漆拾伍 黒い死神
何時もと変わらぬ一日の始まりであった。ベルは未だ熟睡する子供たちを起こさないよう表へ出ると、燦燦と降り注ぐ朝日を全身で浴びながら軽く屈伸運動をする。空を見上げると今日も快晴であった。体が目覚めたのを確認しながら中庭へ歩いていき、頭部が欠けた女神像の前で跪くと、豊穣と慈愛の女神を讃える節を口にして祈りを捧げる。垂れていた頭を上げ、瞼を開くと立ち上がり、裳についた土を手で払う、このあと子供たちの朝食の準備をするのが日課であった。昨日と同じ今日、今日と同じ明日。繰り返される日常。
だがその日は違った。水瓶から柄杓で水を掬い、鍋に入れようとした時、突如強い魔力を感知する。陽光が照らし出す老朽化の激しい孤児院を、内側から魔力の波動が幾重にもわたって襲っていた。突然の事態にもベルは冷静さを失わず、静かに柄杓を置くと魔力の発生源へと慌てること無く歩いていく。
「ユーリ」
ベルが戸を開けるとそこには呆然としたユーリの姿があった。下穿きが腿までずれ下半身が剥き出しの状態で、成長しきっていない男性器からは白い液体が零れていた。
精通であった。
呆けたようにゆっくりと戸の方へ振り向き、ベルを認識すると顔を真っ赤にし慌てて両手で股間を隠す。その間にもユーリからは魔力が漏れ続けていた。
「な、なに勝手に入ってきてんだよ。ふざけるな、出てけよ!!」
恥ずかしさの極致で顔を歪め怒鳴るが、ユーリの意に反してベルは部屋に入ると、後ろ手で扉を閉め愛らしい顔に優しい微笑を湛える。最も見られたくない処を、最も見られたくない人に見られた羞恥心で、ユーリはまともにベルの顔を見ることが出来ない。
「おめでとう、ユーリ。これで貴方もマナ使いね」
「え?」
思いがけない言葉を聞いて、反射的にベルを見る。
「それは精通って言ってね、大人の男性になった証なのよ。同時に魔力に目覚める切っ掛けにもなるの。ほら今まで不安定だった魔力が今は一定になっているでしょ」
「大人?......ベルねぇちゃん、気づいてたの?」
「当たり前でしょ、気づかない方が可笑しいわ。何処の魔力を持たない人が、あれだけの大怪我して数日で治るのよ。後ろを見てるから取り合えず着替えなさい」
ベルが扉の方を向いたのを確認すると、再び顔を赤く染め上げたユーリはいそいそと下穿きを代える。
「いいよ」
ベルが振り返るとユーリは着替えを終え、寝台に腰を掛け俯いていた。ベルは何も言わず佇んだまま。やがて気まずそうに押し黙っていたユーリが口を開いた。
「俺、学院には行きたくない」
「駄目よ、ユーリ。学院に行った方が絶対に貴方の為になる」
ユーリは抱いていた懸念を吐き出すが、ベルから返って来たのは想像通りの言葉であった。それに苛立つユーリ。
「何言ってんだよ、今の状況で行けるわけないだろ。アチェロに味方はいないんだろ!?だったら俺が」
「逆よ」
「逆?」
意味が分からず鸚鵡返しに繰り返すユーリ。沈痛な面持ちでベルは言葉を続ける。
「早く此処を離れて欲しいの。今はまだ凪の状態だけど何れ嵐になるわ。荒れ狂う暴風に私たちも否応なく巻き込まれるかもしれない。私はいい、覚悟はできている、でも貴方たちに何かあったらと思うと......。他の子は無理だけど僥倖にも貴方には行き先が出来た」
国の機関である王立学院は三の月と九の月に入学がある二期制を取っており、一年を通してマナ使いの卵を徴用していた。入学時期から外れた月に覚醒しても問題ないよう受け入れ体制は整えられている。
「いや、だからマナ使いになった俺ならアチェロの、ベルねぇちゃんの力になれる」
「無理よ」
「え?」
ユーリの提案は即座に否定され、呆けたような声が出た。
「今のユーリでは力になるどころか足手纏いにしかならないわ」
「何でだよ、ねぇちゃんも言ったじゃないか、マナ使いになったって。今の俺ならそこらの大人より強いはずだ」
叫ぶように言葉を放つユーリの身体からは、途切れることなく魔力が溢れていた。ベルは静かに首を振る。
「貴方はまだ子供なの」
「大人になったとか子供とかどっちなんだよ、意味が分からないよ」
「だからよ」
ベルは哀しそうに困惑するユーリを見つめた。その視線を受け止めきれず目を逸らすユーリ。
「さ、この話はもうお終い。朝御飯の支度をしなくちゃね。ちゃんと手を洗ってから来るのよ」
淡い微笑みをユーリの網膜に残し、ベルは部屋を出ていった。何故だかユーリは無性に寂しかった。その寂しさを堪えるように両手を強く強く握りしめた。
大人数用の食卓を、子供たちが特有の高い声を響かせながら囲んでいた。一人の男児が何時もの席にユーリが居ない事に疑問を感じ、そのまま口にする。
「ベルおねぇちゃん、ユーリにぃちゃんがいないよ」
「いいのよ。今は放っておいてあげましょう」
「なにかあったの?」
「えぇ、ちょっとね」
隣で話を聞いていて興味を持った女児の問いに言葉を濁していると、食堂の入り口からアチェロが姿を見せる。
「お早う」
「お早う、どうしたのアチェロ、こんなに早く」
ベルの言葉にアチェロは照れくさそうに後頭部を搔きながら
「いや、その、これからの事を話したくてね。あぁ私の分はいらない、朝食は済ませてきた。それよりユーリがどうかしたのかい?」
アチェロはベルの横の空いた席、本来ならばユーリが座っているはずの椅子に腰を下ろす。ベルは今朝起きた出来事を子供たちに聞かれないよう囁くようにアチェロへと伝えた。
「......そうか、魔力に覚醒したか。ベル、私も君の判断は正しいと思う。ユーリをこの騒乱に巻き込んではいけない」
「でも私の言い方が悪かったのか、あの子全く納得してないわ」
「私からも言っておこうか、いや、却って反発してしまうかも知れないな」
アチェロは顎に手を当て首を捻る。
「ふたりはこいびとー?」
「ベルおねぇちゃんとアチェロおじさんはつきあってるの?」
ひそひそと話す様が仲睦まじく映ったようで、おませな女児たちが好奇心旺盛に二人へと疑問を投げかける。ベルとアチェロは顔を見合わると、同時に昨夜の事を思い出して顔を紅潮させていた。見つめあう二人に子供たちの視線が集中する。はっと我に返ると二人は顔を逸らして、ぎこちない口調で女児の問いに返答した。
「私たちはまだ友人だよ」
「まだ?」
アチェロは正直であった。
「いいから、早く食べちゃいなさい」
「ベルねーちゃん、てれてるのー?」
これ以上突っ込まれては敵わないとベルが強引に話を打ち切る。珍しく取り乱すベルの姿が可笑しかったようで子供たちの顔に笑みが浮かんでいた。アチェロはこんな状況で自分はいったい何をやっているのかと思う一方で、この光景を絶対に壊してはならないと心に誓っていた。ベルがいて子供たちが笑っているこの光景を。これこそが自分が護りたいもの、決して報われることのない世界という牢獄で、唯一命を賭すに値するものなのだ。
和やかな時が流れ、ベルとアチェロは目線を交わして苦笑し、子供たちは賑やかに食事を続ける。それを断ち切ったのは食堂の扉を開き顔を見せたユーリだった。
「ユーリ、お帰り」
「あの、ねぇちゃん。お客さん」
酷く戸惑った表情で告げるユーリ、その顔からは先ほどまでの羞恥心や蟠りは何処かへと消えていた。
「お客さん?誰かしら」
ユーリの後ろから何の気配もなく黒い影が姿を現した。黒い髪に黒い瞳、黒い民族衣装を纏った異国の男であった。子供たちの目には黒い死神の様に見え、騒がしかった食堂が一瞬で静まり返る。
黒い男を見た瞬間、アチェロの全身の毛は逆立ち思わず身構えていた。あからさまな動きを見せてしまった事を後悔したが、確実に気づいたであろう男は何の反応も見せない。異国の男は室内を一瞥し、ベルを見咎めると一歩進み出て口を開いた。
「武蔵と言う」
黒を纏った男の容貌を見て一つの答えがベルの頭に浮かぶ。
「あの、もしかしてユーリを助けてくれた方ですか」
「そう、この人が真っ黒の人だよ」
未だ当惑の表情を浮かべたままのユーリが武蔵を振り返りながら言った。ベルは両手を前に重ね恭しく頭を下げた。
「ユーリを助けて頂いたそうで本当にありがとうございました」
「礼などいらぬ、俺は頼まれただけよ」
武蔵の言葉は素っ気なかった。
「頼まれた?一体誰が?」
「街の中にもお主らの助けとなりたいと考える者がいると言う事だ」
「......迷惑しかかけていないのに」
ベルは感極まって口を手で覆っていた。街の民には忌み嫌われているとばかり考えていたが、中には気にかけてくれている人もいるらしい。それが嬉しかった。人差し指で涙を拭うベルへ武蔵が更に一歩を踏み出すと同時に、アチェロが庇うように間に立ちはだかる。
「そこまでだ。それ以上近づかないで貰おう」
「何言ってるのアチェロ、話を聞いていたでしょ、この人はユーリの恩人なのよ」
突然のアチェロの蛮行に目を丸くして抗議するベル。
「分っている、だが私の本能がこの男は危険だと断じている」
剣こそ抜かなかったが、険しい顔で睨みつけるアチェロの剥き出しの敵意にも武蔵は何処吹く風。ユーリはアチェロの気持ちが分らないでもなかった。命の恩人ではあったが、この黒い異国の男からは何処かしら不吉な匂いがするからだ。武蔵と名乗った男が自分たちに運んでくるものは決して幸運ではないという確信に近いものがあった。理屈ではない、アチェロが感じたのと同じく直感であった。
「案ずるな。そこな娘に二三聞きたいことがあるだけだ」
「ならばその場から問えばいい」
武蔵はアチェロのにべもない言葉を了承したようにベルへと視線を移す。
「娘よ、名は何という」
「ベルと言います、あのアチェロの非礼をお許しください」
ベルは自分とそれほど年が変わらないように見える異国の男が、ひどく古風な喋り方をすることに違和感を覚えながらも名前を告げ、アチェロの非を詫びた。
「構わぬ、もう一つ。お主が首にかけておるその飾り」
首飾りを見た武蔵の瞳に剣呑な光が瞬いたようにユーリには見えた。アチェロは黙って成り行きを見守っている。
「あぁ、これですか。母の形見です。失くしてしまったと思っていたのですが、今朝部屋の隅から見つかって、あのこれが何か?」
ベルは自分にとっての真実をありのまま口にした。武蔵の透徹した眼光がベルの瞳の奥を覗くように射貫く。困惑したように武蔵を見つめ返すベル。
「それだけだ。邪魔をした」
そう言って背を向けた武蔵の横顔を見てユーリは背筋が凍りついた。一瞬、ほんの一瞬だが口の端が歪んでいたのだ。ユーリにはそれがこの上なく邪悪なものに感じられた。やはり、この男は死神なのだ、初めて会った時の感覚は間違いではなかった。声もなく武蔵の背を見送るユーリ。異国の男は来た時と同じように気配もなく帰っていった。張りつめていた空気が緩み、子供たちは息を止めていたかのように肺に溜まった空気を大きく吐き出した。
「何だったのかしら」
頬に手を当て疑問を口にするベルの横で、アチェロが崩れるように椅子に座り込む。
「アチェロ、どうしてあんな態度を......すごい汗」
「何者だ、あの男」
アチェロは全身から大量の汗を滴らせ、極限まで疲弊したように肩で息をしていた。異常ともいえるアチェロの状態を目の当たりにし、思わず息をのむベル。そんな二人をユーリは無言で見つめていた。
「対峙しただけで貴方がそこまで追い込まれるなんて......」
ベルの視線は武蔵が去った扉へと向けられていた。
「あの男には関わらない方がいい」
青年は深呼吸を繰り返しながら、垂れた頭の前で両手を組み、荒い息と共に警告の言葉を吐き出した。




