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武士 異伝  作者: 弁鳥有無
失われた神々
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漆拾陸  和解

「じゃぁ行ってくるわね」


 子供たちに見送られベルはアチェロを伴って医院へと向かう。連れ立って歩く二人であったが、暫くの間言葉が交わされる事はなかった。


「情けないところを見せてしまったな」


 僅かに前を歩くアチェロがぼそりと呟く。悄然とした背中からは、自尊心が打ち砕かれた様子が見て取れた。


「まさか相手の前に立つだけであれほどの気力を消耗させられるとは......」


 アチェロは立ち止まると天を仰ぐ、路傍から覗く空は何処までも高く青かった。それが武蔵と名乗った異人との実力差にも思え、アチェロの心は更に沈んでいく。ベルは何も言わず、珍しく青年が漏らす弱音に耳を傾けていた。


「私もまだまだだ」

 

 苦痛を吐き出すように言った男の横顔は苦々しさに満ちている。その様子を見て女は息を吐き切ると口を開いた。


「そうね、貴方はまだまだだわ」


 思わぬ返答に意外そうな顔をしてベルを見ると、強い力を秘めた双眸がアチェロを見つめ返していた。


「慰めてくれないのかい」


「母が男は叩いて伸ばすって言ってたの」


 冗談とも本気ともつかないアチェロの言葉に、ベルは顔を綻ばせて応える。


「確かにね。ここで優しい言葉をかけられたら私はそれに縋ってしまっていただろう。この街区が思いの外上手く制圧できた事で、私は増長していたのかも知れないな。今日のはいい薬と思うことにするよ」


「ムサシに取った態度は賢明とは言えなかったわ」


「......そうだな、あの男が私の敵意に反応していたら、今こうして君と話せていなかった。反省しているよ」


「私たちはもっとしたたかにならなければいけない。でなければ今回も、そしてこれからも生き抜いていけない、そうでしょアチェロ」


 今まで知らずにいた女の一面を垣間見た様な気がして、男は言葉もなくただ立ち尽くす。


「どうしたの?」


「いや、急に逞しくなったなと思ってね。力を行使することを躊躇っていた昨日までの君が嘘みたいだ」


 アチェロはベルの変化に微かな違和感を覚えたが、深く捉えることはなかった。


「でなければ子供たちを守れないわ」


「その通りだ。私も君も今以上に強くならなければな。こんな場所で立ち止まってはいられない」


 男の口から出た前向きな言葉を聞いて、女は満足そうに微笑んだ。ベルとアチェロが止めていた足を動かし、通りを進んでいると貧民窟の住人達が二人の顔を見ながらひそひそと話しているのが目にはいる。


「これからどうするつもりなの、アチェロ」


 ベルが貧民街の事を言っているのだと察したアチェロは、顎に手を当て少しの間考えをめぐらすと話し始めた。


「奴らが今直ぐに仕掛けてくるということはないと見ている。造反の首謀者のグスタヴォという男は、何やら私に遺恨があるように見えた。ああいう目をした男は出来るだけ私を苦しませて殺そうとするだろう。私にとって大事な存在を巻き込んでね」


 そう言ってベルを見た。


「つまり君だ」


「覚悟は出来てるわ」


「だからこれからはなるべく一緒にいた方がいい。それと昨日は話さなかったことがある」


 アチェロの深刻な様子に、ベルは足を止めると無言で続きを促す。暫し逡巡していたアチェロであったが、程なく語りだした。


「私自身、真偽が付きかね言うかどうか迷っていたんだがグスタヴォが領主と繋がっていることを仄めかした。これは私の考え過ぎかも知れないが、グスタヴォの話が真実ならば伯爵は今回の件を利用して貧民街を一掃する計画を持っているとも考えられる。計算高いあの男が貧民窟の頭のすげ替え程度で動くとも思えないからだ」


「つまり今回の騒乱を治めたとしても私たちは排斥されると?」


 アチェロは首を振る。


「答えを出すには材料がないため分からない。今言ったのは、あくまでも私の推測だ。確実な事が分かるまで黙っていようとも思ったが、やはり君にだけは話しておくべきだと考え直した。最悪の事も想定しておくべきだろう」


「最悪?」


「この街を捨てることも視野に入れておく」


 己の提案に反応せず黙考するベルにアチェロは僅かな不安を覚えた。


「どうしたベル?」


「......私はこの街を、あの場所を離れることは出来ないわアチェロ。母も祖母も曾祖母も先祖代々キュリアを奉ってきた、私たち一族は豊穣と慈愛の女神の巫女なの。私の代でその役目を放り出す事は出来ないわ」


「何を言っているんだ、君一人ここに残れば命はない。それぐらいわかるだろ」


「あの時貴方も言ってたでしょう。人には命よりも大切なものがあるって」


 ベルの言葉に軍隊時代の苦い記憶が蘇る。確かに言った、だが......。


「馬鹿な......」


 顔を顰め絞り出すように言ったアチェロを見て、ベルは哀しそうに微笑む。


「本当、私もそう思うわ」


「......駄目だ。如何なる理由があろうとも君一人を置いてはいけない。君が此処を離れる事が出来ないというのなら私も残る」


 言葉とは裏腹に、万が一の場合は力づくででもベルを連れて逃避する、アチェロはそう固く決意していた。


「嬉しいけど、もしそんな時が来たら貴方には子供たちを任せたいの。約束してアチェロ、あの子たちを守ると」


 女の言葉には否定することを許さない響きが込められていた。ベルの真摯な青い瞳から目を逸らせず、アチェロはただ頷く事しかできなかった。


「ありがとう」


 ベルの儚げな笑みに目を奪われながらアチェロの心は愛しい女の命と、その女の望みの間で激しく揺れていた。

 

 青年は歩を進めながらひたすら考える。ベルを翻意させる方法はないのか、或いはその他の手段は?だが良案は浮かんでこない。ベルもなにやら考え事をしているような表情で口を開くことはなかった。

 互いに思案顔で歩いていた二人は、不意に立ち止まると目線を交わし、アチェロが振り向きながら後方へと言葉を投げる。


「ユーリ、何をこそこそ隠れている。話があるんだろう、出てこい」


 数瞬間をおいて、家屋の陰から少年がばつが悪そうな顔をして現れた。


「別に、隠れてたわけじゃない」


 地面を見ながらぼつりと呟くように言ったユーリを見て、アチェロは腕を組むとベルへと声をかける。


「ベル、先に行っててくれ。少しユーリと二人で話がしたい」


「分かったわ」


 ユーリとアチェロを交互に見るとベルは頷いた。淡い笑みを残して遠ざかるベルの背中を見ていたアチェロは、膨れっ面のユーリに視線を移すと苦笑を浮かべる。 


「話は聞いている、このまま学院へ行く気はなさそうだな。不満たっぷりって顔だ」


「そうさ、皆を置いて俺だけ安全な所に行くなんて出来るわけないじゃないか」


 睨みつけるようにアチェロを見るユーリの顔は怒りに歪んでいた。アチェロは正面からユーリを見据える。


「ベルはお前を大事に思っているからこそ王都へ行って欲しいんだ、分からない年じゃないだろう」


「俺だってねぇちゃんの、ベルの役に立ちたいんだっ!!」


 少年は全身を震わせ、想いをぶちまけた。ユーリの激白にアチェロは一瞬驚いた表情を浮かべたが、直ぐに腑に落ちたように目を細める。その瞳にはかつての自分を思い出したのか、懐かしむような光が宿っていた。


「そういう事か。ユーリ、お前ももう男なんだな」


 何処か不貞腐れたような顔の少年を、青年は穏やかな笑みを湛えて優しく見つめていた。


 アチェロとユーリが医院に着くと建物の外でベルが街の住人に囲まれていた。揉め事かと足を速めるアチェロ、その後をユーリが慌てて追っかけてゆく。血相を変えて近づてい来る青年に気づき、住人たちの列が割れる。


「大丈夫か、ベル」


「えぇ」


 ベルの態度から不穏な気配は感じられず、ひとまず安心したアチェロは取り囲む住人たちを見回した。


「これは何の騒ぎだ」


「それが......」 


 言い淀むベルが口を開く前に恰幅のいい男が乗り出した。

 

「俺はお前らを応援するぜ。ベルとアチェロ、お前らが貧民街を良くしようと必死に頑張ってきたの知ってるからよ」


「俺もさ。今更ウバフの時代に逆戻りされちゃ敵わねーからな。あのグスタヴォとかいう野郎、ウバフの腰巾着だった男だろ?あんなのにいいようにされてたまるかってんだ」


 追随する男の言葉に住人たちから賛同の声が上がる。造反があった事は既に周知のこととなっているようであった。次々とベルとアチェロを応援する人々の中に、意外な人物の姿があった。ユーリに嫌がらせをしたことでベルの抗議を受けていた穀物店の店主であった。店主は恥ずかしそうに後頭部を搔きまわしながら一歩進み出る。


「すまなかったな、あんたの商売敵たちの流言にうっかりのっちまってたわ。こいつらに言われて冷静に考えてみたら、どう考えたって奴らの話は眉唾もんだ。あんたらが貧民街を良くしようと頑張ってたのは俺も頭のどっかでは分かってたんだ。ただ以前の連中の仕打ちが酷過ぎてな、どうしても偏見の目で見ちまってたわ」


 徴用から街に戻ったベルが安価で丁寧な診療をするようになってからというもの、それまで胡坐をかいていた既存の治療院は閑古鳥が鳴いていた。

 特別な資質を必要とされる治癒魔法の使い手は貴重であり、それゆえ横柄な態度で法外な値を要求していたエルボヌエルグの治癒術士の元から患者は消え、代わりにベルの医院へと流れるのは自然の道理と言えた。

 完全な逆恨みであったが怒りが収まらない治癒術士たちは、結託して根も葉もない噂を流しベルの名を貶めていた。

 曰く移民を不法に受け入れて治安を悪化させ、街を支配しようとしている。

 曰く色仕掛けで若い男を誑かし、貧民窟を乗っとって今まで以上に街を食い物にしようとしている。

 街を歩いている時に、それらを真に受けた住民に取り囲まれ一触即発の事態になったこともあった。


 決まりの悪そうな顔をした店主はアチェロの後方に立っているユーリに向かって声をかける。


「すまなかったな坊主。お前のようなガキに嫌がらせなんて流石に大人気なかったぜ。だがな、今まで俺たちがお前らにどんな目に遭わされてきたか、それだけは忘れんじゃねーぞ」


 言って男は地面に置いてあった一抱えはある麻袋を少年に向かって掲げる。ユーリは店主の言葉に頷き、子供には重過ぎる麻袋を魔力によって強化された両腕で軽々と受け取った。手に持った感触から大麦だと予想する。以前男の店に寄ったときに値を吊り上げられ買わなかった品だ。視線を上げると店主が手を差し出していた。


「何?」


「何じゃねーよ、金に決まってんだろ。銅貨12枚」


「ただじゃないの!?今、なんかそんな流れだったじゃんか」


「馬鹿野郎、ただでやるほど落ちぶれてねーよ」


 二人のやり取りを見守っていた住人たちから笑いが漏れる。ベルもアチェロも笑っていた。


「ちぇっ」


 ユーリは麻袋をアチェロに渡すと、渋々銭袋から貨幣を取り出して男の手の上に置いた。


「まいど!!これからも我がアルフレッド穀物店を宜しく」


 男が慇懃な言葉と共に笑顔をユーリへ向けた。主人が提示した金額は相場より二割ほど安い。それが男の謝罪の代わりらしかった。無料ただじゃないところがこのおっさんらしいとユーリは思った。店主、アルフレッドはユーリから受け取った銅貨を衣嚢にしまうと、誤解が解け和解がなったことに喜色を表すベルへと目を向ける。瞳には懸念の色があった。


「嬢ちゃん気を付けなよ。グスタヴォとか言う奴らの事じゃない、坊ちゃんの事さ」


「坊ちゃん?」


 何やら不吉な予感がしたアチェロが聞き返す。アルフレッドは意外そうに目を丸くし


「あんた聞いてないのかよ、領主の馬鹿息子のフェリシアンの事だ。嬢ちゃんに誘いを断られ顔真っ赤にして怒り狂ってたようだから、何してくるかわかんねーぞ」


「どういうことだ、ベル」


 険しい顔をしたアチェロがベルに問いかける。余りに真剣なその姿に若干の気おくれを感じ、今の話の何がそれほど引っかかるのかと疑問に感じながらベルは答えた。


「え?あぁ、このご主人と話していた時に突然今夜の供をさせてやるとか言ってきた人がいて、何を言っているのかよく分からなかったから断ったの。あの人、御領主の息子さんなんですか?」


「知らなかったのか、くくこいつぁいい」 


 アルフレッドは愉快そうに笑うと真顔に戻り忠告した。


「子供みてーな癇癪持ちだから本当気ぃつけなよ。こう言っちゃなんだがアンタ、確実に目ぇつけられたぜ」


 アルフレッドの言葉を肯定するように、住人たちのベルを案じる顔が事態の深刻さを物語っていた。励ましと忠告を終えた人々が帰っていくのを見届けるとアチェロが重い口を開く。


「何故もっと早く、いや今はそれどころではない。グスタヴォが言った領主への伝手とは伯爵本人ではなくフェリシアンを指している可能性が高い。私と君は一蓮托生だ、何処からか話を聞きつけたグスタヴォが上手く取り入ったに違いない。これは拙いことになったぞ、伯爵が息子の言葉をどれだけ重く受け止めるかで私たちの命運が決まる。もしフェリシアンが泣きついたとしても子供の戯言と切り捨ててくれればいいが、そうでなければ」


 その後の言葉を思いと共に飲み込む。厳しい顔で考え込むアチェロを見てベルは思わず口にしていた。


「......私、誘いに乗ったほうがよかったのかしら」


「それはない。私が許さない」


 アチェロは断言した。しかしどうすればいいのか。街に溢れるフェリシアンの巷談を聞く限り、我儘に育てられた聞き分けのない子供のような性格が窺い知れる。ベルに復讐するためならば、あらゆるものを巻き込んでくるだろう。例えば子供たちの命を取引材料にし、ベルを凌辱するといった悍ましい事も考えられる。それはアチェロにとって断じて容認できることではなかった。

 

 様々なことを勘案し、やはりこの街を離れるほかないとの結論に達する。ベルの意思を無視することになってもだ。出来うる限り早急に、明日、いや今日にでも。おそらくグスタヴォかフェリシアンの息のかかったものが自分達の動向を見張っていることだろう、奴らに感づかれてはまずい。ベルには何も言わず何時も通り過ごしてもらい、己一人で支度を整えるのだ。そして今夜


「ベル、今はまだ全てが憶測の段階だ。必要以上に恐れることはない。私は用事を思い出したので行くよ、夕方までには院に戻る」


「え?ちょっとアチェロ」


 安心させるように言って飛び出すように医院を出ていくアチェロを、ベルの手が反射的に追いかけていた。


「慌ただしい人、ねぇユーリ、あれ?」


 答えてくれる者はおらず麻袋だけがあった。




「アチェロ!!」


 走り出したい衝動を抑え、目立たぬよう通りを歩き始めたアチェロの名を呼ぶ者があった。振り返った目に入るのは追いかけてくる少年の姿。逸る気持ちを抑えユーリが目前まで来るのを待つ。


「ユーリか、どうした?」


「何か俺にも出来ることない?」


 少年はアチェロの目を真っすぐ見ていった。


「何を言っている?」


 ユーリの言葉の意味が呑み込めず、疑問の表情を浮かべるアチェロ。


「さっきのあんたの態度おかしかった、何か企んでるんだろ?」


 鋭いユーリの言葉にアチェロは息を吞み、次いで苦い笑みを浮かべた。子供にも気取られるとは、私は本当にまだまだだと。アチェロはユーリの顔をじっと見つめる。今ここに至れば魔力マナに目覚めたユーリは貴重な戦力と考えられる。まだ十二歳の少年には荷が重いかもしれないがそんなことを言っている場合でもなかった。


「いいか、よく聞け。お前も聞いていた通り、状況は私たちにとって非常に不利だ。私はベルと子供たちを連れてこの街を離れようと思っている。それも今夜だ」


「街を離れる?今夜!?」


 余りに突然の告白に、ユーリは目を見開いて素っ頓狂な声を上げる。


「黙って聞くんだ。こういう時は常に最悪を想定して動かなければならない、私は奴らが襲ってくるには時間があると考えていたが、そんなものには何の保証もない。今は出来るだけ早くここから逃げなければならないと考えている。ベルは勿論、お前たちまで狙われる可能性が高まったからだ。グスタヴォとフェリシアンというおまけつきだ」


 鬼気迫るアチェロの表情にユーリは喉を鳴らして唾を飲み込む。青年は少年の小さな肩を両手で掴むと覗き込むように目を見た。


「今すぐ逃げる支度をする必要がある、お前にも手伝ってもらいたい、出来るな」


 アチェロが自分を見る瞳には何時にない真摯さがあった。目前の男は自分を信頼できる男として扱おうとしてくれている、ユーリはゆっくりと頷いた。ユーリの目を見据えたままアチェロもまた頷く。


「よし。まずは屋敷に戻る、だが気を付けてくれ、何処かで私たちを監視している者がいると思って行動しろ。何かあると思われたら終わりだ」


「分かったよ」


 アチェロの忠告にユーリの全身から嫌な汗が噴き出していた。


 








 医院を開く準備をしていたベルは入り口に人の気配を感じ取る。


「どうしたの、何か忘れ物でもした?」


 アチェロかユーリが戻って来たのかと思ったが、入って来たのは頭巾を被って顔を隠す怪しげな人物であった。


「失礼しました。患者の方ですか?」

 

 男の右手が頭に向かう。頭巾を取ると酷く醜悪な顔をしていた。険のある眼でベルを値踏みするように見て名乗った。


「俺はグスタヴォ、あんたに話があって来た」

 

「グスタヴォ?じゃぁ貴方が」


「そう、俺が今回の造反を企んだ張本人、首謀者って奴よ」


 得意そうに笑った男の口から乱杭歯が覗く。


「何故こんな事を?」


「何故?決まってんだろ、いい暮らしがしてーからだよ。いい女を抱いて、いい飯を食って、いい家に住む。みんな思ってる事さ。アチェロの下じゃ無理だからな」


「自分より弱いものを踏み台にしてですか」


「そうさ。まぁそんな事はどうでもいい。ここに来たのはあんたに話があったからだ。どうだ?アチェロの奴なんか見限って俺につかねーか?あの野郎とくっついてんのは泥船に乗ってるのと同じさ。くく、俺にはよ、とっておきがあるんだ。今より遥かにいい暮らしを約束するぜ?ガキどもにだってもっといいものを食わせてやれる」

 

 言って下卑た笑みを浮かべる。貧民窟の住人に強請り集りを止めさせたアチェロから警吏に支払われる金の殆どが、この医院の稼ぎから出ていることをグスタヴォは突き止めていた。ベルを引き込む事が出来れば大きな資金源が手に入る。何よりアチェロに精神的な損傷を与える事が出来る。


「聞いてるぜ、毎日ガキどもを食わせるのがやっとなんだろ?結構な金を稼いでんのに、その殆どをアチェロに貢いでるそうじゃねーか。その金であいつが何をやってるか知ってるか?」

 

 グスタヴォの問いにもベルは何も答えない。醜悪な男は構わず続ける。


「金の使い道をどう言っているのか知らねーが、あんたに隠れて女を買ってるぜ、毎晩とっかえひっかえさ。あんたには貧しい思いをさせて自分はいい酒を飲んで美味い物食ってんだよ」


「お引き取りを」


 ベルの顔は怒りで紅潮していた。それに気づかず疑念を植え付けようと口を動かし続けるグスタヴォ。


「あんたは奴に裏切られてんだよ。俺につきゃぁ」


「お引き取りをと言っているのです。あなたのような男にアチェロを語ってほしくない」


 グスタヴォの話を強引に遮ると、憤りを隠さないベルの左手が出口を指し示す。呆気にとられていたグスタヴォであったが、醜悪な顔を更に歪めベルを睨みつける。


「......後悔するぜ」


「あなたのような卑しい人間につくほうが余程後悔します」


「卑しい、卑しいだと?テメーも俺を馬鹿にするのか」


 全身を小刻みに震わせ始めたグスタヴォは、狂気を宿した目でベルを射殺さんとしていた。だがベルはその視線を平然と受け止める。女であり若輩ではあったが、既に幾つもの修羅場を越えてきたベルにとって男の狂気は然したる脅威ではなかった。憤怒で我を失いそうになり今にも襲い掛かからんとするグスタヴォ。だが相手は娘であってもマナ使いであり、ウバフを返り討ちにした強者であれば躊躇せざるを得ない。沸騰していた脳内で理性が僅かに勝り、最後の一歩を踏みとどまらせる。


「......後悔しろ」


 同じ言葉を繰り返し憎悪の視線を残して醜悪な男は去っていった。ベルは眉根に皺を寄せ、滅多に見せない険しい表情で男の背中が見えなくなるまで佇んでいた。






 何処をどう歩いたのか、怒りに埋没していたグスタヴォがふと我に返ったのは廃屋に近い大きな建物の前であった。素人の手で補修されたのがよくわかる継ぎ接ぎが目立つ粗末な家屋からは、甲高い子供の声が聞こえてくる。


「確か、ここは」


「アチェロとかいうのが入れ込む女が営む孤児院だ」


 グスタヴォの独白に応じる声があった。濁った眼で声の主を見る。


「あんた......」


「あの中にはベルと言う女が大事にしているものが詰まっているようだ」


 ベルと言う名を聞いたことで医院での光景が脳裏に蘇り、グスタヴォの心に再び憎悪の炎が燃え盛る。その様子を楽しそうに見つめると声は言った。


「壊してしまえ。お前が憎んでいるアチェロの大切な女の大事なものなど壊してしまえ」


 悪魔の囁きが耳元でしたような気がした。 


 


 最後の患者を見送って一息つこうとしていたところだった。喉が渇いていたので水を飲もうと木製の湯飲みを持ち上げようとした際、入口の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。


「大変だ、ベル!!」

 

 その声を聞いた時、ベルは急病人が運ばれてきたかと思った。だが違った。顔見知りの男は一人、顔色を変えて院内に駆け込んでくるとベル見て押し黙ってしまった。怪訝そうに男を伺うベル。


「どうしました?」


 息を切らせ汗を滴らせていた男は、ベルを一瞬見つめてから視線を逸らし、言い辛そうに口を開く。


「孤児院が」


 後は聞こえなかった。ただ心臓の鼓動が身体の内で強く響いていた。持っていた湯飲みが床に落ち、音を立て何処までも転がっていった。









 孤児院の前では人集ができていた。顔面を蒼白にして走ってくるベルに気づくと皆、視線を地面に落とす。列が自然と割れ、その中に飛び込んでいくと建物の入口に苦渋に顔を顰めたアチェロがいた。足元ではユーリが放心状態で座り込んでいる。目は虚ろで何処も見ていなかった。

 アチェロはベルに気づくと何か言おうと口を開きかけたが言葉が出てこない。無言で青年の前を通り過ぎ院内に入ろうとするベル。


「駄目だベル」


 苦痛を堪えるような表情を浮かべたアチェロが立ちはだかり押しとどめようとする。構わず強引にアチェロと入口の間に体を入れた。


「駄目だ、ベル!!見てはいけないっ!!」


 アチェロの制止を振り切り孤児院へと入る。己の心臓の音がやけに大きく感じられた。扉を開き室内の光景を見てベルの時が止まる。眼前に広がるのは地獄であった。




 部屋中が赤く彩られていた。


 甘えん坊のカロンの首から上が無かった。

 寂しがり屋のアリーヌの両肩と股間からは何も生えていなかった。

 自閉症気味のエロワは上半身だけで立っていた。

 ベルとアチェロに恋人かと問いかけてきたおませなアニーとキアラは互いの頭が入れ替わっていた。 

 大人しいシャルロは壁にぶら下がっていた。

 一番幼いアニエスは自分に何が起こったのか分からない顔で床に転がっていた。

 ベルに心を開いてくれつつあったアンヌは哀しそうに離れたところから自分の身体を見つめていた。

 

「あああああああああああああああああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 何処か遠くで狂ったような女の叫び声が聞こえる。いや、その声は真実狂っていた。それが自分の身体から出ていることにベルは最後まで気づかなかった。











 世界は音もなく崩れ去った。

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