肆 衰弱
こちらへ来てから二日目の夜を迎えていた。
昼間に巨大蛭と邂逅してからどれほども進んでいない。
日が暮れる前になけなしの体力で持ち運んでいた木片を擦り合せ火をおこす。
場所は異臭を放つ川と巨樹、どちらからも程好く離れた砂礫の上にした、此処が今夜一晩を過ごす仮宿となる。
そこまでが限界であった、煌煌と顔を照らす篝火の激しく揺れる火の前で疲労と飢え、渇きに屈するように男の意識は沈んでいった。
大きな赤い満月が見下ろす不毛の大地で揺籃に戻った自分が大人と斬りあっている、大人と言ったが青年なのか老人なのか分からない、
これまで自分が討ち果たしてきた男達の顔の様にも見えたし、そうではない様にも見えた。分かるのは自分より大きく強いと言うことだけだ。
大人が振るう剣を小僧になった自分が受けきれず吹き飛ばされてしまう。
起き上がり大人へと向かってゆく。数合打ち合った後、大人の膂力に抗しきれずに弾かれ開いた手から剣が赤く照らされた大地へと落ちる。
すぐさま拾い上げようとするがそこに落ちていたのは今の今まで剣に見えていた自分の右足だった。
片足で立っていられなくなり尻をついてしまう。止めとばかりに大人が鋭い突きを放つ、右足がない自分には避けきれないようにおも
耳の横を何かが通り過ぎた音に意識が瞬時に覚醒する。
男の目が捕らえたのは炎を受けて光陰がよく映し出された口吻を伸ばす巨大蚊の姿であった。
巨大蚊の口から突き出された槍は男の右耳直ぐ横を通り抜けている、無意識でありながら口吻の一撃を避けていた。
男は立ち上がり様、鞘から刀を抜き口吻を断つべく打ち上げる、が鈍い音を上げて弾かれてしまう。
硬さと弾力を併せ持った柔らかい鉄のような手応えであった。
体力が尽き掛けている今の男には断ち切れぬ強さを持っている。
蚊の攻撃は相も変わらず単調なもので、見切ることは容易い事に思われたが、それが難儀なほど男は衰弱している。
見えるのだが躱せない。思い通りに身体が動かなくなるところまできていた。
このまま徒に長引かせれば、早晩深い傷を負うのは目に見えている。今も恐ろしい倦怠感と頭痛に襲われていた。
敵は外だけでなく身体の内にも潜んでいる。
出来うる限り早く倒す必要があった。
二度三度と巨大蚊の口吻が身体を掠める、巨大蚊の口吻はまさしく槍の様で掠めた程度でも容赦なく肉を削ってゆく。
忽ち満身創痍になっていた。
蟲に感情があるはずも無いだろうが、心なしか巨大蚊は何度と無く当たりはするものの口吻を突き立てて血を吸えない事に苛立っているように見えた。
観念しろとばかりに巨大蚊が放った攻撃を避ける為に、身体を捻った勢いで体勢を崩してしまう。
そこを狙ったように巨大蚊から必中の一撃が男の左胸に向かって放たれた。
蚊の口吻が男を貫いたかのように見えた、が貫いたのは肉ではなく男の衣の左脇であった。
口吻を左腕と脇で挟み固定する。
わざと隙を作り蚊の攻撃を誘発したのだ。男の死中に活を求める策は、見事功を奏し巨大蚊が無防備な姿を晒している。
男は残っている気を根こそぎ搾り出すように練る、右手に握る刀に伝わり仄かに光を帯びた。
「が、あああああああああああ」
指一本動かすのも億劫な状態であったが、文字通り最後の力を振り絞り蚊の頭部へと振り下ろす。
蚊も避けようと羽で移動しようとするが口吻を固定されて動きが制限されていた。
刃は抵抗無く頭頂部から入り半ばまで縦断したところで止まってしまう。
男は力を使い果たし俯いたまま身動ぎもしない。
頭部に損傷を負い大地に落下したが巨大蚊はまだ生きている、口吻を強引に引き抜くと再度男に向かって突き出した。
男は微動だにしない、今度こそ巨大蚊の口吻は男の胸に当たるが僅かに潜る事無く力を失った。
羽が軽く震動していたがそれも時期に止み、巨大蚊は活動を停止した。
男の身体も大地に沈み、動くものはなくなった。
篝火の炎だけが揺らめいていた。
身体の底まで凍てつく寒さで目を覚ました。
火は既に消え、燻る火種は夜の寒気に押されていた。
大地と接している場所より温もりが失われていく。
身体は悪寒が走り、頭痛はより酷いものとなっている。
既に空腹感は無くなっていたが、水への欲求は極限まで高まっていた。
口の中が渇きに渇き呼吸する際、空気さえも喉に痞えるようであった。
ここまでか、そう思った。
怪力乱神によって三千世界の何処かへと、盛りの身体を持って跳ばされたが、僅か二日で終わりを迎えようとは。
「くくく」
渇いた口から自嘲が漏れる。
強大なものとの全てをかけた戦いを欲していたが畢竟、戦った相手と言えば巨大な蟲のみ。
予感に昂ぶったのも束の間、今こうして生命の危機に瀕している。
実に滑稽であった。
仰向けになっていた、自ずと空を眺める事になる。
巨大樹の枝葉に遮られて何も見えない筈の空に故郷で見た景色が重なる。
美しい夜空であった。星辰が紺色の帳を背景に、あるものは淡く、あるものは強く輝いている。
このまま星を見ながら逝くのもいいのかも知れぬ。次、目を閉じれば開くことは無いように思われた。
そんな時だった、息をするのも難儀な男に幽かな気配が感じられたのは。