伍拾肆 再会
武蔵の前には運ばれてきた珈琲があった。湯気と共に馥郁とした薫りが武蔵の鼻腔を擽ってゆく。珈琲碗の取っ手を摘むと口元まで持っていき熱く黒い液体を口に含む。
「どうかね?」
アベルの好奇心が含まれた問いかけに一言。
「不味い」
少しも表情を歪めず真顔で言う武蔵に、長身を震わせアベルが大声で笑う。
「初めは誰もがそう思う。だが不思議とすぐに病みつきになるのだ。君はどうだねリグテュス」
「そうですね、香りはとてもいいのですがこの苦みが気になります」
言ってリグテュスは珈琲椀を卓に置くと、対面に座る武蔵が彼方を見るのに気がつく。何かあるのかと武蔵の視線の先を向こうとした矢先、強い魔力を感知した。
アベルも気づいたようで同じ方を向いていた。森人の形の良い唇から思わず疑問が漏れる。
「これは」
「先ほどから何者かが争うておる」
武蔵の言葉にアベルとリグテュスが目を見張る。自分が今気づいた魔力をこの男はそれ以前に、どのぐらい前かはわからないが察知していたのだと。
「ゆくか」
両者が凝視する中、平然と武蔵が立ち上がる。二人とも何処へとは聞かなかった。何故とも。無言で腰を上げ、立て掛けてあった武器を備えると、瀟洒な部屋を後にする。
「リグテュスよ、焼き菓子を食い損ねたな」
先頭を行く武蔵が森人を振り返り珍しく冗談を言った。
「なっ、私は別に!」
大きな耳を赤く染めて森人は抗議の声を上げる。そんな狼狽えるリグテュスを見てアベルが目を細める。
「いいですか武蔵。私は別に食い意地が張ってるわけではありません。そもそも貴方は」
恥ずかしいのを隠すためか何時もより大仰な手振りで滔々と反論を述べる。先刻まであった武蔵への蟠りは霧消したように見えた。
アベルは安心する。
今から向かう場所に想像通りの相手がいるとしたら三人の連携は必至である。僅かな不信が深刻な状況を招き兼ねない。リグテュスは武蔵に対して小さいとはいえ懸念を抱いており、放っておけばそれは熾火のように猜疑心を焼き続けたであろう。それをたった一言で解消させるとは。
アベルは今も尚、武蔵に言い訳をしているリグテュスを見る。或いは武蔵の言葉を切っ掛けとした森人の演技であり妥協なのかも知れない、だがそれならそれでいい。これから闘う敵を前に少しの不安要素も消しておきたかったのだから。たった一度の邂逅、アベルの心に刻まれた恐怖という名の亀裂。それを癒すためには刻んだ相手を屠ること以外にない。
アベルは知らず右肩から出る大剣の柄を握りこんでいた。目の前では未だリグテュスによる自己弁護が図られていた。武蔵は森人を相手にせず見もしない。その光景を見てアベルの口元に自然と笑みが浮かぶ。手から力が抜け、無意識のうちに気負っていたことを認識した。
二人のやり取りに既視感を感じその事に安堵する自分がいる。リグテュスと武蔵、どちらも知り合ってから間もない。武蔵に至っては僅か数日前に知り合ったばかりの仲だ。
だが不思議なことにもう随分前からの知己であるかのような印象を受ける。前を向くと武蔵とリグテュスが足を止めてアベルを見ていた。
「どうかしましたか」
「......いや、何でもない。もし生きて帰る事が出来たなら、とっておきの店を紹介しよう。勿論私の奢りだよ」
何故か気恥ずかしさを感じ、それを隠すように全く別の言葉が口から出る。
「縁起でもない。ですが楽しみにしておきます」
森人が淡い笑みを浮かべる隣で、武蔵は何も言わずアベルの顔を一瞥すると背中を向け歩いていく。途中、焼き菓子を運んできた店の主人とすれ違うとアベルが詫びを入れた。
「すまないが急用が出来てしまった。預けてある金で勘定をしておいてくれ」
主人は畏まりましたと言うと皿を持ったまま三人を見送る。
武蔵が皿に乗った焼き菓子をじっと見た。やれやれとリグテュスとアベルが顔を見合わせる。
「食うてもよいか」
店の主人が慇懃に頭を下げることで肯定する。差し出された皿から焼き菓子を掴むと強靭な歯で噛り付いた。数回咀嚼して嚥下する。
「如何でしょうか」
丁寧な態度で接する主人の表情から焼き菓子への自信が垣間見える。
「美味い」
とても美味しそうには見えない表情で言った。忽ちの内に食べつくした武蔵が横で物欲しそうに見ているリグテュスに問う。
「食わぬのか」
「いっ、いりません」
森人は顔を背けるが視線だけは焼き菓子から離れない。武蔵はアベルに視線を向けると
「お主は」
「私もよしておこう」
「そうか。では俺がもろうておく」
言うが早いか武蔵は残りの二皿からひょいと両手で掴むと、一つを口に入れもう片方の手で持ったまま歩き出した。
「あっ」
何故か悲し気な声が背後から聞こえたが武蔵には関係のない事であった。森人は気落ちしたように背中を丸め武蔵の後をとぼとぼとついてゆく。アベルと店の主人は互いに苦笑したまま視線を交わす。
「では失礼するよ」
「またの来店をお待ちしております。あの美しいご婦人に当店自慢の焼き菓子を是非とも食して頂きたいものです」
「伝えておくよ」
胸に手を当て見送る主人にアベルは右腕を上げて応え店を出た。
一帯を覆っていた土煙が晴れてゆく。注視していた誰もが息をするのも忘れ、事態の認識が出来ずにいた。無数の視線の先にある少女は無傷であった。
「そんな馬鹿な」
自らが放った高位砲弾魔法が全く通用しなかった事実に、ハィガニーの吃驚が口から零れ落ちる。次の瞬間、白目をむき倒れこんだ。限界を超えた力の行使に身体が耐え切れなかったのだ。地面に伏す魔術師を詰まらなそうに眺めている少女の周囲を半球状の幾何学模様が包んでいた。蒼褪めたツィトスの顔が少女に向けられる。
「高位魔法を完全無効化するほどの対魔法結界。貴方は一体何者ですか」
ツィトスの呆然とした言葉が、今この場にいる全ての者の疑問を代弁していた。
「見ての通りです。それにしても貴方方は酷い人達ですね。見てごらんなさい。家屋がいくつも倒壊してしまいましたよ。私が防がなければ更に被害は拡大していたでしょう、この人も生きてはいなかったでしょうしね。思わぬところで人助けをしてしまいました、感謝はしなくていいです」
少女の言葉通り近くにあった三棟が砲弾魔法による衝撃波によって無残にも崩れ落ちていた。住民を避難させていたことが幸いした等と思う余裕はツィトスにはない。
余りの力の差に恐怖と絶望が生まれ、代わりに戦意を喪失していた。少女の足元に転がるフィルベックはうつ伏せになりながら上半身だけを起こす。見た目通り頑丈なようで腹部を貫かれ、内臓を損傷し大量の血を失っても意識が鮮明な大男の目は驚愕に見開かれていた。
その驚きは少女が無傷な事なのか死を決意した己が無事な事なのか、或いは両方か。
「どうしました?もう終わりですか」
少女の無機質な声音が再度繰り返される。青年も大男も何も答えられない。傍観する冒険者たちの息を呑む音だけが静寂に響く。
「どうやら真打の御登場のようです」
その言葉にはほんの少しだけ弾んだような感情の残滓があった。王者の様に睥睨していた少女の顔が前に向けられると、誰もが釣られるように少女の視線の先を見た。
「あの娘だ」
前方で多くの冒険者の中心にいる少女を見てアベルが呟く。その目には歓喜と恐怖の色が等分に浮かんでいた。森人が軽い興奮状態になっているアベルの横顔を見る。
「あの者が貴方の言っていた少女ですか?」
「あぁ間違いない。見たまえ、あの娘の足元に転がっているのは探求の団の団長フィルベックだ。杖を持ったまま倒れているのはおそらく副長のハィガニーだろう。二人ともに上級使だよ」
アベルは図らずとも見せつけられた少女の圧倒的な力を前に陶然と言った。
武蔵は無言で少女を見つめている。少女もまた武蔵を見ていた。少女へと歩を進める。武蔵には僅かな先にいる娘が放つ気に覚えがあった。以前訪れた、名も知らぬ村で神父の助士をしていた娘のそれであった。顔はまるで違ったが少女が神父を屠った時に感じた気を今も明確に覚えていた。名を確か
「アナイス」
「知っているのですか」
武蔵の呟きにリグテュスが反応する。アベルも振り返って武蔵を見た。
「知らぬ、だが会うたことがある」
「どういう事ですか」
武蔵の答えに意味が分からず真意を問う。隣に立つアベルも何故今まで黙っていたのかと苛立ちを含んだ表情で無言のうちに質していた。
「顔が変わっておる」
「顔が?」
更に問おうと口を開きかけたところで少女が武蔵達へと近付いてきた。冒険者たちの輪が歪み武蔵達を呑み込む。
「アベルとリグテュスに、誰?」「あの異人」「何人だ?黄の民?」「今噂になってるリグテュスとよくつるんでるっていう」「あぁ!!ロランを斬った男か」「実質灰狼を一人で潰した男さ」「あの男が」冒険者の口から巷間が囁かれる。
冒険者が固唾を吞んで見守る中、武蔵と少女が対峙する。
武蔵の目に映るのは明るく輝くような金の髪と紺碧の瞳を持ち、人形の様に整った美しい十代半ばから後半の娘であった。
「お久しぶりですね」
薄い桃色の唇から若い娘特有の高い声が漏れる。少女は武蔵が気付いた事に気づいていた。
「何故顔が変わっておる」
武蔵が少女に問うた。凡庸だった顔が月光の翳りを帯びた様な美しい顔立ちへと変化を遂げていた。眉、目、鼻、口、顔の輪郭、髪と瞳の色まで違う。同じなのは性別と年齢ぐらいであった。
「成長期なのです」
「くっく」
冗談の割には声に感情が感じられない少女の答えに武蔵が笑う。
「この俺が幻術をかけられていたか」
「さぁ?どうでしょう」
少女が僅かに首を傾げる。
「あの村におったのは山賊どもを灰狼に引き入れるためか」
「想像にお任せします」
武蔵と少女の淡々とした会話が続く。リグテュスは事の成り行きを見守る事しか出来ない。アベルは滾る思いを必死に抑えていた。
「まさかお主が灰狼とはな」
「私は灰狼などではありませんが、どうでもいいことです」
リグテュスとも違う無表情であり無感動な声音で少女が答える。それはまるで人外の生き物が人の姿を借りて言葉を出しているようにも思えた。
底が見えない。
ゆるりと腰から鉄の精霊人によって鍛えられた精霊銀製の長剣を抜いた。
「お主の本気、見てみとうなった」
武蔵の眼光が刃の様に鋭く輝く。
「構いませんよ。ではやりますか」
散歩にでも行きますかと言った口調で言葉が終わった途端、少女から常識を超えた魔力が迸った。それは少し前に武蔵が克肖会で見せた気の放出が霞む程の途轍もない物であった。
大気が震えた。




