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武士 異伝  作者: 弁鳥有無
降誕編
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陸 襲撃

 男はこの森に跳ばされてから二度目の朝を迎えていた。

 まだ薄暗い中、焚き火の熱が冷気を抑え、煌煌と辺りを照らす。

 昨日の朝の訪れとは格段に力の漲り方が違う。全身に纏わりついていた倦怠感は後退し、響く様な頭痛も何処かへと消えていた。

 相も変わらず喉は渇き腹は朽ち睡眠も十分ではなかったが、耐え難いほどではなくなっている。

 昨日は不快であった森の濃密な朝の臭気が、今は心地良く感じるのだから人の体とは不思議な物だ。


 昨夜、男は何物かの視線を感じたが、それ以外は特に危険は訪れなかった。

 男の視線が巨木の洞へと向けられる。青年の気に変化は無い、呼吸も安定しており命に別状はないようである。

 そこで青年から渡された水筒を思い出す。

 倒れぬよう大地に穿った穴に置いておいたのだった。立てておかねば水が零れるなど、水筒の役割を果たさぬ不備に、何かの拍子に蓋を失ってしまったのだろうと考える。

 持ち上げると昨夜より明らかに重い。

 口にあて味を確かめてみる、やはり水であった。

 空に近かった水筒の中に、水が七割ほど湧いているのを確認する。

 やはりこの筒には何かしらの不思議な仕掛けがしてあり、水が湧き出ててくるのだ。

 青年は未だ起きる気配が無いので、水と麺麭と干し肉で朝飯を取る事にする。

 麺麭は石の様に硬く、唾液を吸い取ったが、水筒の水でふやけさせて腹へと流し込んだ。

 塩気が強い干し肉も、喉の渇きを気にする事無く食べ、水を飲み喉を潤した。

 決して充分な量ではなかったが、渇きが癒えれば癒えるほど、腹が満たされれば満たされるほど、身体に力が湧いてくるのを感じる。

 ほんの数刻前には死を覚悟していた筈が今、男は生きる力に溢れていた。


 息をゆっくりと吐き、自然の内に意識を沈ませてゆく。徐に腰から刀を抜くと、薙ぎ、払い、突き、撃ち、斬る。刀が欲する動きに体が反応していた。

 起伏の富んだ地形に足を取られることなく、舞うように刀が振るわれる。

 刀と同化した流れる体捌きは、清流の如き透徹を体現していた。

 身体の隅々まで意識を行き渡らせ確認、順調に回復しているとの応えが返ってくる。思考から動作への遅延はなくなり、考えるより先に動きとなって現れていた。


 剣舞を終えると瞑目し、気を静めてから刀を鞘に納める。

 男が大樹へ視線をやると、呆然とした青年の姿があった。剣を振るっている最中に青年が目を覚まし、食い入るように凝視しているのを感じていた。よろよろと立ち上がり、覚束ない足取りでやって来ると、興奮したように異国の言葉と大仰な身振りでなにやら喋った。

 伝わらないのは承知の上らしく、うんうん頷くと気が済んだのか焚き火の前で腰を下ろす。

 顔を見れば随分血色が良くなっており意識もしっかりしているようだ。少しばかり残しておいた水筒を、目礼し感謝の意を示して青年に渡す。

 首肯して受け取った青年は、昨日と同じく背嚢から乳白色の丸薬を取り出して口に含み、水で飲み込みんだ。

 徐に立ち上がり、空になった水筒を腰に巻いている革帯の取っ手に据え付ける。

 青年は男へと向くと残った右腕の手振りで行こうと示した。

 男が土をかけて焚き火を消しているのを、何か言いたげな目で青年は見つめていた。

 大樹の洞に置いてあった背嚢を青年が背負おうとしたが、左腕がなくなったために体の均衡がとれず、よろめいたので男が持ってやる事にする。

 巨木を囲うようにして置いてあった石を、青年は一つずつ丁寧に拾い上げていき、腰にぶら下げていた小さな袋にしまう。

 青年は男へ頷き、出発の準備は整った事を告げた。


 こうして男は漸く森を出る一歩を文字通り踏み出した。








 青年が向かっているのは黒い川の下流であった。どうやら男の考えは間違っていなかったらしい。

 森の出口は川の下流方向にあるのだろう。

 青年は左腕が無くなった体の重心を掴むのにも慣れてきたようで、一歩一歩力強く歩いている。

 昨日の出血による衰弱が信じられないぐらいだ。

 片腕を失うほどの重傷を負って、翌日には元気に山を下っているとは、男が持つ常識からかけ離れている。

 そんな男の考えを他所に、青年はたまに振り返ると身振りで背嚢は重くないかと気遣ってくる。

 その度に男は大丈夫だと頷いていた。

 蛭の知識があるのか青、年は川辺ではなく川が目に入る距離を一定に保って下っていく。

 青年はこの森に慣れているようであり、行動に躊躇ためらいが無い。


 途中一度休憩を取り麺麭と干し肉、湧き出た水筒の水で昼飯とした。

 青年は腹が減っていないのか水と丸薬を飲んだだけだ。

 あれほどいた蟲にも出くわす事無く、日が沈む頃にはなんと木々の切れ間から街道が望む事が出来た。

 男は拍子抜けする。森を抜け出るまで数日はかかると予想していたからだ。

 もしかしたら運よくこの巨大な森の端に飛ばされていたのだろうか、それとも思ったほど広範囲の森ではなかったか。どちらでも構わぬ、男の目には強い力が撓められる。

 漸くこの場所から出られる安堵を余所に、大きな危険が迫ってきているのを感じていた。

 粘りつく視線の主が少しずつ距離を詰め間近に潜んでいる。その視線が含む意は既に好奇ではない。

 男の勘が戦いになる事を告げていた。


 今日のうちに森を抜け出ることは叶わず、完全に日が暮れる前に男が火を起こそうとしたとき、青年が慌てて止めに入った。

 手振りで大きな人型の線を描き、火に向かって来ると言っている様であった。

 男は頷き、青年を少し離れた巨木へと誘い、腰の石を指して結界を張れと示す。青年は尚も身振りで火を起こすと大きな敵がやって来ると伝えていたが、男が再び大きく頷くと諦めたように自分を中心に結界を張った。背嚢から昨日より常食となっている堅い麺麭と干し肉を取り出し、結界を出ると水筒と共に男へと渡す。

 火を起こし終わった男は目礼してそれらを受け取った。青年はまだ何か言いたげであったが結界の内に帰って行く。


 男は焚き火に当たりながら夕飯を食べ、じっとその時を待った。

 昨日より水と食事を取った事と、気を抑制した事で万全とまではいかないが大きく復調している。目を閉じ雑念を消して森との同調を図る。男の気が薄れ、周囲に溶け込んでいき、存在までもが消え失せたかに見えた。結界の中で息を潜め、じっと見つめていた青年の顔に驚きが浮かんだ。

 森と同一化した男は、己を中心に円を心に描いていく。そしてその円を徐々に広げる。

 この内に入った生き物はどれほど気配を消そうと察知する事が出来る。

 円の中にいるはずの青年の気配は感じる事が出来ない、結界は効果を発揮している。

 靄のようなものを感じとれるだけで、そこに人の気配は無い。

 更に円の半径を広げる、かなりの大きさになったはずだが蟲の気配さえ感じない、これは異常な事であた。之ほどの広範囲に渡って生き物がいない訳が無いからだ。


 半刻ほど経った頃だろうか、円に反応があった。

 大きな気を持った何かが、円の外周を出たり入ったりを繰り返している。

 男の結界とも言うべき気の範囲を確かめているのだろうか。

 と、突如何処から現れたのか五匹の蟲が男へと向かって来るのが察知される。

 目を開けると、連なる様に巨大蟻が五匹、巨木を掻き分け男の前方より襲い掛かってきた。

 先頭を切る蟻は、炎を恐れる事無く突進してきた。薪が弾け、火の粉が飛び散り、当たり一面を赤く彩る。

 

 男は先頭の蟻の大顎が閉じるより先に踏み込み、鞘から刀を抜き様斬り上げる。鉄のような外骨格を持つ蟻の頭部が難なく切断。淡い光を放つ刀は、異常とも言うべき切れ味と強靭を取り戻していた。頭部を両断された蟻は活動を停止させる事無く、そのまま突き進み男へと体当たりをする。

 己を上回る大きさの巨大蟻の猛進を、男は斬り上げた勢いで体を捻り、崩れた体ではあったが左肩で受け止めた。

 途轍もない力が肩に加わるが男は踏み止まる。踏みしめる大地には蜘蛛の巣状の亀裂。

 数瞬、蟻は前進を試みたが、やがて動かなくなった。胴の下で燻る火種に炙られて、嫌な匂いが辺りに漂う。

 

 間をおかず二匹目と三匹目が左右から襲撃。男は動かなくなった蟻を踏み台にして挟撃をかわす。

 獲物を見失った二匹の蟻は互いに減速する事無く衝突した。

 その上に男が天より降ってくる。

 先ずは左の巨大蟻の頭部へと刀を振り下ろし頭部を断ち切った。緑の血液が糸を引き、頭部失った身体が倒れる。

 右の蟻が攻撃後の僅かな隙をつき、男を咥える様に左右から巨大な鎌を振るう。

 刃が合わさる大きな音が轟く。身体を大地に沈めることで躱し、起こし様に下から上へと斬り上げた、豆腐の様に頭部が縦断され、緑の血液を垂れ流し巨大蟻は痙攣、やがて動きを止める。

 四匹目の蟻は一匹目の死骸を乗り越えて、上から攻撃をしてきた。体ごと押し潰す気らしかった。

 後方と左右を死骸で塞がれた男は、残された前方へと動くことで頭上からの押し潰しをかわそうとした。

 しかしそれは罠であった。最後の五匹目の蟻が、死神の鎌のような牙を持ち上げ待ち構えている。

 逃げ場が無くなった男へ前後から二匹の蟻が挟撃する。

 だが男は冷静であった。

 頭上より襲い掛かってきた蟻を刀で突き上げる、刀は難なく外皮を貫くが巨大な身体がそのまま武器となって落ちてくる。


「ぬあああああああああああ」


 足元から腰へ、腰から腕へと、男の声と共に桁外れの膂力が発揮され、貫かれた蟻が前方へと物凄い速さで投げ出される。

 堅く重い物がぶつかる音が周囲に轟く。

 投げ飛ばされた蟻によって五匹目の蟻の頭部が押し潰されていた。

 地面には今にも飛ばそうとしていた蟻酸が泡を立てて異臭を放っている。

 五匹全ての蟻を倒したが男は油断していなかった。

 蟻を誘導した最後の見えざる敵がまだ残っていた。

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