漆拾捌 斬
太陽が傾き、その姿を徐々に地平線の彼方に隠そうとしていた。赤く照らされる街路には一心不乱に警吏の屯所を目指す青年の姿があった。アチェロであった。ベルによって無力化されたアチェロであったが、何とか意識を留め力が抜けてしまった体を奮い立たせると、建物の傾きを目印に後を追っていたのだ。大地の痕跡からベルの向かった先が警吏の屯所と目星をつけていた。
未だ本調子ではない体を懸命に動かしどうにか辿り着く。常なら門番として数人の警吏が立っているのだが、屯所の出入り口には誰もいない。それどころか大勢の警吏が詰めているはずが、まるで人の気配を感じなかった。耳を澄ませば微かに人らしき声がする。アチェロは喉を鳴らすと屯所の門を潜った。
「あひゃひゃぁああぁぁ、るぅうららぁぁぁぁぁぁ......」
屯所内に入った途端、意味をなさない男の高い声が耳に届く。何度か訪れた事があるアチェロの記憶では、声が聞こえてくるこの先にあるのは訓練場を兼ねた広場の筈であった。全身の神経を敏にして慎重に歩いていく。広場についた青年が見たものは全裸の男が狂ったように踊る姿であった。ただの全裸ではなかった。全身の皮が剥がされ、筋肉が剥き出しの状態となっている。桃色の筋肉の筋がぬめぬめと光る様は、アチェロに言い知れぬ嫌悪感を齎した。
僅かな風が触れるだけで激痛が襲うらしく、その度に体をくねらせる。大地を踏む足の裏でも疼痛が伴い、少しでも痛みから逃れようと右足と左足を交互に宙に浮かせている様は何かの舞踏にも見えた。既に気が触れているようで、瞼のない目からは光が失われ、笑いとも悲鳴ともとれる声が涎と共に口から絶えず漏れ続けている。
それを愉快そうに見つめるベルがアチェロの視界に入る。更に少し離れたところでは貧民街担当の太った警吏が、尻をついたまま呆けたように桃色の男を見つめていた。
「......ベル、君はベルなのか?」
アチェロはベルの姿をした赤い女に語りかけた。女は桃色の男から青年へ視線を移すと何も言わず、見る者の背筋を凍らせる微笑みを浮かべた。
「アァ、アチェロ、この女をどうにかしろっ、こっこれは命令だ!!」
青年に気づいた警吏が、必死の形相で唾液を撒き散らしながら大声を上げた。だがそれは赤い光を纏った女の注意を引いてしまう。虫でも見るかのような無機質な瞳で、警吏を突き刺すように指をさした。悲鳴を上げ震える警吏。アチェロは体が硬直してしまい見ている事しか出来ない。指先に呪紋が発現、女の口が開きかけるが、そこで動きが止まる。
ゆっくりと入口を振り返っていた。アチェロも警吏も吸い寄せられるように視線を向ける。男がいた。異国の民族衣装を纏う黒づくめの男だ。獣のような黒い双眸が炯々としていた。
異国の男、武蔵は異形の女へと凹凸の激しい地面に足を取られることなく近づいていく。ベルは警吏を指していた指先を武蔵へと向け魔法を発動。武蔵は何時の間にか腰から抜いた刀を何もない空間へ一閃する。何も起きない。アチェロは何が起きたのか分からない、警吏も分からなかった。
「貴方、斬ったというの?私の魔法を......」
ベルの瞳が驚きの光を宿していた。直ぐに目から感情の色は消え、眉根に皺を寄せ武蔵を憎々しげに睨みつける。ベルの口が開き言葉を紡ぐと、足元を中心に赤い円が生まれ一気に辺り一帯に広がっていく。飲み込まれる寸前、武蔵が逆手に握った刀を無造作に地面に突き立てる。赤い円が消滅。またしても何も起こらない。ベルは唇を噛むと思わず目前の異国の男へと問うていた。
「その剣......」
「鬼丸国綱」
地に刺さった刀を引き抜くと武蔵がぼそりと低い声で答えた。ベルは忌々しそうに緩く反った片刃の刀、鬼丸国綱を見る。名には力が宿るという。異国の男が口にしたその銘からは底知れぬ強大な魔力が感じられた。ぎりっと歯軋りをしたベルの胸元では真紅の光が溢れるように輝きを増した。光と共にベルの魔力が増大する。世界を呪うかのような旋律が謡われ、ベルが立つ地面に魔法陣が描かれてゆく。武蔵は攻撃の好機にも、ただ嬉々とした光を宿す黒い瞳でベルを見据えるのみ。魔法陣が眩い光を放つと瘴気とでもいうべき黒紫の気体が大量発生、触れた大地を忽ち腐らせてゆく。アチェロと警吏は慌てて避難。ベルはだらりと鬼丸国綱を下げて立つ武蔵へと手を翳した。
「腐瓦海黒斯紫食菌」
腐食の気体が鎌首を上げ、意思を持ったかのように武蔵へと襲い掛かった。日の光を遮るほど広範囲に渡った黒紫の霧が、上下左右からその顎に武蔵を飲み込むかに見えた瞬間、鬼丸国綱が切り上げられる。
一振りで霧が爆散、青い光の雨を降らせ魔法陣諸共消滅した。光が散乱する中、武蔵は風の流れのように踏み込み、驚愕の表情を浮かべたまま己を凝視するベルの頭上に鬼丸国綱を打ち下ろす。縦一閃。警吏の持つ剣を錆びつかせ破砕した赤い光を切り裂き、ベルの体を断ち割ったかに見えた。前の空間を薙いで残身、右手に握る鬼丸国綱は陽炎のように大気を歪ませながら健在だった。護るようにあった赤い光は消え去り、ベルは糸が切れた人形のように大地に倒れ伏す。
「ベル、そんな......」
目の前で愛する女が斬られる様を、見ている事しか出来なかったアチェロの瞳には絶望の色だけがあった。魂が抜けたようなアチェロを他所に、武蔵は崩れ落ちて微動だにしないベルを仰向けにし、刀の刃先を貫頭衣の胸の部分に当て臍まで引く。鬼丸国綱を鞘にしまうと膝をつき縦に切れた貫頭衣を左右に捲った。女の白い裸体が露となる。
「き、貴様、一体何をしている!?死者を辱める気か!!」
武蔵の行動で虚ろだった目に光が灯り激高するアチェロ。
「死んではおらぬ」
ベルの胸元に手を翳しながら答えた武蔵の言葉を理解するのに、アチェロは多くの時間を要した。
「......本当か」
青年は自分が九死に一生を得たかのように呟く。覇気を取り戻したアチェロは剣を抜くと武蔵へと突きつけた。
「では尚更だ、ベルから離れてもらおう」
「これを見よ」
ベルに視線を落としたまま、アチェロの脅しをまるで意に介さず武蔵が言った。その言葉に抗い難いものを感じ、剣を向けたまま近づいてベルの姿を捉えたアチェロの目が大きく開かれる。
「これは......」
ベルの形のいい左右の乳房の間に赤い石が皮膚と同化しているのが見えた。心臓の鼓動と呼応しているのか赤い明滅を繰り返している。胸が薄く上下しているのを見て心の底から安堵する、と同時にベルの変貌の原因らしき赤い石に目が釘付けになる。
「魔石......?ベルがかけていた首飾りなのか、何故皮膚に埋まっているのだ?」
アチェロの疑問に何処からも答えは返ってこない。
「これのせいでベルは変わってしまったのか......?」
「生きているのか!?こ、殺せ!!その女は危険だ!!み、見ろッ、俺の同僚を皆殺しにしやがった」
アチェロの独白を遮り、耳障りな男の声が人のいなくなった広場に響き渡った。その言葉にアチェロは初めて気が付く。静寂が包むこの場所に数十体もの死体が散乱してることに。どの遺骸も苦痛に歪んだ顔で血だまりに沈んでいる。アチェロは顔面を蒼白にし混乱している警吏の胸ぐらを掴むと、強引に引き寄せ両目を見据えた。そして視界の端で踊り続ける桃色の男を指さす。
「聞きたいことがある。あの男は誰だ?そして何故貴様は生かされていたのだ?」
「あ、あ、あれあれ」
「落ち着け」
「あ、あれはグスタヴォだ。......何か、知らないがベル、ベルに許しを請うていた。俺、は奴の近くにいたから助かったのだろう」
つっかえながらも答えた警吏の言葉から、アチェロは子供たちを惨殺したのがグスタヴォだったと確信した。何らかの理由でベルはグスタヴォの仕業だと察したのだろう。皮膚が剥がされ肉がむき出しの姿はベルの復讐だったのだ。アチェロは広場の端で奇妙な踊りを続けているグスタヴォに近づいていくと持っていた剣で首を刎ね飛ばす。断面からは噴水のように血が空高く上がり、手足が奇妙な動きをして最後の踊りを踊る。倒れるのを見届けることなく背を向けた。子供たちの敵はとった、だが失われた命は戻ってこない。グスタヴォに惨殺された八人の幼い顔が思い浮かぶ。アチェロはやりきれず天を仰いだ。重い足取りで戻ると困惑の表情で立つ警吏の喉元にグスタヴォの血で濡れた剣先を当てる。仰け反って剣から逃れようとする肥満の男。
「他に何か言っていなかったか?」
「何か?何も......そ、そうだ、フェ、フェリシアンに唆された、と。そう言って、いた」
「くっ......」
青年の顔が苦しみに耐えるように歪む。あと一日早く行動できていれば子供たちは死なずに済み、ベルも可笑しくなることはなかったと思うと悔やんでも悔やみきれなかった。
「フェリシアンは何処にいる?死んだのか」
「お、俺は知らない、ここにはいなかった」
アチェロは怒りを抑え込み必要な情報を聞き出す。黙って傍観していた武蔵が口を開いた。
「大勢の気が此処へと向かっておる。あの娘を連れて逃げるのならば早くしたほうが良かろう」
武蔵の言葉に、街を警邏していた同僚か、或いは西の屯所の連中が異変を察知し応援に駆けつけてきたのだろうと察した警吏の顔には安堵が浮かんだ。同時に虐殺の恐怖が蘇る。
「い、今のうちにベルを始末しろ、アチェロ。そうすれば悪いようにはしない、そ、そうだ!!俺たちが味方に付こう、約束する。貧民街区はこれからもお前のもんだ!!」
青年がまじまじと警吏の脂ぎった引き攣る顔を見る。
「分かった」
そう言ってアチェロは目の前にある脂肪の厚い腹へと剣を差し込んだ。深々と刺さった剣を更に捻じる。肉が締まり剣を抑えつけるが、力づくで引き戻された剣身には腸が巻き付いていた。警吏の口から黒い血が溢れ、疑問と苦悶を同時に浮かべた顔から地面に倒れる。大地と俯せになった顔の間から声にならない苦痛が漏れていた。一般の者なら即死の傷でも、魔力によって強化されたマナ使いの肉体が永久の眠りにつくことを許さない。アチェロは地面へと剣を走らせ太い首を胴体から切り離してやる。
冷ややかに死体を一瞥、剣を払い血糊と腸を落とすと鞘にしまった。太った男を生かしておけば虐殺をしたのがベルだと証言する、そうなれば警吏は面子にかけてベルを殺そうとするだろう。死んでもらうしかなかった。何れ発覚するにしても今は時間が惜しい。アチェロは愛する女のためならば何処までも非情になれた。未だ気を失っているベルを肩に担ぐと武蔵を見る。その眼には先ほどまでの敵意はない。
「貴方はどうする?」
「お主らについていこうではないか」
アチェロは頷くと一歩を踏み出そうとして止め、振り返る。
「ベルを止めてくれたこと、そして命を奪わないでくれたことに心から感謝する」
「礼には及ばぬ」
武蔵の言葉は素っ気ない。気にすることなく青年は前を向き屯所の入口へと歩き出す。その後ろでは、赤く焼けるような夕日を背に異国の男が嗤っていた。それはこれから起こるであろう更なる惨劇を予感させる暗い愉悦の笑みであった。




