陸拾弐 老人
意識が急速に覚醒する。何者かが部屋へと近づいてくるのを察しての事だった。眠りの中でも気配を感じ取り、目が覚めたということは体力が回復した証左だ。体に染み込んだ長年の習慣から目が刀を探すが、闘いによって失われたのを思い出した。前に起きた時と同じ事を繰り返していると自嘲の笑いがこみ上げる。
掛け布団を剥ぎ体を起こすと何も身に着けていないことに気づいた武蔵は、台の上に畳まれていた着物を見つけ、寝台から下りた。何日も伏せていたため身体は一回り萎んでいたが、足はしっかりと床を掴み驚くほど体が軽く感じられた。着物を手に取る。来訪者との戦いで襤褸くずとなったはずの着物が新調されていた。アントンに仕立てを頼んだのだろうか。着終わると盛大に腹の虫が鳴る。身体が血肉が足らぬ、失われたものを取り戻せと訴えていた。武蔵を眠りより覚ました何者かの気配が部屋の前で止まると、扉が数回叩かれ開かれる。
「目が覚めていたか、ムサシ」
三十代と思われる長身の男が歯を見せて開口一番言った。アベルであった。アベルが武蔵の状態を確かめるように見る。病み上がりとは思えぬほど武蔵の目には強い光があった。
「腹が減った」
「はっは、扉の外にまで聞こえてきたよ。その様子だとすっかり復調したみたいだな。我々もまだなんだ、一緒にどうだね?」
アベルは笑いながら親指を後方へ向ける。
「うむ」
「では行こうか」
アベルに連れられ武蔵は食堂へと赴く。通路に出て幾つかの角を曲がると両開きの大きな扉が現れた。アベルが扉を開き武蔵を中へと促す。白い内装の広い部屋にはツィトスと屋台広場に冒険者を引き連れ現れたドニスという男に老人が一人。
「またお会いしましたな」
武蔵を見るなり老人は持っていた茶碗を静かに置いた。穏やかに微笑んだ何処かしら品のある顔には見覚えがあった。地走り亭で邂逅し予言めいた警告をしてきた老人であった。
「二人はお知り合いだったんですか?流石はベルカ老、抜け目がない」
「偶々ですよ。飯屋で偶然この方と出会って二言三言交わしただけです」
大袈裟に驚いて見せるツィトスにベルカ老と呼ばれた老人は淡々と答える。
「あの子供のことは残念でした」
地走り亭で武蔵に金を無心し、ロランに惨殺されたアナクレトの事を言っているのであろう。武蔵は如何なる感情も表さず、何も答えない。アベルが老人へと片手を掲げて紹介の言葉を並べる。
「ムサシ、この方は前商工組合長で現相談役のベルカ老だ。ベルカ老、こちらはムサシ。遠い異国からのお客です」
「貴方の活躍はこの老体の耳にも届いておりますよ。先ずはこの街に住む民の一人として灰狼を討ってくれたお礼を」
そう言って立ち上がり腹の前で手を組んで祈るように首を垂れる老人。武蔵は一瞥すると空いていた席に腰を下ろした。アベルも席に着く。食堂机には純白の布が敷かれ、その上に肉叉と小刀、匙が置かれていた。
「礼などいらぬ。それよりも飯をくれぬか」
「ほ、面白い御方だ。では食事にしましょうか」
ベルカは食堂机の上に置かれた呼び鈴を摘まむと左右に振って鳴らした。武蔵が入ってきたのとは別の扉が開き、使用人が銀のお盆に乗せた料理を次々と運んでくる。忽ちの内に武蔵の目の前には様々な料理が並んでいた。
「食うてもよいか」
「どうぞ。存分に召し上がれ」
ベルカの了承と同時に料理が凄い勢いで武蔵の腹へと呑まれてゆく。アベルとツィトスには幾度目かの光景だが、初めて目にするベルカとドニスは呆気に取られていた。
「おいおい、異国の客人、ムサシと呼ばせて貰うが病み上がりでそんなに食べて大丈夫か?」
ドニスの心配する言葉に武蔵は何の反応もせず食事を続け、見ている間にも料理が平らげられてゆく。空いた皿を片付け代わりの料理を運ぶため、数人の使用人が厨房と食堂を何度も往復していた。
「私も職業柄、マナ使いの方と食事を共にする機会がありますが、ここまでの大食漢は中々見たことがありませんな」
武蔵を見る皴に埋もれた老人の目が丸くなっていた。呆れ顔のドニスが、この男は何時もこうなのかと視線を向けた先のアベルは苦笑をもって応えた。黙々と食べ続ける武蔵を他所に他の者たちの間で会話が弾む。武蔵が肉叉と小刀を置いたのは軽く十人前を食べ終えた頃であった。忙しなく動いていた給仕たちの顔には安堵の色。ツィトスとベルカの間で交わされる話題が此度の騒動に及んでいた。
「ベルカ老、貴方は何時から灰狼の正体に気づいていたのですか?」
「初めからですな。克肖会が何やら裏で動いていることは掴んでおりましたから」
「それほど早く!?」
余りの驚きに思わず叫んでしまうツィトス。
「えぇ、私たち商人にとって情報は命より大事なものです。抜かりはありませんよ」
「いくら黒幕が宮宰だったとは言え、何かしらの対策を取ろうとは思わなかったのですか?奴らのせいでバイロンの経済は停滞したでしょうに」
「カリル・マテリアルはこの国の実権を握りつつあります。我々は王族派と宮宰派の闘いは宮宰に軍配が上がるとみております。そんな方を相手に表立って敵対行動をとるわけにはいきません。非道と言われようと私たちは利を追求するのが仕事ですから、そこに情や感傷と言ったものが入りこむ余地はないのです」
老人の安穏と思われた瞳に一瞬、無慈悲な光が差す。
「貴方たち商工組合が傍観したせいで、冒険者だけでなく一般の民にまで被害が及んでいます。幾つもの家族が悲惨な運命を辿ってますよ」
「批判は甘んじて受けます。この街の運営を任されている身として被害に遭われた方への補償は商工組合が責任をもって遂行しますよ」
ベルカは瞑目し茶碗を両手で包むようにしていた。その様は死者たちへ黙祷を捧げているようにも見えた。
「今回の件を表層的にしか捉えてなかった私たちは、さぞ滑稽に映っていたでしょうね」
恨めしそうにベルカを見るツィトスの口から皮肉気な言葉が吐かれた。
「エーレン殿が怒鳴り込んでくるだけで中々察してくれないので匿名の手紙でも出そうかと思っていたところでした」
老人の言葉を聞いたツィトスが何かに気づいたように目を見開く。
「もしかしてオットリーノさんが娼婦に話した寝物語と言うのは」
ベルカは穏やかな微笑みを浮かべたまま何も答えない。自分が辿り着いたと思っていた答えが、実は誘導されたものだった事に気付く。
「成程、そういう事でしたか。バイロンの悪評が近隣に伝わりだした事で宮宰殿の目論見は達成されましたからね。その段階で動いたとしてもお目溢しを受ける可能性は高い、それでも貴方方は危険を避け間接的な手段で我々を導いたと言うわけだ。目に余りだした灰狼を冒険者組合に討たせれば自分たちは関係ないと言い訳がつきます。目的が達成した宮宰や克肖会からしてみても灰狼は用済みでしたでしょうから、寧ろ手間が省けたと感謝されたのかもしれないですね。あとは宮宰がトゥールス公爵から虎の子のバイロンを取り上げるだけ、おそらく引き続き商工組合がバイロンの運営を任されるんでしょう」
アベルもドニスも口を挟まない。ツィトスの疑問はそのまま彼らの疑問であったからだ。武蔵も目を瞑り静かに耳を傾けていた。ベルカは首を振る。
「貴方は何か勘違いをしていますな。カリル・マテリアルは公爵からバイロンを取り上げるつもりなどありませんよ」
「どういう事です?」
解き明かしていたつもりになっていたツィトスの顔に心からの疑問が浮上する。
「ご存知の通り公爵領のトゥールスはピレネオス山脈を挟んで異教国であるイスベリアと国境を接していることから小競り合いが絶えず、西には魔の森と呼ばれるハーデンヘイツが存在し常に魔物の発生に脅かされ監視を怠れません。それ故トゥールスは私軍を持つことを許されているわけですが、大きな戦もなく、失われた世代と揶揄される現在のイルティアにおいて絶え間ない緊張と度重なる戦闘で磨き抜かれたトゥールス兵は精強無比。彼らはイルティアの剣であり楯なのです。
宮宰からしてみれば下手に公爵に仕掛けて国を二つに割っても国力を大きく減退させるだけ、最終的に勝利を収めても先の理由から疲弊し消耗した戦力の多くをトゥールスに充てざるを得ません。国の衰退は周辺国の要らざる欲望を刺激しかねない。労多くして益少なし。初めから宮宰には公爵と本気で事を構えるつもりはないのですよ」
「では此度の陰謀の本当の目的は何なのですか?」
ツィトスは食堂机に両手をついて乗り出していた。喋り続けたことで口が乾いたのか、ベルカは茶碗を傾け喉を潤すと十分な間をおいてツィトスの問いに答える。
「示威行為からの共存です。今や自分は聖十字教会とも通じこれ程の力を持っている、と言った感じですかな。まさか来訪者が出てくるとは私たちにも驚きでしたが。公爵もトゥールスを手薄にすれば背後からイスベリアに衝かれかねず、トゥールスの民を危険に晒す事になり動くに動けない。互いに手詰まり。そこで宮宰が画策したのが今回の件なのです。
トゥールスの自治もバイロン領の所持も今迄通り認める、その代わりに己がイルティアの王となる事を了承しろと暗に迫ったわけですな。既に国内の多くの有力貴族が宮宰に下っております。今は公爵派とされている貴族も明日はどうなるか。もはやこの趨勢は変えられぬと公爵自身も考えておいでだと思います」
「回りくどい事だ」
呆れた表情でアベルが初めて口をはさんだ。ベルカの老いた眼がアベルを見る。
「それが政と言うものですよ」
「つまり貴方方は傍観する事によって宮宰の意図をはっきりと公爵へ伝える機会を取り持ったとでも言いたいのですか?それによって内戦を回避するつもりだとでも?」
「戦は商人の稼ぎ時ですよ、ツィトスさん。ですが私のように年を取ると人が苦しむさまを見たくなくなるものです」
「一人を殺して二人を生かすですか?」
バイロンで数十人、数百人が犠牲になろうとも戦を回避できればその何倍もの人を救うことができる。だが犠牲になった者、そして遺族の思いは何処へゆくのだろう。
「ならば婉曲な手段などとらず、直に今回の件の内幕を我々に教えてくれればよかったのでは?」
ツィトスの疑問に商工組合の相談役は見つめ返すだけで何も答えない。
「自分の頭で考え行動することが大切と言う事ですか」
老人は青年の答えに満足そうに微笑んだ。




