陸拾伍 鬼丸国綱
武蔵は窮地に陥っていた。どの武器を持ってしても男の剣の前ではギヤマン同然、触れれば悉く砕け散ってしまう。かと言って、無手で勝てる程生やさしい相手ではない。男に勝つためには少なくとも数度打ち合える武器が必要であった。男を視界に捉えながら、大地に突き立つ無数の武器の中からその条件に適いそうなものを探る。武蔵の気が散じたのを敏感に感じ取った男は、外套を靡かせ風の様に迫り剣を水平に凪いだ。体を退いてかわす武蔵の額に朱線が走る。男の攻勢は止まず、弓を射るように腕を引きながら踏み込み、武蔵の心臓を狙い剣を突く。線の攻撃に慣れていた武蔵の目が一瞬男の剣を見失い反応が僅かに遅れた。円運動で避けようとするも剣の切っ先が着物を、そして皮膚を噛み肉を食いちぎって行く。武蔵の胸部の肉が抉れ、溢れ出た血が着物を重く湿らせる。胸だけではない、額から流れる血も顔を赤く染め上げていた。剣を持った右腕を軽く一振りし、哲理を宿した深遠な男の双眸が武蔵を見据える。
「汝もまた此処で朽ち果てるだけの存在か」
男の声には失望と諦念が混ざり合っていた。武蔵から視線を外し、周囲の不規則に並び立つ武器を眺めると両腕を広げる。
「此処に在る武器は全て、宇を超え宙を超えてこの場に辿り着いた兵の成れの果て。兵仗を持たぬ汝は残念だが墓標も立たぬ」
男が語る背後では、山をも越える光の幕が七色に輝き不気味に丘を照らしていた。黙って耳を傾ける武蔵の赤い油膜に覆われた目は、満身創痍な見た目に反して強い光を灯す。肩を裂かれ胸を抉られ、更には額から溢れる血が目を濡らし、満足に見えない状態であっても、武蔵の気は僅かも衰えていない。剣が峰に立たされながらも強敵との邂逅に高揚すら覚えている。だが一方で剣士としての思考が今の状態を冷静に分析していた。男の剣は武器で防ぐ事は出来ず、剣技は見切りを許さない。あと数度振るわれれば動きに支障が出る傷を負わされ、更に数度振るわれれば致命傷となるだろうと推測される。
「その目、まだ諦めていないのか」
男の表情には憐憫さえ浮かんでいた。その気配は盲となった武蔵にも届く。胸の奥から込み上げる衝動。怒り。敵に憐れみを受けるなどあってはならぬ事であった。しかし、窮状を打開する手が見つからない。相打ち、脳裏に過るその考えに、武蔵は自分が追い詰められていることを改めて認識する。目が見えぬ事で更に敏に成った武蔵の感覚が男の踏み出す気配を感じ取った。
来る。武蔵は即座に相打ちを決断、手近にあった武器を掴み迎え撃とうとしたその時。
何かが呼んだ気がした。それは人が話す声でもなく魔術師が使う心話でもない、あえて言えば気配。汝が求むるものは此処に在るという意思。引き寄せられるように赤い目を向ければ、無数の影の中に刀と思しきものが突き立っていた。
男の疾走を力に変えた斬撃を呼びかけられた方へ転がるように避けると、勢いを利用して立ち上がり様に刀らしき物の柄を握った。追撃する男の剣が武蔵の背を捉えるが着物を切っただけで僅かに及ばない。半ば視力を失った目の先にあるのは紛うことなき刀であった。両の手で柄を握り締めた瞬間、武蔵の身体を雷に打たれたかのような衝撃が襲う。天啓の如き、この刀ならばと言う直感。
「ぬぅ!!」
欲するまま大地より引き抜いた先に現れたのは大きな反りを持った刃長二尺五寸八分五厘の太刀であった。
「ほぅ、それを手にしたか。その太刀の銘は」
「鬼丸国綱」
男の言葉を遮るように武蔵がぼそりと呟く。焦げ茶の皺革で巻かれた柄を握る手は小刻みに震えていた。そこにある筈のない命の脈動を感じる。
「知っていたか。それとも今知ったのか?武士である汝がこの地にて太刀を手にする。これも因果か」
「俺が求めこの太刀が応えた。それだけよ」
右手に持った鬼丸国綱をだらりと下げ構えとも言えぬ構えをとる。海がただ海で在るように、空がただ空で在るように武蔵もまた在った。男の口からほぅと言う感嘆の息が漏れる。
「汝には期待できそうだ」
男もまた武蔵と同じく剣を持つ腕を無造作に下げる、二人が対峙する姿は鏡映しのようであった。武蔵と男を包む空気が見る見る硬質化していく。時が止まったかのように互いに動かない。男の顔からは笑みが消えていた。男の呼吸を読み、一挙手一投足を捉えるべく武蔵の五感が更に研ぎ澄まされていく。先に動いたのは男であった。両手で握る剣を上段に構え踏み込みざまただ振り下ろした。宙を裂くような躱すことを許さぬその一撃を武蔵は太刀を横にして受ける。静謐な墓所に澄みきった高い金属音が響き渡った。先程までの悲鳴のような音ではなく、それは歓喜。武蔵もまた犬歯を剝き出しにして笑う。鬼丸国綱は刃毀れ一つする事無く男の剣を受け止めていた。十字となった剣と刀の鍔迫り合い。見かけによらぬ男の剛力を武蔵の膂力が上回る。
「ぬぉう!!」
武蔵の気合と共に押し切られた男の身体が後ろへと弾かれた。初めての勝機。突きあげた手首を返し大瀑布が如き一撃。今度は男が剣を横に掲げ防ぐ。轟音。しかし不安定な姿勢では力を吸収しきれず、踏みしめる大地に大きな亀裂。叩きつけられそうになる寸でのところでいなし力の方向を変える。縦にした剣身に沿って激しく火花が散り太刀が逸れる。瞬時に体勢を立て直した男の腕は、そのまま振り上げられ武蔵に向かって縦一閃。武蔵が撃ち上げて迎撃、互いの太刀と剣が銀色の円と線と点を描き、嵐となって打ち合う。盲目同然の武蔵は目を瞑ったまま男の気だけを頼りに太刀を振るっていた。五合、十合と重なる剣戟の音が、鎮魂歌となって七色に照らし出される丘に捧げられる。力に勝る武蔵の重い一撃を受けて男が大きく後退った。武蔵が追撃に移ろうとするより速く、男が左手を前に掲げ口を開く。
「待て。今はここまでだ」
武蔵は踏みとどまっていた。掲げた手を戻し男は完全に構えを解いている。小細工や策ではないようであった、その証拠に男から放たれる気が急速に萎んでいく。
「何を言うておる」
突然の闘いの放棄に武蔵は疑問を投げる。男は極光の天を見上げていた。瞑目したまま武蔵も男の気配につられて見上げるが、その先にあるのは変わらぬ巨大な極彩色の幕が揺蕩う姿。
「間もなく星の位置が変わる。早々にこの地を離れねば汝は元居た場所に帰れぬ」
「なに」
風に揺られるような光の幕の遥か彼方にあるものを、その目は捉えているようであった。嘘偽りを言っているような雰囲気ではない。男は視線を武蔵に戻し口を皮肉気に歪める。
「このまま私と戦い、永劫をこの地で過ごすのが望みなら止めぬがな」
茶目っ気のある気配に興を削がれた武蔵は鬼丸国綱を一振りすると腰の帯に差そうとして思い留まった。
「鞘はないのか」
未だ視界が赤く染まったままの武蔵は、鬼丸国綱を大地に突き立て腰帯に掛けていた魔法筒を手に取ると両目を洗う。そして血が入らぬよう袖を裂き包帯代わりに額に巻いた。無論男がいつ仕掛けてきてもいいように気を張り巡らせてある。
「足元を見るがいい」
男の言葉に武蔵は朧げ程度には視力を取り戻した目で地面を見る。引き寄せられるように手を伸ばせば我知らず鞘らしきものを握っていた。眼前に掲げ検めてみれば、濃茶の皺革で包まれ金茶色の平糸巻きを施された鞘であった。寸毫の狂い無く引き抜いた鬼丸国綱が納まるとそのまま腰に差す。
「来た道を下ればよいのか」
「そうだ。安心せよ、私と汝は何れまた出会う。勝負はその時まで預けておくだけだ」
戦い足りない思いを全身から隠さず発する武蔵を宥めるように言った。
「一先ずさらばだ、放浪者よ」
男が目を細める。それが如何なる感情を表すのか武蔵には想像もつかなかった。
「次こそは私を......」
武蔵と男を何処からともなく突如発生した濃霧が遮る。言葉の続きと共に男は飲まれていった。武蔵もまた白の世界に誘われ、来た時と同じように夢の中に迷い込んだかのような感覚に陥る。身体に刻まれた傷の痛みと腰にある重みが現実だと告げていた。




