陸拾陸 失われた神々
イルティア第二の都市ヴェロンの南東部に位置するエルボヌエルグはワースルフ山脈の麓、エレシー川に沿って発展してきた人口二万ほどの都市である。
周囲を山々で覆われた山岳都市であり、ヴェロンと隣国レグリアの都市テューリーの中継地として永らく栄えてきた。まだエウロヴァの人々が神々を崇めていた時代は、慈愛と豊穣の女神の聖地として多くの巡礼者が訪れていたがそれも今は昔。聖十字教が広く信仰されだすと廃れ、今では名前さえ人々の記憶から失われていた。
中継都市エルボヌエルグの南東区画には貧民街が広がり、その一角にひっそりと朽ち果てた像が立っていることは街の住人でさえ知らぬ者が多かった。時の経過によるものなのか、或いは意図的に破壊されたのか像の頭部は存在せず、胴体部分の胸の膨らみから女人を象った物であることが類推出来る。
晴天の早朝、その像の前で膝をつき両手を組み合わせて熱心に祈る女の姿があった。元は生成色であったであろう薄汚れた貫頭衣を着、腰を紐締めしただけの貧しいなりをした女の顔はまだ若い。短く切り揃えられた金色の髪から覗く顔には少女の面影が残る、十代後半の娘であった。湯浴みどころか身体を拭く余裕もないのか、その顔は早朝にもかかわらず若干薄汚れてはいたが瑞々しい生命力に満ち溢れている。
「豊饒神キュリアよ、今日も世界に恵みがもたらされんことを」
女神像の足先で娘は祈りの言葉を呟くと目を開き、膝についた土を叩きながら元気よく立ち上がった。そこへ慌ただしく大地を踏む足音が響く。娘に勢いよく駆け寄るのは十二、三歳の生意気盛りの男児であった。
「あっ、いたいた。ベルねぇちゃん、お腹すいた。朝飯にしようよ」
ベルと呼ばれた愛らしい顔立ちの娘は、優しい光を宿す青い眼で腹を空かした子供を見る。
「そうね、皆起きてる?」
「腹減ったって騒いでる」
「あら、大変」
走る邪魔にならぬよう裳の裾を両手の指で摘まみ、たくし上げると健康的な白い脚を露出させて駆け出した。
「あっ、待ってよ、ねぇちゃん」
男児がベルの後を追いかけてゆく。頭部が欠けた女神像が娘たちの背中を見送っていた。千年以上前、大陸には今より多くの神々が存在し、人々の主義、生き方に応じて多種多様な神が信仰されていた。像が立つこの場所は、嘗て大きな勢力を誇った豊饒の女神を崇める神殿であった。しかし聖十字教の浸食により女神の威光は徐々に消え失せ、信徒もまた急速にその数を減らしていった。神々が唯一つの神に駆逐され出すとある神は忘却の彼方に追いやられ、またある神は邪悪な存在として十字教の教義の中に組み込まれていく。
聖十字教に宗旨替えをした時の領主の命により、街の外壁の拡張の名のもと神殿は破壊、石材として持ち去られ、今では見る影もない。生い茂る雑草の中から垣間見える土台の残骸だけがその名残と言える。隆盛の時代から、名前が失われた今日に至るまで、女神像は街の民の日常を変わらず見守り続けていた。
みすぼらしい部屋では喧騒の中、十人近い子供たちが所狭しと食卓を囲む。卓の上には粗末な木製の椀と匙が置かれ、その中には黒く濁った汁が入っていた。ベルが全員に行き渡ったことを確認する。
「みんな、揃った?じゃあキュリア様に感謝の祈りを」
ベルに促され、子供たちはそれぞれの文句で謝辞を口にすると一斉に匙を掴んで椀に飛びつく。黒麺麭を水で煮込んだだけの薄い塩味の粥であった。子供達は決して美味しいとは言えない粥をがつがつと頬張り、あっと言う間に食べ尽くす。
「おねぇちゃん、足りないよー」
「あたしも」
「もっと食べたいー」
子供特有の甲高い声で空腹を訴える言葉が部屋を満たす。困った顔をしたベルはまだ手を付けていない自らの椀を掲げた。
「しょうがないわね、私の分をみんなで分けて」
「駄目だよ、ねぇちゃん。ねぇちゃんがしっかり食べて働いてくれないと、この不味い黒粥も食べられなくなっちゃうんだから。お前たちも我慢しろ。ベルねぇちゃんが倒れてもいいのか?」
ベルが足りないと喚く幼子達に自分の椀の中身を分けようとするが、先程迎えに来た男児に遮られる。此処にいる中で最も年長であり、子供たちのまとめ役のようであった。
「やだー、おねぇちゃん、たおれちゃやだー」
「ごめんなさい」
「がまんするー」
男児に窘められた子供たちは眼に涙を浮かべて謝罪と我慢の言葉を並べた。ベルの顔には、子供たちに腹一杯食べさせてやる事が出来ない己への不甲斐なさが滲んでいた。
「みんな、ごめんね。今はこれが精一杯なの」
「ねぇちゃんが謝る事じゃない。こいつら、贅沢になってきてるんだよ。前までは一日に一度のご飯も食べられなかったって言うのに」
ベルの消沈した姿を見て怒りを募らせた男児が幼子らを睨みつける。
「わーん、ユーリにぃちゃんがこわいー」
「ほら、ユーリ。そんな顔しない」
ユーリと呼ばれた少年はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「ベルねーちゃん、アニエスがおしっこだって」
「ちょっと待って。ここでしちゃ駄目よ」
「あっ!!」
「え!?」
「うわ、きったねぇ」
「シャルロ、踏んじゃ駄目!!って遅かった」
「あーあ、こりゃ掃除が大変だ」
「たいへんだー」
「たいへんだー」
騒がしくも明るい声が木霊する。子供たちの顔には笑顔があり、貧しくとも幸せそうであった。
エルボヌエルグの南区画で毎日開かれる市は今日も多くの客で賑わっていた。売り子や店主たちの威勢のいい掛け声が天高く吸い込まれるように響き渡る。町の住民達は勿論のこと、行商や旅の者、冒険者が食料を求めて足を運んでいた。小麦に大麦にライ麦、肉に野菜に果物から塩、酒などの調味料まで何でも揃っている。その中の一つ、穀物を売る店に、継ぎ接ぎだらけの服を着る貧しい身なりの少年の姿があった。ユーリであった。
「大麦一袋いくら?」
「銅貨三枚だ」
瘦せ細った陰険そうな中年の店主が、ユーリの眼前に三本の指を突き付けると口を歪めて答えた。
「こないだは二枚だったじゃないか」
「嫌なら他で買うんだな。もっとも貧乏人のお前らに売ろうなんて酔狂な店、そうそうないだろうが」
抗議をするユーリに店主は野良犬でも追い払うように手を動かす。明らかな嫌がらせだった。だがこの店に限ったことではない。貧民街の住人は何処へ行っても邪険に扱われる。
「じゃぁ黒麺麭は」
「銅貨四枚だ」
意地の悪い笑みを浮かべた店主の言葉にユーリは唇を噛む。何も買わずに店を出た。悔しさで涙が溢れそうになる。薄汚れた袖で眼を拭うと無理矢理笑った。あんな奴のせいで嫌な気持ちを引きずるのは余計に腹立たしいと思ったからであった。
気分を変えてユーリが漫ろ歩きをしていると香ばしい食欲をそそる匂いが漂ってくる。目を向ければ牛肉の串焼きを売る店であった。炭で炙った肉から油が滴るさまを見て思わず喉が鳴る。だがとてもユーリの手が出る値ではない。物欲しそうに佇むユーリの目の先で、一風変わった衣装に身を包んだ異国の男が黙々と肉を口に運んでいた。




