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武士 異伝  作者: 弁鳥有無
失われた神々
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陸拾玖  退く


「かはっ......」


 警吏の足が男児の鳩尾へと吸い込まれていった。重症を負わせ無いように、しかし激痛を味あわせる絶妙に手加減された蹴りだ。少年は両手で腹を抑え悶絶する。

 あふれる涙で視界は滲み、息が出来ない。地獄の苦しみが少年を襲っていた。


「もう止めろよ」「子供相手にやり過ぎだろ」


 流石に見かねた野次馬から制止の言葉が漏れるが、警吏はまるで意に介さない。


「何を言っている?俺はこのコソ泥の小僧を戒めてるだけだぜ?お前らもこいつらには頭に来てただろうがよ」


 薄ら笑いを浮かべた警吏の言うように、貧民街の住人による犯罪に悩まされ、怒りを感じていた人々は押し黙る。多くは複雑な面持ちであったが、留飲を下げ気の晴れた表情の者も確かにいた。

 野次馬の中には冒険者の姿も確認出来るが、見も知らぬ少年のために、進んで警吏と事を構えようとする物好きはいないようであった。

 

 海老反りになって痙攣する男児をさらに痛めつけようと、男が一歩を踏み出した時、群衆の列が乱れた。憐憫と愉悦が入り混じる感情の渦の中から現れたのは、全身を黒に染めた異国の男であった。蓬髪を無造作に纏めた髪も、顔の下半分を覆う髭も黒。瞳の色も黒ならば着ている衣服まで黒かった。

 武蔵はそのまま歩みを止めず、少年と警吏の間に立つ。

 闖入者の出現に騒然とし、入れ替わるように静寂がその場を支配する。苦しみ悶える少年、ユーリが蹲ったまま、息も絶え絶えに武蔵を見上げていた。


「何のつもりだ?異人」


 己の前に立ち塞がる異国の男に対し、怪訝そうな顔をして警吏が問う。同僚の男も一歩引いて様子をうかがっていた。武蔵は何も答えない、ただ炯炯たる目で警吏を見据えている。


「何のつもりだと聞いている」


 苛立つ警吏を他所に、尚も口を開こうとしない武蔵。周囲から浮いた異様な風体が、衆人の視線と好奇を引き寄せる。何かが起きる予感に皆が期待を膨らませた。


「失せよ」


「何ぃ!?」


 低いが良く通る声で武蔵が言った。思いもかけない言葉に意味が飲み込めず、警吏が声を荒げる。間をおいて理解が追いつくと、顔が赤く染め上げられていく。


「失せろだと!?」


 男の頬が、顳顬が震えていた。目は血走り、口から泡でも吹きそうであった。


「お前、今俺に失せろと言ったのか!? 誰に向かって言っているっ!」


 自分の言葉で更に憤激し、武蔵に向ける顔は憎悪に醜く歪んでいた。射殺さんとでもする視線を、武蔵はそよ風のごとく平然と受け流し、ただ静かに警吏を見る。全く動じる素振りのない異人に、更に怒りを募らせ、遂に剣を鞘から抜き放った。固唾を飲んで見守っていた人々から悲鳴が上がる。

 

 今にも斬りかからんとしていた、その時。警吏は己に向けられた異人の黒い双眸の奥底で、狂気が燻っている事に気付く。それはそのまま消えゆくかにも見え、また突如として燃えあがる熾火の様にも思われた。一瞬、業火に飲まれる己の姿が脳裏を過る。不意に足が意思に反して一歩退いていた。目を見開いて己の足を見つめる警吏。驚いた表情のまま顔をあげると、凄むわけでもなく、静謐を纏い佇む異人の姿が目に入る。黒い双眸が真っ直ぐ警吏を捉えていた。すると、どういう訳か急速に男の昂った感情が萎んでいった。

 魂でも抜かれたかのように、緩慢な動きで剣を腰の鞘へと戻す。先程まで憎悪に燃えていたその目には、最早如何なる感情も浮かんではいなかった。何が起こったのか理解不能といった顔で見つめる群衆。


「ゆくぞ」


 警吏は不思議そうな表情を浮かべている同僚に視線をやると、その場を去ろうとする。


「待て」


 その背へ待ったがかかった。警吏が振り返ると異人の姿があった。


「銭袋を置いて行け」


 同僚は今度こそ仲間の男が切れるのかと思った。だがその思いに反して、男は無言で銭袋を衣嚢から取り出し、異人へと投げた。武蔵が手で掴んだのを確認すると踵を返し足早に遠ざかっていく警吏。その後を怪訝そうな顔の同僚が追う。その背中を更に人々の視線が追っていた。





「どうしたジャメル、何故剣を納めた?」


 何やら気の抜けた面持ちで、黙々と足を動かす警吏に同僚の男が疑問をぶつけた。ジャメルと呼ばれた警吏は足を止め、空を見上げながら口を開く。


「俺にもよく分からん。分からん、が......命を拾った気がする.......」


 呆然とした口調で不明瞭な事を言うジャメルを、同僚は胡乱気に眺める。短気で乱暴者のジャメルがああいった形で退いたのを初めて見たからだ。

 男にはあの異人が大したものには思えなかった。異国人ということもあり得体の知れなさこそあったが、魔力はほとんど感じられず、何がジャメルを翻意させたのか全くもって分からない。もっとも先の言葉では本人も分かっていないようであったが。そのまま屯所に着くまでの間、互いに口を開く事はなかった。



 惨劇を期待していた者は失望のため息をつき、無事に事態が収まる事を望んでいた者は、胸をなでおろす様に息を零した。皆が様々な思いを抱えながら日常へと戻っていく。あっという間に人の波は引き、残されたのはユーリと武蔵のみとなった。


「大事ないか」


 武蔵は未だ腹を抑え横たわるユーリへと声をかけた。少年は苦痛に顔を顰めながら頷く。身体の奥に鈍痛は残っていたが、呼吸が出来るようになり幾分楽になっていた。何とか上半身を起こし胡坐をかいたユーリの元に、銭袋が放られる。顔を上げると異人の黒い瞳が見下ろしていた。身体の深奥まで覗き込むような眼であった。


「お主の物であろう」


 そう言うと背を向け人ごみの中へと消えていった。感謝の言葉を述べる暇もない。ぽつんと一人残されたユーリに、何者かが足音を立て駆け寄っていく。


「ユーリ、大丈夫!?」


 悲鳴のような声を上げたのはベルであった。紺碧の瞳に映る少年の顔は、驚くほど大きく腫れ上がっている。


「ねぇちゃん、どうしてここに?」


「患者さんが教えてくれたの。貴方が警吏の人に絡まれてるって」


「そう。ごめん心配かけて」


 見た目は酷いが意識がしっかりしていることに取り合えず安堵するベル。


「頭は打ってない?吐き気とかは?」


「大丈夫だよ、平気平気」


 そう言ったユーリは満身創痍であった。顔は目が開かないほど腫れあがり、服はずたぼろで出血によって赤黒く染まっている。皮膚が捲れあがった個所では桃色の脂肪層が顔を覗かせていた。ベルは思わず眉根を寄せる。


「大丈夫じゃないじゃない。顔をそんなに膨らませて、身体も血だらけよ。さ、負ぶさって、診療所に行くわ」


「嫌だよ、格好悪い。それに、ねぇちゃんの服が汚れちゃうよ」


「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」


 ベルがユーリに背を向けて屈む。渋々とベルに背中に負ぶさるユーリ。少年の重さなど微塵も感じていないように立ち上がると、背後に声をかけた。


「何があったの?」


「道を歩いてたら警吏の奴に突き飛ばされたんだ」


 その言葉だけで何が起きたか、大凡おおよその事を察したベルであった。周囲を検めるが警吏の姿はない。道を行く人々の好奇の視線だけがあった。


「警吏の人は何処行ったの?」


「異国の人が追っ払ってくれた」


「異国の人?」


 思いがけない言葉に問い返す。


「真っ黒の人」


「なによ、それ」


 ユーリの余りに抽象的な表現に思わず吹き出してしまうベルであった。子供扱いされたように感じ、膨れるユーリ。


「笑うなよ。髪も目も服も黒かったんだ」


「そうなの。で、その人は?」


 ベルは辺りを見回すがそれらしき人物は何処にもいない。


「警吏を追っ払ったら直ぐにどっか行っちゃった。お礼を言う暇もなかった」


「もしまた会うことがあったら、その時はちゃんとお礼を言うのよ」


「うん」


 素直に頷くユーリ。ベルは空を仰ぐと懸念の情を浮かべる。


「でも心配ね。あの人たちに目をつけられなきゃいいけど」


「多分大丈夫だよ」


「何で?」


「分かんないけど、なんか凄く強そうだった」


 警吏が何故引き下がったのかユーリには分からない、ただ自分を庇うように立っていた男の背中は、広く大きく、とても頼もしく見えた。そして黒い瞳と交錯し、項が逆立った昨日の事を思い出す。


「そうなの?私も見てみたかったな、真っ黒の人」


「なんだよ、真っ黒の人って。意味わかんないよ」


「ユーリが言ったんじゃない」


 ベルが笑う。その背中で少年も痛みを堪えながら笑った。

 



 四人組の冒険者が屋台の前で足を止める。何やら言葉を交わすと先頭にいた者が店主に向かって声をかけた。


「おい、エッテカル、八つ頼むぜ」


「あいよ」


 威勢の良い声が響く。屋台の中を覗きながら冒険者が口を出す。


「燻製肉、ケチらずに沢山入れてくれよ」


「肉を減らして利益を上げる様な狡っからい真似するかよ。うちは何時だって大盛りよ」


 店主は持ち前の口八丁で返す。注文に応え、手を動かしながら、視線は冒険者越しに女と女に背負われた男児に向いていた。痛々しい姿であったが、女の態度から一先ず大事はないだろうと安心する。


「へっ、やってくれたぜ。あの旦那」


 遠ざかっていくベルとユーリを見ながら、屋台を営む男は嬉しそうに呟いた。


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