捌拾 迫りくる脅威
「何故あの人がここに?」
部屋の入口に立ち、黙って自分たちを眺める武蔵に気づいたベルが疑問を口にした。ユーリはベルの胸に埋めていた顔を上げ、恥ずかしそうに袖で涙を拭う。
「ムサシが君を助けてくれたんだ」
「私を助けた?それはどういう......」
アチェロは当惑するベルの言葉を遮り口の前に人差し指を立てる。
「何か聞こえないか」
ベルもユーリも耳を欹てた。女の聴覚が微かに何かの音を拾う。
「......悲鳴?」
ベルの言う通り人の叫ぶ声が遠く聞こえた気がした。追手か?確信はなかったが今はあらゆる事を自分たちと関連付けて考えるべきだ。とするならば事態を把握しておくべきだろうとアチェロは思考する。
「様子を見てくる。ベルとユーリはここにいてくれ。ただ何時でも逃げ出せる準備はしておいてほしい。ムサシ二人を頼んでも?」
「暫しの間ならば」
扉へ向かう途中、すれ違いざま足を止め、武蔵にのみ聞こえる声でアチェロは囁く。
「もし私が一時間経って戻らなければ強引にでも二人を連れて街から脱出してくれ。ベルの意思に反してもだ」
「何やら勘違いをしておるようだ。俺はお主らの朋輩でも仲間でもない」
武蔵の返答はにべもない。
「分かっている。これは依頼だ」
落胆する様子もなくアチェロはベルから見えないようにして懐から大事そうに紙を取り出す。
「これはイグニス金貨30枚分の小切手だ。何時かこういう時が来ると思い貯めていたものだ。もっとも考えていた以上に早くて大した額にならなかったが。半分を貴方に、もう半分は当面の生活費として彼女たちに渡して欲しい」
武蔵は何も言わずアチェロを見据えている。懇願する青年の目があった。
「貴方ほどのマナ使いを雇うには少ないかもしれない、しかし頼む。ベルとユーリの命を救ってくれ。近くの村か街で放り出してくれればいい」
「お主の先ほどの話しぶりから、あの娘はここを離れることを良しとしていないのであろう。無理に連れ出しても戻ってくるだけではないのか」
「それなら大丈夫だ。彼女はユーリを置いて一人戻るようなことはしない。無論危険があるのに連れ帰ることもな。こういう言い方は良くないがユーリにはベルの枷になってもらう」
武蔵はアチェロから寝台のベルへと視線を移す。鋭い光を湛えた黒い双眸で射貫くように見る様は、女の深奥を覗くようであった。青年はじっと異邦の剣士の答えを待つ。武蔵はアチェロに視線を戻した。
「よかろう、この依頼受けようではないか」
「感謝する。ではこれを預けておく」
ほっとしたような表情を浮かべ小切手を武蔵へと差し出した。
「良いのか。報酬だけを受け取り二人を置いて行くかもしれぬぞ」
「貴方は金に重きを置いてないだろう、それに目を見れば分かる。一度口にしたことを反故にするような人間ではないとな」
「ふん」
武蔵は口の端を上げる。
「無理はせず戻ってくることだ」
「そのつもりだ。私もみすみす死ぬような真似はしないさ」
「アチェロ......?」
何やら深刻な様子でぼそぼそと話している青年を見てベルが不安げに声をかける。
「大丈夫だ、何も心配することはない」
アチェロはベルに向かって微笑むと背を向ける。隠れ家の戸を開けると空が焼けているのが見えた。同時に鼻が微かな焦げ臭さを感じ取る。日の出にはまだ早い、訝し気に目を凝らせばそれは太陽の赤ではなく燃え盛る火の赤であった。遠くに見えていた炎が黒煙を立ち昇らせ、熱気と共に見る見るうちに迫ってくる。
自然のものではない強風が貧民街へと吹き込んで火を大きく煽っていた。炎の海に飲み込まれようとしている大勢の人間が奏でる喧噪が、赤く焼ける夜空に重く響き渡る。アチェロは慌てて部屋に戻ると声高に叫んだ。
「ベル、ユーリ!!ここはもう駄目だ、逃げるぞ!!」
「何があったの?」
「火事だ。おそらく人為的なものだろう」
「人為的?どういう事?」
目撃情報から虐殺の咎人が貧民街へ逃げ込んだと推測し、炙りだすために警吏が火を放った可能性があるということは黙っておく。今はベルを刺激したくない。
だがここまでやるのだろうか、これではこの街区の人間に多大な犠牲者が出る。もしこの火事が警吏の仕業ならば自分が考えていた貧民区の一掃という予想が当たっていたということになる。しかしグスタヴォが通じていたのは伯爵ではなく息子のフェリシアンであったはず、分からない。そうこう考えているうちにも辺りを照らす紅蓮の赤色が大きく強くなっている。
「今は話している時間がない。物凄い勢いで火が広がっている、早く逃げなければ我々も巻き込まれてしまう」
「分かったわ」
ベルが言って床に足を下すが上手く立てずに膝をついてしまう。アチェロが駆けより、体を支えると逞しい背を向けた。
「私に負ぶされ。ユーリ、絶対に私から離れるなよ。ムサシ」
少年は唾を飲み込むと大きく頷いた。アチェロはベルを背負うと無言で佇む武蔵に声をかける。
「では行くぞ」
外に出ると隠れ家の直ぐ傍まで火の手が迫っていた。恐ろしい速さであった。ちりちりと焼けるような熱気と鼻を衝く匂いが既に辺りに充満している。整備されていない通りには人はまばら。混乱と恐怖に顔を歪めながらどうしていいか分からず右往左往している。市街地と接する貧民区の北西から、郊外に繋がる南東へと炎の波が打ち寄せようとしていた。
アチェロは炎が迫ってくる方向とは逆を目指す。避難する方向を固定した罠の可能性が高いが他に手段がない。だが僅かも行かないうちに大勢の人々が駆けてくるのが見えた。皆着の身着のままで逃げ出してきたのだろう、ひどい有様で靴を履いていない者も多い。脇に逸れたアチェロたちの前の通りを、必死の形相で羊の群れのごとく走っていく。アチェロがその中の一人を捕まえる。
「どうした!!何故戻ってくる!?」
「あっちは駄目だ!あっちからも火の手が上がっている!!」
「......なんだと」
それでは逃げる道が残されていないことになる。虐殺の咎人を炙りだすどころではない、殺しに来ているとしか考えられなかった。男は「とにかくあっちは駄目だ」と言って逃げていった。
武蔵が視線を横に向ける。一拍遅れてアチェロとベルは強い魔力を感知する。何者かの魔法が発動されようとしていた。
「ユーリ、逃げろ!!」
アチェロが膝を撓め後方へと跳躍、魔力に目覚めたばかりで未熟なユーリが逃げ遅れてしまう。「ユーリ!!」アチェロの背から伸びたベルの手が空しく宙を掴む。
直後。
直線状に伸びた太い炎の帯が通りを駆け抜け、逃げ惑う人々を一瞬にして飲み込んだ。空気が膨張し風圧と熱波が回避したアチェロたちを襲う。十数秒放射され物質界への干渉時間の限界と共に消滅。後に残ったのは煙を上げ燻る黒く焦げた人々の残骸と肉が焼けた臭気。高温で炙られた通りが陽炎に揺らめく。
「......ユーリ」
アチェロの背からベルの呆然とした声が地面に落ちる。直撃こそしなかったものの火炎放射の魔法の余波でユーリも無事ではすまないはずであった。しかしユーリは立っている、そしてベルの声に振り返った姿は先ほどと何も変わっていない。
「え?俺......?」
両手を広げ己の無事を確かめる少年の前では武蔵が刀を鞘に納めているところであった。アチェロには幾度目かの、そしてベルにとっては初めて見る武蔵の力。
「ユーリ!!大丈夫なの!?怪我はない?」
悲鳴のようなベルの叫声が火の爆ぜる音の中で響く。
「うん」
少年は頷き、己の前に立つ武蔵の背中を呆然と見つめていた。ユーリの無事を確認するとベルは安堵の深い息を吐き、困惑する表情でアチェロへと問いかける。
「アチェロ、ムサシは何をしたの?魔法結界?でもムサシはどう見ても前衛よね......?」
「信じられないがムサシは魔法を斬る事が出来るようだ」
「魔法を斬る?そんな事が?......星階位のマナ使いが己の魔力を込めた武器で魔法を無効化できるとは聞いたことがあるけど」
「マゼニア教官が言っていたね。当時は法螺話だとばかり思っていたが、実際に目の当たりにしたときは信じられなかったよ」
ベル、ムサシは君の魔法を斬ったのだとは言えなかった。普段ならばアチェロの目の当たりにしたときはという、既に見たことを示唆する言葉に引っかかっていたはずだが、驚愕する今のベルには気づく余裕がない。
「じゃぁ、ムサシは星階の住人?」
「そういう事になるな。私など及ばぬわけだ」
アチェロが自嘲的に口を歪めた。武蔵は陽炎が収まりつつある路上に立ち、魔法が発動された方向を向いている。そんな武蔵を畏怖と憧憬が入り混じった顔でユーリは見上げていた。アチェロの肩を掴んでいるベルの指に力が籠められる。
「ねぇ、アチェロ」
打って変わって無感動な声が背中からアチェロの耳に届く。
「また沢山の人が死んだわ」
ベルの視線が通りを埋め尽くす炭化した人々の躯に注がれていた。ざっと見ただけでも百体を越えている。ついさっきまで生きていた人々が煙を上げ、黒い塊になっているのは悪い冗談にも思えた。
「何故こんな事が出来るのかしら......何故人はこんなにも簡単に人を殺せるの?」
「それは人だからだよ。人間だからこそ出来るんだ、ベル」
ベルの指に更に力が加えられる。痛いほどであったが青年は何も言わず女の言葉を待った。
「......人の内にはかくも深い闇が潜んでいるのね......きっと私の中にも」
それきりベルは黙り込んだ。アチェロも無言であった。物が焼ける音と火勢の響きに交じり、金属と金属が擦り合う音が耳に届く。甲冑の音であった。重なって響く音が複数であることを示している。黒煙の中から赤い全身甲冑を纏った集団が現れる。通りに立つ武蔵と対峙、距離を開けて足を止めた。赤甲冑を着た六人の前衛の背後に、赤い衣装を着た四人の後衛という構成。
武蔵の背後で隠れるように見るユーリの目には、大きな炎を背にした集団はより一層不気味に映った。先頭に立つ蠍を模した兜の面甲を上げた男が、正面に立つ武蔵とユーリを一瞥してから辺りを見回し、脇道の青年と背負われる女を捉える。水晶を介した同調の魔法によって見せられた顔と一致していた。
「アチェロとベルだな?」
男の低い声が路上に落ちて響いた。アチェロは警吏虐殺の咎人が既に発覚している事を知った。




