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武士 異伝  作者: 弁鳥有無
降誕編
8/104

漆 邂逅

 青年は目の前で繰り広げられた男の戦いに魅入られていた。

 巨大蟻の強固な外殻を難なく切り裂き、大きな身体を軽々と投げ飛ばしたその力に。

 五匹もの蟻を流れるような動きで、掠り傷一つ負うことなく倒して見せたその技に。

 驚きと興奮を飲み込み、男に声をかけるべく結界を出ようとした所で獣の咆哮が青年の全身を打つ。

 辺り一帯に響き渡る、激しい怒りを含んだ吼え声であった。

 青年は圧倒的な力が込められた、その声に身が竦み動けない。

 あいつが来た。小刻みに揺れる、手首から先がない左腕を右腕で抑えるように強く掴み、恐怖が大半を占める思考の内でそう思った。怖気づいた自分が許せず、音が立つほど奥歯を噛むが全身の震えは止まらない。青年には結界の中からこれから起こるであろう出来事を見守る事しか出来そうになかった。


 異国の衣装を纏い、異国の武器を携えた異相の男と、何処からか現れた異形の獣が対峙していた。

 男が見上げる先にいるのは、一丈を大きく超え、太く長い手と大地に根ざした巨木の様な足を持つ、全身を白い体毛に覆われた大猿であった。その大猿が顔を醜く歪め男を威嚇している。

 その瞳には理知的な光が垣間見えるも、今は怒りの炎が燃え盛る。

 自らが仕向けた蟻が簡単に倒された事に腹を立てているらしい。

 大猿の周囲の景色がゆらゆらと陽炎の如く歪んでいる。気であった。

 獣が気を放っている。男が思わず息を呑むほどのものだ。

 蟻など比べ物にならぬ恐るべき敵であった。

 大猿が大きく振りかぶり手に持っていた何かを投げつける。凄まじい速さで迫るそれを、男は下から撃ち上げるように弾き飛ばした。腕には重い痺れ。

 二つに分かたれた何かは大地に落下する、見れば蟻の幼体であった。

 恐らくこれを使って蟻を仕向けたのであろう。

 大猿は不満そうに身体を掻いていた。その間も獣の目は男から離れない。

 男の身体に気が満ちていく、獣の射殺すような視線を受け体が瞬時に反応する。


「おきゃきゃきゃきゃ」


 絶叫と共に大猿が飛び掛かる。大猿の背後で地面が爆ぜるように土煙が舞った。一瞬で距離を詰め、刃物の様な爪で削る様に、長い手を振ってくる。大猿の恐るべき瞬発力に男はかわしきれぬと見て、防ぐのではなく前へと踏み込み身体を内側へと捻った。

 前進した事により強靭な爪ではなく手首での打撃が肩を打つ。威力は削がれ、厚い肉を持つ肩で受け止めた、筈であった。


 男の両足は大猿の打撃に耐えきれず、大地を離れて吹き飛び、数間先の巨樹へと激突していた。

 海老反りになった後、大地へと叩きつけられる。

 巨樹の幹が人型に抉れていた。


「ぬはっ」


 余りの衝撃に肺の中の空気が残さず漏れる。


 刹那の間、意識が途切れる。

 なんという力か、それは男の生涯でも味わったことの無い人外の力であった。

 朦朧とした意識の中、震える両足を何とか立ち上がらせると全身に力を入れ傷を確かめる。

 打たれた肩の感覚がまるで無かった、弾け飛んでしまったかと思い確認すると、かろうじてあるべき場所に存在していた。

 肩から肘、手首そして指先は動く、骨折はしていない。

 巨樹に衝突した際に負った傷は全身に及んだ、だが動きに支障のある致命的なものは無いようであった。


 大猿は男を吹き飛ばして多少の溜飲が下がったのか、追い討ちをかけることも無く、両手足を打ち合わせて跳ねている。

 その大猿の姿が一瞬にして消えた。

 男に向かって跳躍、空中で前転し握り締めた両拳で天空より鉄槌を下す。

 完全に虚を突かれた男は避ける暇なく刀の峰を左手で押さえ頭上からの攻撃を防ぐ。

 異常な力に巨猿の体重が加わり、刀ごと大地へと叩き伏せられた。

 先程とは比べようも無い衝撃が全身を襲う。意識が完全に飛んだ。

 大猿はうつ伏せで、大地に埋まる男を楽しそうに眺めると、またしても追撃をせずに距離をとる。両手を上げたまま、身体を右左へと反転させ、足は地面を太鼓の腹に見立てた様に拍子良く踏みしめていた。大猿の謎の挙動。


 刃を叩いた筈の手はだが傷ついた様子はなく、止めを刺さずに距離を空けるのは、少しずつ嬲るように仕留めるつもりだからだ。

 獲物が立ち上がるのを待つ巨猿の目は嬉々としている。

 漸く意識が戻ったのか、男がよろめきながら刀を支えに身体を起こす。焦点の合っていない黒い瞳が大猿を捉えた。

 絶望的なまでの力の差を見せ付けられても尚男の目は死んでいなかった。 

 口が歪む。


「く、くく」


 男は嗤っていた、歓喜と憤怒が混じった奇妙な笑いであった。

 額を伝って太く赤い蛇が顔を濡らす。

 ふらつく頭を上げ、嫌な笑みを貼り付けたまま男は大猿と再び対峙する。

 未だ焦点の定まらない目は意識の混濁を思わせた。

 朧げな意識の中、男は思う。

 これだ、自分はこの様な圧倒的な力との闘いを望んでいたのだ。

 これほど一方的に叩きのめされた事が嘗て一度でもあり得たろうか、いや無い。

 不甲斐ない己への憤怒と、目前の敵への畏怖、称賛、そしてそれらを上回る高揚。


 今正に自分は死地にいる。生と死が同じ場所に同居しているのだ。

 だからこそ面白いではないか。

 歪んだ口元から血が滴り落ちる。


 少しずつ、少しずつ高まっていく、男から放たれる気が高く高く。

 巨猿は面白くなさそうに威嚇するが、攻めようとはしない。

 大地に叩き付けてやった小さきものの先程までとは全く異なる様子に、獣の研ぎ澄まされた感性が警戒を促す。

 大猿は足元から石を拾うと男へと向かって投げつけた。

 恐ろしい程の速さで男へと迫る石はだが当たることは無かった。

 すり抜けるように男の背後の巨木へと大きな音を立てて衝突する。太い幹には大きな穴が開き、貫通していた。


「ぎ」


 何故当たらなかったのか疑問に思った大猿の目の前に男が迫っていた。巨猿のほんの僅かな意識の隙を衝いたのだ。

 男の刀が横一閃、大猿が反射的に後ろへ飛び退くが右足を浅く切り裂く。剣を握る手には硬く柔らかい、相反するものを斬った感触。更に男の追い討ちが大猿を襲う。

 左腕を掲げ一撃を防ぐ、大猿の身体を覆う白い体毛は鋼の様に堅かった。密集した毛が刀の勢いを削ぐ。巨大蟻の鉄のような外皮をも容易く両断した男の刀が体毛と桁外れの筋肉で覆われた太い腕に弾かれる。

 大猿が右腕を男へと力任せに振り下ろす。

 轟音と共に男に当たる、様に見えたが、またもすり抜け大地へと激突、陥没し土煙が上がる。

 男は気を練っていた。この大猿を切り伏せるにはまだ気が足りないのだ。

 更に強く高く。

 大猿は両手両足を我武者羅に振るう。その動きは人の技には無く、千変万化でとても捉えられるものではなかったが男には当たらない。

 顔は赤く染まり、今にも倒れそうなほどふらついているにも拘らず、何故か攻撃がすり抜ける。

 それが大猿を苛立たせる、しかも時を追う毎に目の前の小さく生意気な生き物が大きく見えるようになっていた。こんな筈ではなかった、何時もの様に嬲り殺しにするつもりであったのに、この小さきものは二度も攻撃に耐え、そして今自分を撹乱している。

 気に入らない、気に入らない、気に入らない。


「うきゃきゃきゃきゃきゃああああああああああああああああああ」


 大猿が吼える、吼えた身体からより強大な気が膨れ上がった。

 まだ本気ではなかったのだ。

 あまりの気に猿を包む大気が揺れていた。

 本気になった大猿を前にしても男は平然とし構えも取らず、両腕をだらりと下げ三度みたび対峙する。

 男の限界は一歩づつ確実に忍び寄っていた。

 人外の力を持つ大猿の攻撃は触れるだけでも致命的なものになりかねない。

 一撃一撃をかわしていたとは言え、その作業は確実に男の精神を削っている。

 また大猿による二回の打撃は本人が思った以上に男の身体を蝕んでいた。

 限界を迎えるまで、もうどれほどの時間も残されていないだろう。

 だが男は動かず、大猿も動かない。どちらも動かず時だけが過ぎてゆく。

 どれほどの時が経ったのか、男が先に動いた、無造作に大猿へと歩む。

 殺気も何も無くただ歩き、そして大猿の懐へと辿り着く。大猿は動かない。

 男は風が流れる様に上段へと構えると、ただ刀を振り下ろした。それはとても自然な動きであった。

 大猿はこれを狙っていた、男に攻撃が当たらない、だから先に男に刀を振らせ弾く、出来た隙に全力の一撃を叩き込む算段であった。

 男の振る刀を、先程と同じ様に左腕で防ごうとした、己の頑強さに絶対の自信があるからこそ出来る防ぎ方であった。

 しかし今回は何時もと勝手が違った。鋼の体毛と太く強い筋肉で弾くはずが、男が振った武器は大猿の腕を通り抜けていた。

 一泊遅れて熱さが、次いで激痛が走った。白猿の太く逞しい脚が思わず退く。


「おっきゃああああああああああああああああああああ」


 大猿の右腕には深い傷が刻まれていた。白い体毛がみるみる紅く染められてゆく。

 痛みのあまり絶叫が木霊する。

 伏せていた男の顔が見えた、楽しくてたまらないと言った笑みが浮かんでいた。

 大猿は怒りで痛みを忘れた、その笑みは強者の自分に向けていい笑みではなかった。それは強者が弱者に向ける笑みであった。


「っきゃあああ」


 左足で地を蹴り小石の礫で男の視力を奪う。

 跳躍し、空中前転、左足の鉤爪が男を頭上より襲う。

 視界を塞ぎ、その上で捉えられにくい上からの攻撃を繰り出す、大猿は怒りの中でも勝利に向けて冷静であった。

 しかし左足が男を切り裂く事はなかった、またもすり抜けてしまう。

 大猿は更に半回転し右手で男を叩き潰そうと振り下ろした。二段構えの攻撃であった。

 何処かに当たったと思しき重い衝撃が右手を震わせる。着地。

 見れば男の身体が勢いを殺しきれず流れていた。

 男が刀で防いだ事によって右手の鉤爪が綺麗に切り取られていたがそんな事はどうでもいい、男は今大きな隙を作っている。

 巨猿は天高く両手を握り大きく背を反らせる、先程傷つけられた右腕の傷が痛むが意に介さない。寧ろその痛みが怒りに変わり更なる力を生み出す。

 限界まで引き絞った弓の如く人外の力が解き放たれた。

 男へと天空より巨人の鉄槌が振り下ろされる、体勢を崩していた男に避ける術はない。

 凄まじい衝撃が猿の身体を伝う、勝利を確信していた大猿の目が驚愕に見開かれた。

 信じられない光景を其処に見る。

 小さきものが両腕を交差して頭上に掲げ己の両拳を受け止めていたのだ。

 男の両足が踏みしめる大地を大きく穿つ。

 大猿の眼下には己を飲み込まんとする強大な力が迸っていた。


「ぬぁっ」


 男の身体が撓み、大猿の両拳を跳ね上げる。

 圧倒的な体格差のある獣の身体が天へ向かって弾かれた。

 大猿の目には驚き、そして疑問の光。

 何故自分の渾身の一撃が小さきものに受け止められたのか、何故小さきものに大きく身体を崩されるのか。

 生まれてより常に強者であった大猿にとって今までに味わったことの無い状況であった。


 血に濡れた男の双眸が鋭く光る。

 勝機。


「っつええぃ!!!」


 眼前の強敵を上回る気を収斂、刀へと注ぎ、無防備となった白猿へと刀を凪ぐ。その横一閃で硬い体毛も強靭な肉体も妨げとはならず深く裂かれ腹部から腸が顔を覗かせる。

 返す刀で打ち下ろし腹から股間までを断ち割った。

 十字に裂かれた腹からは血と腸と共に他の臓器も零れ落ちる。

 瀕死となった大猿の目には未だに疑問の光が燈っていた。


 巨猿の口から吐き出された大量の血が男を塗らす。

 気を振り絞り刀を振った後の、ほんの僅かな隙、気の緩みであった。

 そこへ吐血という意識の外からの攻撃が襲った。

 男の視界が血によって塞がれる。

 それは大猿にとって思いがけない最後にして最大の好機となった。

 意識は既に朦朧としていたが野性の勘が大猿にその機を逃させない。

 肺の中の空気と共に残された力を解き放つ。


「おっきゃぁあああ」


 全身から掻き集めた最後の力を振り絞り両の手のひらで男を打った。

 男の身体が、凄まじい速度で人の物とは大きく異なる分厚い手に挟撃される。

 衝撃は挟まれる事で逃げ場を失い男を何重にも打つ。

 男の体の骨を確かに砕いた感触が大猿の手の平から脳へと伝わった。


 とうとう憎たらしい小さきものを屠ったのだ、大猿は歓喜の雄叫びを上げたかった。

 だが可笑しな事に声が出せない。辺りが暗く闇に覆われ、急速に大地が迫ってくる。

 目の前に地面が立ち塞がり前へ進めなくなっていた。

 何物かの気配がし、緩慢な動きで視線を向けると小さきものが見下ろしていた。


 自分を見下ろす顔には寂獏とした表情が浮かんでいる。

 もう終わりなのかと物足りなさそうにも見える。

 骨を砕いてやったはずなのに何故見下ろしているのか。

 負けたくせに何故そのような顔をしているのか。

 疑問の光を目に灯したまま大猿の意識はそこで途絶えた。

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