るベルとアチェロ、ユーリの顔には驚き。三人の瞳に映る異国の男の姿は先ほどと何も変わらず無傷、足止めをした後、赤蠍から逃げ遂せたと見えた。
「......ムサシ、無事だったか」
「ムサシ?」
安堵を含んだアチェロの呟きを武蔵から視線を逸らさずにアンシェラが拾う。武蔵は赤い集団の前で足を止めた。赤蠍の隊員は微動だにしない。赤蠍の女隊長と異邦の剣士が炎の中で対峙する。
「ムサシとか言ったかな、君が来た方向には分隊が向かった筈だけど彼らはどうしたの?道草でも食ってるのかな?」
「三途の川を睦まじく渡っているころであろう」
物が音をたてて勢い良く燃える中でも武蔵の低い声は通った。
「さんず?」
聞いたことのない言葉にアンシェラが思わず問い返す。
「こちらではアケローンと言うのであったか」
「へぇ」
意味を理解したアンシェラの口角が上がる。この一帯に根付く異国の伝承で、アケローンとは現世と黄泉の国を隔てる大きな河だと言われている。
「君、面白いね」
アンシェラは嬉々とした光を宿した瞳で武蔵を見ると歯を剥き出しにして笑った。温度のない爬虫類の笑み。初めてアンシェラが真に感情を露にした。




