伍 光明
それは蟲の気配ではなかった。
今にも消えそうな程弱っているその気配は紛れも無く人のものであった。
最早立ち上がる力など露ほども残っていなかったが、満身創痍の身体を起こし重い足を引き摺りながら、気配の元へと歩いてゆく。
細い糸のようなそれを頼りに、必死の思いで漸くその場所に辿り着いた筈であったが誰もいない、見慣れた巨木が立っているのみである。が、何やら可笑しい。妙に曖昧な印象を受ける。目を凝らせば紛れも無く巨樹であるが、視線をずらし目の端に捉えると、霞みがかっているようにも感じられる。
男は鈍い足取りで近づくが、やはりただの巨樹でしかなかった。しかし薄い気配は間違いなくこの場から漏れている。男が樹の幹を手で触る。その途端、木にしか見えなかったものが人として認識された。男が大木の虚に隠れるように身体を寄せていた。
狐につままれたとでも言うのか、何とも不可思議な思いで倒れている者を検める。強い血臭がした。
果たして男は薄い茶色の髪に、彫りの深い面貌、異人であった。歳は二十代か旅装をしている。顔色は悪く血の気が失せており、その原因は肘から先がなくなっている左腕にあった。左腕の付け根近くできつく縛りあげ、血止めは済んでいる様に見えた。
その腕の先、断面には、何やら紋様が描かれた呪符らしきものが何枚も貼り付けてあり、薄っすら血が滲んでいる。
男は瀕死の青年に声をかけるより先に、青年が右手に握っている鈍色の水筒らしき筒に目を奪われていた。唾も出ないほど乾いていたが唾液を飲み込んだように喉が鳴る。
了解も無く青年の残った方の手から奪い取り、振れば水がたっぷり入っている音がした。毒見をする事無く口に含み飲んだ。甘露であった。筒の中は間違いなく水、だがこれほど水を美味いと思ったことは、男の長い生涯でも一度も無い。
ゆっくりと、乾ききった身体に染み渡らせるようにゆっくりと飲む。
水筒の中身を飲み干すと息をつく。暫し呆けていた。
我に返ると水を補給したせいであろう、幾らか身体に力が戻ったように思われた。そんな中、男は視線を感じる。青年が瞼を開け、力を失った青い瞳で凝視していた。男は青年と視線を合わせ目を伏せる。
「すまぬ。理由にならぬが、丸二日水を飲んでおらず断りも無く頂戴してしまった。許されよ」
男は詫びを入れた。その態度に応じて、青年はか細い声で囁くように答える。やはりと言うべきか、青年が口にした言葉を男は理解できない。当然であろう、男は日ノ本の言葉しか話せないのだから。
和蘭、葡萄牙人に似た風貌なれば、喋る言葉も異国語であるはず、分かるはずもない。自分の言葉に何の反応も示さない男を、青年は困惑したように力の無い空ろな目で見ている。
お互いに理解できたのは言葉が通じず、意志の疎通が不可能だということだった。
青年が視線を男が持つ自分の水筒へとやった。
それに気付き、男は手に持つ自分の命を救った鈍色の筒を改めて見る。冷やりとした金で出来ていると思われる筒に、不可思議な紋様が刻まれており、中央に血の様な赤い石が填め込まれている。その石に強い気を感じた。石から出た気が筒の紋様を介して何かしらの力となっているのが分かる。
興味を掻き立てられたが、何時までも持っていては奪われたと勘違いされかねぬので、通じぬとは分かっていたが感謝の弁とともに青年の手へと返す。その時振れた拍子に、飲み干したはずの水筒に、ほんの僅かだが水が溜まっているのを感じた。青年は失血から来る震える手で受け取ると、自分の失った右腕を突き出し顎で血止めをしている紐を指した。どうやら解いてくれと言ってるようだ。
きつく縛ってあった紐を解いてやると青年は抱え込んでいる背嚢から薬らしき小指の先程の丸い粒を二つ取り出し、口に含み水で飲もうとした。しかし水筒には僅かの水しか入っておらず、億劫そうに青年は腰に下げていた皮袋を口にあて、中の液体と共に丸薬を飲み込んだ。
青年は空ろな目で男を見ると、少しばかり考えてから背嚢を指差し、次に男へと向け口に当てた、中にあるものを食べても良いと身振りで示しているようだ。多くの血を失った青年ほどではないが、男も水を飲み幾らか力を取り戻したとはいえ、目の下には隈が出来、頬は窪み顔色は悪かった。
加えて旅支度めいたものを何も持っていないのを見て、青年は男へと自らの持ち物を提供しようとしているらしい。遠慮なく背嚢の中身を物色し、干し肉と乾いた麺麭を手に取り食べ始めた。男は聞いた話として、異人が常習的に食す麺麭なるものを知ってはいたが、実物を見たのは初めてであった。恐ろしく堅く塩辛い肉と麺麭を、強靭な歯と口の筋で食い千切り、次々と腹へ流し込んでゆく。忽ち食べ尽くしてしまった、一日分だったか二日分だったか、かなりの量を。喉の渇きが癒された途端、今度は異常な空腹が襲っていたせいである。
水に続き二度目の過ちだ、これはまた詫びを入れねばなるまいと青年を見ると、目を瞑り細い寝息を立てて眠っている。大きな借りが出来ていた、命を救われたに等しい大きな借りだった。水も食料も十分ではなかったが、これで暫くは動ける。
突然この森に放り出された自分とは違い、当然青年は森の出口を知っているはずである、荷物の量を見るに、そう遠くない場所にそれはあると思われた。希望が出てきた、青年が目を覚ましたら身振りで示し案内を頼む。この者を連れて森を出るのだ。
しかしよくこの流れ出た血の匂いで蟲共が寄って来ないものだ、と考えていると男は青年の足元に、筒に嵌められたのと同じ気を放つ赤い小石が置かれているのを見た。青年が身を寄せる巨木を中心に幾つかの石が定期的に並んでいる。何か呪いの様にも見える、すると先程の幻術のような出来事が思い出された。
これは陰陽師の言うところの結界ではないか、この石の力によって姿を隠し蟲をやり過ごしていたのではと男は考えを巡らす。日の本においては、まやかしをと一笑に付しているところだが、此処では不可思議な力が働くのを身をもって確認している。そう考えれば青年が血の匂いを漂わせながら、蟲に襲われていないのも説明がつく。無闇に触れてはこの術が解かれてしまうやも知れぬと、男は青年が目に入る範囲まで距離をとり、目覚めを待つ事にした。
二日目の夜が訪れていた。相変わらず月は昇れど光は届かず、手馴れた様子で火を起こし青年が起きるのを待った。だが失血からの衰弱からか一向に目覚める気配が無い。様子を見ると息はしっかりしており、初めて会った時よりかは幾分顔色に血の気が戻ってきているようにも見える。先程の薬が効いているのか。
食べ物が血肉となるのは理解しているが、あの小さな丸薬を飲んで数刻足らずで血が増えているとするならば、巨大蟲と言い己の常識が通じぬ可笑しな世界に来たものだと、つくづく感じていた。青年の背嚢より拝借した麺麭を火で炙って食べようかと思ったが、喉を潤した先程とは違い、唯でさえ少ない口の中の唾液を吸い取られ、食べられた物ではなかった。
干し肉を火に当てて齧るが、これも喉が渇く。水が飲みたかったが、衰弱して眠りに着く青年を起こすのは躊躇われた。
青年の寝姿を視界にいれ、周囲への警戒も怠らないまま、時だけが過ぎてゆく。焚き火の熱と光だけが今宵の友であった。巨大蟻が二度ほど近くを通ったが、こちらに関心を示す事無く森の中へと消えて行った。
青年が眠りの中、無意識に動かした右手から水筒が転がる。すると何と言うことだろう、筒の中から水が零れ落ちているではないか。
急ぎ駆けつけ筒を拾うと、まだ中にはかなりの量の水が残っていた。これは一体どういう事か、確かに先程自分が飲み干したはずであった筒の中から、水が湧き出てくる事などあろう筈もない。この水筒に嵌め込まれている石と紋様に関係しているのだろうか、今も気の様なものが働いているのが分かる。
摩訶不思議な筒に考えを巡らせていると、青年が身じろぎをしてから重そうに瞼を開いた。男が水筒を青年へと差し出すと、虚ろな目で受け取り水を飲み始める。水筒を空にして一息経つと青年の目に知性の光が燈った。
青年は先ず自分の身の回りの物を確認し、何も失われていない事に安堵すると目の前に立つ人物を改めて観察する。自分とは明らかに違う顔立ち、衣服、佩刀する武器、通じぬ言葉、これらを鑑みるに異国、それも相当遠い国からの放浪者と思われた。不思議だったのは男が武器以外、何も持っていなさそうな事であった。
この森に何の用意も無しに立ち入るというのは少しでも知識があればあり得ない事である。何にせよ衰弱し眠っていた自分に手を出さなかったところを見ると、悪い人間ではなさそうだと言う考えに至った。
安心したのか弱った体が求めるのか、青年を再び睡魔が襲ってくる。眠りに落ちる前に青年は水筒を男へと手渡す、気付いてくれればいいがと思いながら。遠ざかる思考の内に、焚き火の炎が目に入る。一瞬意識が覚醒するが、体が欲する眠りには勝てない、あぁ、これはまず
青年は再び眠りについた。
手渡された筒を振るが当然何も入っていない、では何故青年は自分に寄越してきたのだろうか。時が経てば湧いてくるのだ、先にあった事は何れまた起こる、俄には信じられないがそう結論付けた。
水筒を倒れないように大地に置き、周囲の気配を探る。何かに見られている、と言う感覚があった。昨日より時折付きまとう、この視線の持ち主には全く心当たりが無い訳でも無かった。
昨夜の瞑想中に感じた大きな気の持ち主が思い当たる。殺意とも敵意とも異なる、粘りつくようなこの感覚を強いて言えば好奇心だろうか。蟲ではない知性を持つ何かが己に興味を持ったのだ。男はそう感じていた。