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武士 異伝  作者: 弁鳥有無
失われた神々
78/104

漆拾漆  覚醒

 どくん。

 心臓の鼓動が聞こえる。

 どくん。

 心臓の脈動が聞こえる。

 時の流れは遅くなり、開いた扉の先では限りない悪意が顔を覗かせる。

 赤い地獄が広がっていた。

 全ての感覚は遮断され、世界は音もなく崩れ去る。

 時は完全に止まり、絶望が湧いて出た。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 女の絶叫と共に赤い光が生まれ、部屋を深紅に焼きつくす。部屋から溢れ出た光が野次馬を飲み込み、周囲一帯をも赤く染め上げた。正気を失った女の胸元で首飾りが禍禍しいまでに赤く、紅く輝きを放っていた。

 深紅の魔石がベルの絶望に呼応して、狂乱の女神となったヴェルキュリアの力の一端が覚醒したのだ。ベルの放つ強大な魔力が一瞬で街を伝播する。それはエルボヌエルグにいる全てのマナ使いが察知出来るほどの魔力。何が起きたのか事態を把握出来ない者たちの視線が街の一点に集中する。そんなマナ使いに混じり、路傍に立って孤児院の方角を見る異国の男の黒い瞳は、愉悦に炯々としていた。


 途轍もない魔力の波動を感じたアチェロが惨劇の部屋へと駆け込んでいく。


「ベル!!」  


 アチェロが目にしたのは赤い光に覆われた女の姿であった。ベルであってベルでない、赤い輝きを放つ目前の女がアチェロには全く別の存在に感じられた。ゆっくりと振り向いた瞳には、今まで一度も見たことのない憎悪の光が爛々と湛えられている。人のものとは思えないその視線に、背筋が凍りつき動けなくなったアチェロに向かって、異形と化した女は手を翳す。瞬間、体から力が失われアチェロは膝から崩れ落ちた。

 両手を広げ瞑目するベルの口から低い旋律が漏れると、瞬く間に魔法式が構築され室内を覆い尽くす。呪紋が浮かび上がり魔法が発動。床が一瞬で腐り落ち、泥濘と化した大地が露出する。赤い光を纏ったベルは、沸騰するように泡立ち始めた地面に沈んでゆき、やがて完全に泥濘の中へと姿を消した。泡立つ大地の痕跡は凄まじい勢いで北西へと延びていき、その途中にある建物は悉く沈下していった。





 グスタヴォは心ここにあらずといった感じで酒を呷っていた。屋外に置かれた食卓の上には既に空になった酒壺があり、その横には新たな酒壺が置かれている。どれほど飲んでも全く酔えない。幾らアチェロやベルが憎いからとはいえ、何故あのような事をしてしまったのか自分でも理解出来ずにいた。目を閉じれば瞼に焼き付いたように、悍ましい光景が鮮明に蘇る。

 熱に浮かされたように全身を幼子たちの返り血で赤く染め、息を弾ませながら血の海に一人佇んでいた。さも可笑しそうに笑う声で我に返り、周囲を見渡して己が仕出かした事に愕然とする。今でも悪魔のような笑い声が耳から離れない。逃げるように孤児院を飛び出し、水浴びをして体中にこびり付いた血を洗い落とすと漸く停止していた思考が廻りだしたのだった。

 また酒を呷る。嚥下する液体が喉を熱くするがそれだけだった。再び意識が過去へと戻ろうとするも、喧噪がグスタヴォの耳を叩き現実に引き戻す。騒がしい周囲は制服を着た厳つい男たちで溢れかえっている。グスタヴォがいるのは警吏の屯所であった。ある人物の口利きにより、この場所で暫くほとぼりを覚ますつもりなのだ。浴びるように酒を飲むグスタヴォに、太った体を揺すって警吏が近づいていく。


「どうしたグスタヴォ、顔色が悪いぜ。今更アチェロに逆らったことを後悔してんのか?」


 声を掛けられ見上げると貧民区担当の警吏が蔑んだ眼でグスタヴォを見下ろしていた。グスタヴォは卑屈な笑みを浮かべる。


「旦那、そんなんじゃありませんよ。まぁ俺の手腕を見てて下さい、アチェロの野郎は必ずこの手で殺してやりますから」


 威勢のいい言葉を吐くグスタヴォを警吏は馬鹿にしたように鼻で笑う。その様子を見る限り孤児院の事はまだ伝わっていないようだ。自分の仕業だと知ったらこの男はどのような顔をするのだろうか、グスタヴォはふと気になった。


「我々としてはお前が頭になろうがアチェロのままだろうがどちらでも構わない。だがなぁグスタヴォよ、念を押すが毎週納める金だけは怠ってくれるなよ」


 太った警吏の嘗めつけるような目に嫌な光が灯る。グスタヴォの全身を悪寒が走った。


「......っへ、分かってまさ」


 もし金額が足りなかったり、支払いが遅れれば間違いなく殺されるであろう事を改めて認識させられる。こいつらは俺たち以上の悪党だ、グスタヴォは心の中で激しく罵った。


「ならいい」


 つまらなそうにグスタヴォを見て警吏がそう言った時、突如として近くの大地が泡立ち、轟音と共に吹き上がった。間欠泉のように空高く舞い上がった大量の泥土が頂点で動きを止め、重力に引かれて落ちてくる。


「なっ!?」


 雨のように降り注ぐ泥の中、驚愕するグスタヴォと警吏の目前に、紅い光に包まれた女が気泡を上げる大地の中から姿を現した。吊り上がった目には底知れぬ憎悪と怒りが、相反するように口元には酷薄な半月の笑みがあった。それは憎くて憎くてたまらない敵を目の前にした復讐するものの笑みであった。


「見つけた」


 女のものとは思えない低い声が喜悦に歪んだ口から零れ落ちる。グスタヴォも太った警吏も揃って腰を抜かしていた。騒々しかった屯所が更に騒然とし、大地の中から現れた紅い女を中心に警吏たちの怒号が飛び交う。明らかに尋常ではない女を前にして、帯刀していたものは剣を抜いて身構え、魔術師は呪文の詠唱に入っていた。


 轟いた音を聞きつけ、庁舎から出てきた男たちが赤い光を纏う女を見て驚きの声を上げる。俄に殺気立つ警吏たち。屯所にいた五十人を越える全ての警吏が異形の女を囲い戦闘態勢に入っていた。赤い女の憎悪に燃える瞳が警吏たちに向けられる。口からは地の底から響くような調べが漏れ、聞く者を怖気つかせた。椅子から転げ落ちたグスタヴォの見上げる驚愕に見開かれた眼には、何処か見覚えのある顔が映る。


「......ベル?」


 呟くように漏れ出た名前を、横で同じように転がる太った警吏が拾い上げる。


「何?......あ、あぁ確かにベルだ。だがあの変わりようは何だ!?人とは思えんぞ」


 太った男が凝視する中、前衛の警吏が無防備に立つベルへと襲い掛かる。女の素性を問うこともしない、排除すると決めたのだ。一度にかかる人数が多すぎて互いの体が邪魔をしてしまい何人かの剣が大きく逸れる。稚拙な過誤、まるで連携がなっていなかった。それでも風を切るように奔る三つの剣が異形と化した女に迫る。銀の尾を引いた剣光が、女の纏う赤い光を切り裂き体に到達したかに見えた。だが切り伏せた筈の警吏たちの顔には疑問の表情。どうしたわけか手応えが全くない。それどころか手に握る剣の重量が軽くなっている。目をやれば赤い光に触れた剣身の部分が錆びつき、砂のように崩れ去っていた。警吏が目を見開き、ベルが嗤う。


「散開せよっ!!」


 後方からかかった声で理解しがたい状況に動揺しながらも退く。前衛の背後で上官らしき壮年で長身の警吏が声を上げていた。警吏たちが退いて出来た道は、そのまま魔法の射線となる。


「ひぃぃぃっ」


 巻き込まれては溜まらないと、腰を抜かしたままグスタヴォと警吏は腕の力だけで後退していく。同士討ちを避けるため扇形に展開していた魔術師たちの前面に次々と呪紋が発現、魔韻を含んだ言葉と共に魔法が発動する。火炎放射、雷球、強酸、雷撃、投槍の中級魔法が僅かな時を置いて、絶え間なく赤い女に殺到した。

 複数系統の魔法による多重攻撃。酸によって地面が反応、煙を激しく上げ女の姿を覆い隠していた。百を超える視線が見つめる中、誰もが女の死を確信する。だが違った、煙が晴れた先では、女が変わらず佇んだまま全くの無傷。全ての魔法は女が纏う赤い光を突破できなかった。


「......魔法結界」


 後衛の魔術師の一人が呆然と呟いた。グスタヴォと太った警吏は呆けたように口を開いたまま見上げている。


 残虐な笑みを浮かべたベルが後衛の一人を指さし言葉を紡ぐ。


腐血破熱裂出爆発敗ラム・サーング・ルム


 さされた痩身の若い魔術師は突如として目が真っ赤に充血、血の涙を流し始め、鼻と耳の穴からも出血。頬を膨らますと吐血し、周囲へと盛大に血を撒き散らす。突然の同僚の異変を呆然と見つめていた付近の数人に、赤い飛沫が降りかかっていた。痩身の魔術師は立っていられず地面に倒れると痙攣、臓器からも出血、溶解を始め瞬く間に絶命する。目、耳、鼻、口、性器、肛門、全身の穴という穴から血が溢れていた。更に血を浴びた者からも同じ症状が出始める。その者がまた血を拡散し恐ろしい速さで連鎖的に広がっていく。数分後には警吏の数が半減していた。其処彼処で己の血と体液に浸った死体が散乱する有様は、お伽噺に伝えられる疫病の大流行のようであった。唖然と立ち尽くす警吏。


 物理攻撃は効かず、魔法も通用しない、そして正体不明の魔法で殺されていく同僚を見て、生き残った警吏たちは恐慌をきたしだす。


「こ、後退だ、一先ず退けっ!!」


 最初の犠牲者から離れていた事で命を拾い、異常な事態にも冷静さを失わなかった上官が声を荒げる。その声で正気付き、次々と後退していく警吏をベルの瞳が奇妙な静けさをもって見つめていた。人外と化した女の口角が吊り上がる。ベルの足元を中心に、複雑な魔法式が組み込まれた赤い光が広範囲に広がっていた。


「退却だ!!!」


 部下たちに撤退を促し逃げてゆく上官の男が踏みしめる大地が変質、煮え立つように泡立つと両足を飲み込んでゆく。同じように他の全ての警吏たちの足もぬかるんだ地面に捕らえられていた。


 警吏たちの口から悲鳴が上がる。泡立つ泥濘に沈んだ軍靴が溶けていた。溶解はやがて皮膚に至り筋肉を越え骨までをも侵食する。生きながらにして肉体が分解されていくという、耐えきれない激痛に警吏たちの口から絶叫が木霊する。そして足から上半身、腕、頭部へと全身に広がり、人であったものは粘塊ねんかいとなって泥濘と同化していった。五十六人いた警吏は一人を除き全て凄惨な最期を遂げた。唯一の生き残りである太った警吏とその横にいる醜悪な男を見下ろす異形の赤い女。その瞳は歓喜で爛々と燃え盛っている。


「お待たせ」


 地の底を這いずる声でベルが声をかける。二人生き残った内の一人、グスタヴォは恐怖に引き攣った顔で絶望の叫声を上げた。


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