漆拾肆 誘い
日が暮れ夜の帳が下りた貧民街を、夜目が効くのか灯りも持たず一人の女が歩いていた。物騒な事この上なかったが女は然程の危険も感じていないように、しっかりとした足取りで区画の奥へと進んでいく。やがて豪奢な館に辿り着くと、扉を開け人気の全くない室内へと入っていった。二階の奥の執務室から、ぼんやりとした蠟燭の灯りが漏れている。女、ベルが戸の無くなった部屋の中を覗くと、木片が散乱する中アチェロが一人椅子に深く凭れて物思いに耽っていた。
「アチェロ、アチェロ!!」
「......あぁ、君かベル」
ベルの何度目かの呼びかけに、アチェロはようやく気付く。顔を上げればベルが心配そうに見つめていた。
「君がここに来るなんて珍しいな」
アチェロは言葉を口から出しながら、もしベルではなくグスタヴォの刺客だったら殺されていたな、と他人事の様に考えていた。ベルは何も答えず沈痛な表情のまま胸の前で両手を組んでいる、その姿を見れば此処に来た理由は一目瞭然であった
「そうか、造反が起きたことがもう伝わっているのか」
「大丈夫、アチェロ?」
自嘲するような笑みを浮かべたアチェロを気遣うベル。
「まぁね、これも想定のうちさ、思っていたよりも若干早かったがね」
「バルテルミは何て言ってるの?」
「彼はどちらにも与しない、中立だそうだ。ただ私が今回の件を乗り切ることが出来れば忠誠を誓うといっている、セドリックもシャルロも同意見との事だ」
ベルが言うバルテルミとは、この貧民窟の中でアチェロが比較的信用を置いている数少ない男の一人であった。バルテルミは貧民街で育った者にしては珍しく理知的で、合理的に物事を捉える傾向を持つ。弱肉強食の世界を生き抜いてきたこともあり、腕っぷしもなかなかのものでアチェロは何れ右腕にしたいと考えていた。グスタヴォが反旗を翻した直後に呼び出し、どうするつもりか真意を質していたが、返ってきた答えは捗々しいものではなかった。
「そう......」
ベルが落胆する。もしかしたらアチェロの力になってくれるのではと思っていたが現実は甘くなかった。
「ごめんなさい、私が孤児院と医院の方にかかりっきりで、こっちの事は全部貴方一人に背負わせてしまっていたわ」
「君が謝ることじゃない、私が進んで引き受けたことだ。責はすべて私にある」
「でも」
「大丈夫さ、今回も前回と同じく制してみせる。多くの犠牲が出るかもしれないがそれは仕方のないことだ」
男の猛々しい言葉を聞き悲しそうに俯くベル。アチェロはグスタヴォが抱えているであろう策の事については触れなかった。言えば徒にベルを不安にさせてしまう上、アチェロ自身小さくない憂慮が心に生まれてしまい、どう対処すべきか悩んでいたからだ。
領主にも繋がりがあるというグスタヴォの言葉が真実ならば、仮に造反者たちを退けたとしても無事で済むのだろうか。何かしらの理由をつけて排斥されるのではないか、不安と疑念が入り混じり、思考が袋小路に陥る。確かな事が分かるまで己の中に納めておくつもりであった。
アチェロは視線を感じベルを見る。悲哀を湛えた瞳がアチェロに縋り付くように困惑を訴えていた。
「ねぇ、アチェロ。何故分って貰えないのかしら、貧しくても皆が平和に暮らしていけるならそれが一番なのに。どうして持たない者同士が争わなければいけないの」
「奴らは己よりも弱き者から奪い、踏みつけ少しでも良い思いがしたい獣なんだよ、私たちとは何処まで行っても分かり合えない。こうなった以上、力でねじ伏せるしかない」
「平穏と平和を求めるために私たちもまた野蛮な力を振るう、彼らと何処が違うのかしら」
ベルは瞑目したまま胸に手を当て、頭を振る。
「私たちは私たちが求める信念の為に力を行使する、決して己の欲望を満たすためではない。その一点で隔絶した開きがあると私は思う」
「ごめんなさい、アチェロ」
揺らぎのないアチェロの毅然とした態度に謝罪の言葉を口にするベル。
「私たちは神から大きな力を与えられている。力の行使の際、常にその正当性を己に問うことは決して間違っていない。人は、特に力を得たものは独善的な考えに陥りやすいからね」
「戦いにおいて迷いは死に繋がる。軍隊時代に散々言われたことなのに、私ったら」
己の惑いを肯定してくれたアチェロに、ベルは弱弱しい笑みを向ける。そのまま会話が途切れ無言の間が二人を覆った。
「アチェロ、死なないでね」
ベルが目を伏せ切なげな顔で零すように言った。アチェロの双眸が見開き呼吸が止まる。
「......死なないさ、私にはやる事がある。さ、もう遅い、送って行こう」
憂いの表情を浮かべる女の肩へ優しく手を当てる。ベルが背中を向けるとアチェロの逞しい両腕が華奢な体を抱きしめていた。
「アチェロ?」
「.......少しだけこうさせてくれ」
ベルは目を瞑り、自分を包むアチェロの腕に手を置いた。
「えぇ」
そのまま彫像のように動かなくなった二人を燭台の炎だけが見つめていた。
深更。
皆が寝静まり虫が奏でる音だけが世界を満たす中、不安がベルの心を支配していた。再び騒乱が貧民街を襲おうとしている。力を持たない住人達にも犠牲が出る事だろう、もしかしたら子供たちまで暴力の渦に巻き込まれてしまうかも知れない。考えれば考えるほど胸がざわつく。やがて思惟に疲れた意識は暗黒に飲まれていった。
ベルの不安が漁火の様に何かを招き寄せる。
「ベル聞こえますか、ベル。私の可愛い娘」
何時もの夢だ、思考の片隅でそう思った。光ひとつない暗闇の中から聞こえてくるその声は愛おし気で、またひどく切なげでもありベルの心を激しく揺さぶる。何物かの声は今までとは比べようもなく、はっきりと意味を持ってベルに届いていた。
「おいでなさい、私の可愛いベル」
一際明瞭な声が頭に響いた。意識は沈んだままベルは寝床から立ち上がると、夢遊病者の様に孤児院の裏戸を抜け中庭へと歩いていく。ベルが足を止めたのは頭部を失った女神像の前であった。何物かに誘われるまま豊穣の女神を讃える祈りの句の一節を口にすると、像が石と石を擦り合わせる音を立てて背後に動き地下への階段が現れた。階段の左右に積まれた石には刻印魔法文字が刻まれ淡く光を放っている。
階段を下りた先には石室があり、部屋の中央には地上にある像と瓜二つの頭部がある女神像が安置されていた。女神の顔が心なしかベルに似ている。女神像の首には、深紅に燃えるような禍々しい迄の輝きを放つ石が嵌め込まれた首飾りが掛けられていた。それを大仰な儀式めいた仕草で、両手で厳かに取ると自らの首にかけるベル。途端
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ」
呪詛のような、また歓喜にも聞こえる渦巻くような轟音が石室を駆け抜けていった。
「あれ?私何故こんな場所に」
ベルの意識が戻ったのは頭部のない女神像の前であった。像は元通りの位置にあり、地下への階段は閉ざされていたが夢ではない証として、血のような真紅の石が嵌め込まれた首飾りがベルの胸元から覗いていた。首飾りは世界に不吉を齎すように一際強く煌めいた。
夜更け。
武蔵は目を覚ましていた。そして東南を見た。それは孤児院がある方角でもあった。




