陸拾漆 貧民街の女と男
ユーリは見たこともない衣装を纏い、自分達白き民とは大きく異なる相貌を持った男に自然と興味を引かれる。皿に山のように盛られた串焼きが見ているうちにも凄い勢いで減ってゆく。強靭そうな歯で牛肉に噛みつき串から引き抜いて食べる姿は、肉食獣が獲物に食らいつく様であった。視線を感じたのか男の黒く濡れたような瞳がユーリを捕らえた。目が合った瞬間、少年の項が逆立つ。関わるのは危険だと第六感が警告を発していた。貧民街育ちという過酷な環境を生き抜いてきた本能が訴えるまま、躊躇することなく少年は一目散に逃げ出す。
男が追ってきている気がしたが恐ろしくて振り返る事が出来ない。脇目も振らず、ただ我武者羅に走った。必死の形相で駆けてゆく子供をすれ違う人々が何事かと目を丸くする。勝手知ったる大通りと裏道を駆使して、追いつかれぬように足と同じく頭を働かせる。生きていくために獲得した逃げ足と驚異的ともいえる持久力で貧民街に辿り着いて、漸く安堵し背後を見る余裕が出来た。恐る恐る振り返る。ユーリの視線の先には
誰もいなかった。
顔面を蒼白にし汗を滴らせて帰ってきたユーリを見てベルは驚いた表情を浮かべる。子供たちを心配させないようユーリを別室に連れて行き、手拭いで汗を拭いてやった。
「どうしたの、こんなに汗をかいて。何かあった?」
「別に、何もないよ」
異国の男を思い出し、恐怖と杞憂に過ぎなかった気恥ずかしさで強張った顔を隠そうとするユーリを、それ以上問うことなくベルは話題を変えた。
「食べ物買えた?」
「ごめん、何も買えなかった」
俯きながらか細い声で少年が答える。異変に気付いたベルが胸の前で手を組み、痛みを堪える様に眉根を寄せる。
「また何か言われたの?」
「値段を吊り上げられた。穀物屋の親父、僕たちに嫌がらせして憂さを晴らしてるんだっ!!」
堪り兼ねた鬱憤が言葉となって床に叩きつけられる。激しく感情を露にする少年の様子を見て、ベルは優しく体を引き寄せ抱きしめた。ベルの温もりを感じユーリの激情が静まってゆく。
「ごめんね、ユーリ。やっぱり私が買い出しに行くわ」
「ねぇちゃんが行ったら余計に面倒なことになるよ」
ベルの言葉に、抱きしめられたままのユーリはくぐもった声で反対する。
「......そうね」
抱擁を解くと、ベルは寂しそうに微笑んだ。
「......ベル、聴こえますか、ベル。届いていますか、私の親愛なる娘......」
夢と現の狭間、その二つが混ざり合う意識の片隅。何処か遠くで自分を呼ぶ声が聞こえる。何時もの夢だ。聞き覚えのない、だが母親が幼子に向ける様なとても慈愛に溢れる、それでいて哀切が混じる声であった。呼び掛けてくる声が聞こえるようになって何度目の夜だろうか、最近は眠りにつくと決まってこの夢を見ていた。段々と近づいて来ているのか、日に日に声が明瞭になっている。答えようとするが言葉が出てこないのも毎回同じだった。
「ベル......べル......」
そのうち声は遠くなり眠りは深くなる。意識は何処までも落ちてゆき、目が覚めれば何時ものように覚えていない。
「おあよぅ、ベルねぇちゃ。おなかすいた」
ベルは幼子の空腹を訴える声で目を覚ます。チータと言う名の女児が枕元に立ちベルを見下ろしていた。眠い目をこすり一つ欠伸をすると起き上がる。木窓を開けると差し込む朝日が目に眩しい。雲一つない晴天で、空は何処までも高く心地のいい風が室内に流れてくる。初夏であった。
「おはようチータ。今日は早いのね、急いで朝ごはん作るからお利口さんで待っててね。さぁ、みんな朝よ」
幼児たちの相手をしながら、得体の知れぬ不安が胸の奥で首をもたげるのを感じていた。何か大切な事を忘れている気がしてならなかった。だがそんな思いも、日々の忙しさの中で意識の外に追いやられ、やがて忘却の海に沈む。
「みんな、食べ終わった?今日の当番は誰?」
「あたし」
「じゃぁ、エペ。みんなのお椀と匙を持ってきてね」
「はーい」
子供たちに朝食を食べさせ片付けを終えると、ベルは仕事に向かう準備をする。支度を整え扉前に立つベルを子供たちが見送りに来ていた。最も年長であるユーリに、留守の間の子守を任せる。
「じゃ、行ってくるね。ユーリ、みんなの面倒お願いね」
「うん、分ってる。ねーちゃんも気を付けて」
『いってらっちゃい』
幼児たちの声が重なった。
ベルの向かう先は隣の区画と接する場所に立つ即席の診療所であった。中級治癒魔法を操るベルは、マナ使い相手に治癒術士として、魔力を持たぬ人々には医術士として診療を行っていた。
エルボヌエルグは近郊に古代遺跡も確認されておらず地下迷宮も発見されていないため、それらがある街と比較して滞在する冒険者は少なく閑古鳥が鳴きそうではあったが患者が絶えることはなかった。その理由として二つの要因があげられた。一つはエルボヌエルグは都市と都市との中継地である事から、商人の行き交いは頻繁であり、盗賊から荷を護る対策として護衛がかかせなかった。商人組合からの要請もあって街道沿いは警吏の目が行き届き比較的治安は安定していたが、一歩道を外れれば安全の保障はなく、山間部などは語るまでもないという有様であったため冒険者という護衛は必須であった。
何処からか湧き出るように現れ荷を狙う盗賊との戦いは避けられず、戦闘で負傷した冒険者が診療所の戸を叩いた。もう一つは久しぶりの街ということで羽目を外した冒険者同士、或いは地回りであるマナ使いとの喧嘩による負傷。街には何人かの治癒術士、医術士がいたが、丁寧な診察と安価であった為ベルが営む診療所は同業の妬みを買うほど繁盛していた。
「はい、これ虫下しの薬。これで腹痛も治ると思います、もし痛みが続くようでしたらまたお出で下さい」
「ありがとよ」
最後の患者を見送ると窓から夕陽が差し込んでいるのに気が付く。空が赤く焼けているのを見て、もうこんな時間かとため息をついた。疲労が身体の奥底に澱のようにたまっているのを感じる。
「ベル」
見計らったように現れたのは、まだ少年の面影さえ残る精悍な顔をした男であった。背はそれほど高くないが鍛え抜かれた肉体を持ち、一目でマナ使い、それも前衛と分かる。鎧は着用しておらず、腰の革帯に剣を佩き、簡素な衣服を身に纏っていた。この国では比較的珍しい黒髪で、僅かだが肌の色も浅黒い。女を見つめる茶色の瞳は、優しい色を湛えていた。男を見るベルの顔からは疲れの色が消え、微笑みが浮かぶ。
「アチェロ、今日もご苦労様。貴方が直接来なくてもいいのに」
「残念ながら信用できる者がまだ少ないからね」
「はい、これ今日の分」
ベルは机の上にあった今日の診療代をアチェロと呼ばれた男に差し出す。男は受け取らず、ベルの手にある銭袋を忌々し気に睨みつけていた。
「どうしたの?」
「......いや、君に働かせ、その上がりを掠めているようで自分が屑に思えてくるよ」
若いアチェロの顔が自嘲的に歪む。
「何を言ってるのアチェロ。貴方はよくやってくれてるわ」
「私も何か稼げる仕事があればいいが、今は此処を離れるわけにはいかないから......」
申し訳なさそうなアチェロに、両手を前に組んだベルが優しく語り掛ける。
「そうね、せっかく少しずつ良くなってきてるのに、今貴方がいなくなったら元の木阿弥になるわ」
「人を率いるのは難しいよ。私が若輩と言うのもあるんだろうけど、不満が燻ってるのが手に取るように分かる」
ベルから視線を逸らし俯いた凛々しい顔には、苦い笑みが浮かんでいた。苦悩するアチェロの両手を、固くざらついた暖かいものが包む。家事に追われ仕事で荒れたベルの手だった。アチェロが顔を上げると、真摯に己を見つめる愛らしい女の顔があった。
「貴方がいてくれたから此処まで来れたのよ」
「......そうだね。でもまだまだこれからだ。今は弱音を吐いてる暇なんかない。貧民街の人々の、何より幼い子供たちの明日のために」
そして、君のために。その思いを飲み込んでアチェロは決意を新たにする。アチェロの言葉を聞いて嬉しそうに微笑むベル。女の笑顔を見ると、男は眩しそうに目を細めた。




