肆拾玖 森人
長身の女は一人、外壁の壊れた店の外に立っていた。通りを行き交う人々の中で女は嫉妬と羨望を、男は情欲の籠った好奇の視線を佇む森人へと投げつけていく。表情こそ無かったが空を見つめる瞳には寂寞の色。女の長い耳が小さく動き、僅かの後に青年が店から姿を現す。見上げていた視線を外してツィトスを見た。
「用件はすみましたか?」
青年に問いかける女の声からは如何なる感情も読み取れない。聴覚に優れた森人には店内でのやり取りが全て聞こえていたが敢えて尋ねた。
「御花料を置いてきました。あと店内が片付いてなかったので我々組合の者がお手伝いすると。返答はありませんでしたが、何時までもあのままでは気が滅入ってしまうでしょう?」
「そうですね」
ツィトスは再び空を仰いだリグテュスの秀麗な横顔を見つめる。何時もと変わらぬ無表情ではあったが憂いの影が差しているのが感じられた。
「冴えない顔をしていますね」
「えぇ、あの時、武蔵と灰狼が闘っていた時の事ですが私も偶然その場に居合わせたのです」
リグテュスの瞳は数日前の出来事が映っているかのように遠くを眺めていた。
「聞いていますよ」
森人はツィトスと視線を合わさず遠方を眺めたまま続ける。
「私が目端を利かせていたら灰狼の魔術師が放った魔法を防げたかもしれない、と考えていました」
その言葉を受け青年は溜息を零す。
「もしとか、たらとか、ればなんて言っても意味がありません。何人たりとも過去に起きた出来事を変える事は出来ないのですから。私たちに出来るのは過去の教訓を明日に生かすという事のみです」
「そうですね、その通りです」
リグテュスはツィトスに視線を戻す。青年を見る森人の瞳は思いのほか強い光を湛えていた。ツィトスにはそれが意外に思われた。親子の怨嗟に少なからず衝撃を受けていたように見えたからだ。だがその思いを口にすることはしない。
「行きましょうか」
「ええ」
二人の背中を南中から下った太陽が照らしていた。
街の猥雑さとは対照的に並んで歩く二人に会話はない。重苦しい雰囲気に包まれた青年と森人は、周囲の雑音から隔離されたように浮いていた。普段ならばリグテュスと二人きりになれたことを喜ぶツィトスも今日はそんな気分になれなかった。居辛くなった青年が歩みを遅め、別れの言葉をかけようとした時、沈黙を破ったのは森人であった。
「私は時々人が恐ろしくなります」
森人は足を止め前方を向いたまま言った。一瞬、強く吹いた風が金色の髪を巻き上げる。白銀の金属に包まれて、なお華奢に見える背中が目に入った。
「見ましたか、あの幼子の目を」
唐突に漏らされたリグテュスの言葉に、ツィトスは開きかけたままの口を閉じて頷く。やはり先ほどの事を引きずっているのか、と青年は思った。森人が僅かに振り返る。
「背筋が凍えるような憎しみの籠った視線で武蔵を射殺さんとしていました。あんな小さな子供があのような目をするとは」
思い出したのか森人の白皙の顔が青年には僅かに蒼褪めて見えた。
無言。
「そして武蔵です」
美しい宝玉のような二対の翡翠の瞳は武蔵が消えた方へと向く。
「嗤っていました。謂れのない誹りと怨讐の視線を受けて、なおあの人は嗤っていたのです」
畏怖が込められた言葉が風に乗って流れていく。
「私はあの者が恐ろしい」
二人を沈黙が包む。
ツィトスが歩を進めて森人に並んだ。
「確かに私たちに測れる御仁ではありませんが、見境なく剣を振るったり弱者をいたぶるような事はしないでしょう」
ツィトスは敢えて要点をずらした。森人は反応せず独り言のように言葉を続ける。
「武蔵は灰狼に襲われていた娘を偶然通りがかった事から助け、その後も世話をしていたのです」
「はい」
その話はツィトスの耳にも届いていた。確か屋台広場で菓子麺麭を売っている娘であったか。助けた後も灰狼に再び襲われぬよう面倒を見ていたと聞いていた。
「他にも冒険者に請われて灰狼の長を討ち女性を救いました。武蔵は善き性を持っているのは確か。しかし私にはそれだけに思えないのです。悪しきと言うのとは違う。もっと業の深い何か」
「分かりますよ、貴女が言わんとしている事はね」
長い睫毛が翠の瞳に翳りを落とし、伏し目がちに地面を見ながら適当な言葉を探して思案する麗人へツィトスが頷いて見せる。
「あの人の心の奥には燃える様な闘いへの欲求があるのではないかと思われます、いや欲求なんて生易しいものではないな、飢餓です。普段はそれを強靭な精神で抑え込んでいるが、ふとした拍子に表に現れ出でる、そんな印象を受けました」
青年の言葉を黙って聞くリグテュスの目には同意の色があった。
「私には人が、武蔵が分からない。ですが、だからこそ森を出た意味があります。停滞と緩やかな死が支配するあの場所を。人の世界は我々森の精霊人にとって正しく未知の領域であり、そして希望の地になり得ると信じています。伝え聞くのと実際に感じるのとではやはり違うもの、私はここで答えを掴みたい」
拳を握り締め毅然とした態度で言い切った。森人は珍しく全身を使い感情を露わにしていた。リグテュスを見る青年の目に暗い影が宿り、口元には自嘲めいた皮肉気な笑みが形作られる。
「これからも人の持つ負の面を見せつけられると思いますよ、人の世で生きてきた私でさえ顔を背けたくなるような、汚濁に塗れた醜悪で悍ましい面をね。森人である貴女に耐えられますか?」
「覚悟の上です」
曇りのない強い意志の光を乗せた翠の瞳がツィトスを貫いていた。ツィトスにはただ見つめ返す事しか出来なかった。




