陸拾捌 不穏な香り
あばら家が立ち並ぶ貧民街の奥には、場に似付かわしくない一際目立つ邸宅が辺りを圧倒する様に建っていた。広く大きく瀟洒なその建物は、貴族のものとゆかぬまでも相応の金がかかっているように見える。周囲の貧しさから浮いた豪華さは、一種異様な雰囲気を醸し出していた。
「今週の分を貰おうか」
人を払った部屋で、アチェロが中年を過ぎた小太りの男と向かい合っていた。男は警吏の制服を着用し腰には剣を佩いている。扉の外では同じ服を着た部下らしき男たちが二人待機していた。
巡回と称して週に一度、警吏が貧民街に集金にやってくる。今日がその日であった。
アチェロが懐から音を立てる小袋を取り出し、差し出された男の手へと渡す。警吏は面倒くさそうに袋の口を開くと、欲望に濁った眼で中を一瞥し、紐を締めて無造作に衣嚢へと突っ込んだ。
「いいだろう、じゃ、また来週。念のために言っておくが遅れたり、金が足らなかった時は分っているな」
「分かっている」
小太りを睨みつけるアチェロの瞳は怒りに燃えていた。青年の反応に男は軽く瞠目し、続いて口元に嫌らしい笑みを浮かべる。
「くっく、分かってんならいい。金を払える限りここはお前たちの住処だ。街の連中が何を言おうと、なぁに、気にする事はない」
言って男は横に広い背中を向けた。僅かに振り返り、魚が腐ったような目がアチェロを捉える。
「一つ忠告しておくよ、アチェロ。下の連中をしっかり躾けておかないと寝首をかかれるぜ」
痛いところを突かれたアチェロは、無言で更に強い眼差しを向ける。
「おおぅ、怖い怖い」
お道化る様に言い男は部屋を出て行き、待機していた部下を連れ帰っていった。暫くの間、思案気な顔で警吏が去った扉を見つめるアチェロ。頭の中で小太りの言った言葉が、木霊の様に何度も繰り返されていた。
警吏の男たちが建物を出て悪路に辟易しながら歩いていると、何処から現れたのか、周囲を伺うように襤褸を纏った男が近寄って行く。頭巾を深く被った怪しげな風体にもかかわらず、護衛を兼ねる二人の部下は動かない。先頭を行く小太りの警吏に並んで歩くと唇を動かさず、囁くように言葉を漏らした。
「旦那、例の話、考えてくれましたか」
小太りは答えない。
「旦那」
催促する男を見もせず、小太りは億劫そうに口を開いた。近くで飼っているのか、鶏の鳴き声が聞こえてくる。
「我々警吏はこの区画には関知しない。何度も言っているだろう、アチェロは中々の男だよ。まだ若いが度胸があり腕っぷしも強い」
頭巾に隠れた男の口から歯軋りが聞こえた。小太りは汚物でも見るかのように一瞥、言葉を続ける。
「だが、毎週こちらの要求する金額を用意できれば頭が誰だろうと構わん。犬だろうが鶏だろうが」
一言一言区切るように話す。そして前を向いたまま、最後にはっきりと言った。
「お前だろうがな」
貧しい形の男に酷薄な笑みが浮かぶ。望んだ言葉を引き出せたことに満足した男は、足を止めると軍靴を汚しながら遠ざかる警吏たちを見送った。
黒衣の男は通りに並ぶ屋台の一つで腰を下ろし、少し遅い昼飯をとっていた。前掛けをした三十路の痩せた店主が、興味津々に男の食べっぷりを見つめている。
「どうよ、異国の客人。うちのエッテカルは?」
黒衣を纏った異国の男、武蔵であった。バイロンから剣墓の丘を経て、気の向くまま放浪し、エルボヌエルグへと流れついていた。
店主の言うエッテカルとは、イルティア麺麭と呼ばれる細長い麺麭を縦に裂いて、切れ目に豚の燻製肉を挟み、その上からたっぷりと醍醐をかけた料理であった。固い麺麭を武蔵の強靭な歯と顎が難なく噛み千切り飲み込んでゆく。
「美味い。もう十くれぃ」
「そうだろ、美味いだろって、おいおい、冗談だろ。そんな食えるわけ......はえぇな、もう一本食っちまったのかよ」
「食べ残しても金は貰うぜ」と言いながらエッテカルを作り始める店主。待っている間、武蔵は魔道具の筒から水を飲みながら何とはなしに通りを眺める。仕事がうまくいったのか、冒険者が徒党を組んで笑いながら歩いていた。反対側から歩いてくるのは行商の者であろうか。大きく膨らんだ背負い袋を、汗を垂らしながら背負っている。
目の前を女児が母親に手を引かれ通り過ぎていく。武蔵の異相が気になるのか、口に指を咥えたまま足を止め、じっと見つめていたが母親に急かされ遠ざかっていった。
通りを行く人々の頭には、空高く上った太陽から燦燦と陽光が降り注ぐ。「出来たぜ」と言う店主の言葉に視線を戻そうとした視界の端で、揃いの服を着た警吏と思しき二人組の男と少年が交錯するのが見えた。子供が勢いよく弾き飛ばされ、警吏の怒号が響く。
「何処見てんだ、クソガキが!!」
怒声を上げた警吏が転がったままの子供に近寄っていく。その途中で、何かに気づいたように足を止め、地面に落ちていた物を拾い上げた。銭袋であった。恐らく少年が落とした物なのだろう。苦痛に顔を顰めつつ体を起こした男児の目に、警吏の男の手にある物が映る。咄嗟に己の衣嚢に手を突っ込んで無いことに気付くと、血相を変えて跳ね起き警吏に迫った。
「返せ、返せよっ!!」
転んだ拍子に石畳で擦りむいた手を赤く染めながら、必死に警吏に掴みかかる。その余りに真剣な姿を面白がる警吏。少年が騒ぐ声に引き寄せられ、忽ち遠巻きに人垣ができた。
「銅貨しか入ってねーじゃねーか」
男児が届かないように両手を上げて袋の紐を緩め、中を覗いた瞳には嘲弄の色。。取り返そうと跳躍して男の腕に縋りついた際、掌から流れ出た血が付着した。だらしなく笑っていた警吏の顔が豹変する。
「汚ねーんだよ、ガキぃ!!」
振り払った男の手の甲が子供の頬を打った。マナ使いの剛力で殴られた少年は、先程とは比べようもない勢いで吹き飛んでいく。地面と衝突し二度三度跳ねて漸く止まった。
野次馬の女たちから悲鳴が上がる。見ていた誰もが最悪を予想した。衆目が集まる中、少年は身体を震わせ、起き上がろうとしていた。その様子を見ていた何人かからは、安堵の息が吐かれる。
「返せ、返せよ.......それは、ねーちゃん、が」
朦朧とした意識の中で同じ言葉を繰り返す。石畳に擦れた個所の皮膚が捲れ、赤い中に桃色が覗いていた。小さな体に残された力で立ち上がり、全身を血に染めながら、よろよろと警吏に近づいていく少年の姿は、見ている者の憐れを誘った。だが警吏は良心の呵責を感じるどころか、加虐心を刺激されたようで、口元に冷たい笑みを浮かべている。同僚の男は先程から止めもせず、詰まらなそうに傍観するだけであった。
黙って眺めていた店主は、苦虫を噛み潰した様な顔で「けっ」と吐き出すと、誰に言うでもなく独り言のように語りだした。
「あの小僧は貧民街の住人でな。この辺りでしょっちゅう盗みを繰り返してたんだ。まぁ奴にしてみればそれしか生きていく方法がなかったんだろうが、盗まれる側にしてみればたまったもんじゃねーわな。貧民街の大人の連中も、野郎は強請り集りに乱暴狼藉。盗みに薬、果てには人殺し、女は女で騙りに美人局に売春と、まぁやりたい放題で街の皆は酷く嫌ってんだ」
「警吏は何をしておる」
「あれ見りゃ分かんだろ。ガキ相手に暴力を振るう連中だぜ。あいつらが俺達庶民の為に動くかよ」
警吏を睨みつけ、怒りと共に言葉を吐き出す。
「なぁ、あんた。見たところマナ使いなんだろ?あの小僧を助けてやってくんねーか」
「何故そう思う」
武蔵は五つ目のエッテカルを食べながら、真剣な眼差しを向ける店主に問う。
「腰に剣を差してるし、なんつーか、独特の雰囲気を持ってるからよ。違うのかい?」
「違わぬな」
「だったら頼まれてくれ」
台の上に両手を置いて真摯な態度で武蔵に乞う店主。先程の口ぶりから男も窃盗の被害にあっていたのが伺い知れる。子供とは言え、罪人のために懇願する店主を不思議に思う武蔵であった。
「お主もあの童に盗みを働かれたのではないのか」
「よくやられたよ。だが年明けぐらいだったか、アチェロって若い野郎が貧民街を仕切るようになってから連中も少しマシになってな。それに加えてベルって娘が小僧みたいな身寄りのないガキを集めて一緒に暮らすようになり、盗みを止めたんだ」
八つ目を食べながら武蔵は店主の言葉に耳を傾ける。話は続く。
「俺は思うのよ。連中もそんなに悪い奴らじゃねぇってさ。生まれついての悪党なんざいない、ただ生きるために、生きていくために必死でやってんのよ。人の業ってやつかね。勘違いしねーでほしいんだが、だからと言って悪事を認めてるわけじゃねーんだぜ。だがよ、誰かが手を差し伸べたら真っ当な道に戻れるかもしれねーじゃねーか」
「何故自分で助けぬ」
「馬鹿言わねーでくれ、こちとら一般人だぜ。魔力持ちになんか逆立ちしたって敵わねーよ」
店主が俯いた顔の前で手を振る。
「それに警吏に目をつけられたら、ちんけな俺の店なんざ潰されちまうぜ。ったくバイロンと言いこの街と言い何処の警吏も腐ってやがる。いや、この国自体が傾いちまってんのかもな」
「バイロンも腐っておるか」
「あぁ、そう聞いたぜ。悪事は千里を走るってな。悪い話ってのはどんなに隠そうが漏れてあっという間に広まるもんさ」
世の真理だと言わんばかりに、大仰な身振りで両腕を開く店主。
「あんた、レグリアかアインヴェルヘに行くんだろ?だったら後腐れなく人助けができるってもんだ。パッと助け、そのままこの糞ったれな街を出ていけば、あの糞警吏どもも流石に他国にまで追ってきゃしねーよ。勿論ただとは言わねぇ、頼まれてくれればここは俺の奢りよ」
「くっく、直截だな」
男の明け透けな物言いに思わず武蔵の口から笑いが零れる。
「それだけが俺の取り柄さ」
「面白い男よ。馳走になろうではないか」
武蔵は笑みを浮かべたまま立ち上がると、そのまま騒動の中心である少年の方へと歩き出した。「頼んだぜ、異国の旦那」という男の声を背中で受け止める。




